(以下の文章は、2006年3月『信濃毎日』シリーズ「閉ざされた声」に掲載されたものです)
「かつて日本人によって傷つけられた人は今でも生きています。なのに日本人にはまったく反省しないのです」と七九歳の李玉仙(イ・オクソン)は、怒気のこもった韓国語で言った。私が、北朝鮮による日本人拉致事件についての意見を求めたときだ。李はいわゆる元「日本軍『慰安婦』」である。
「日本人は朝鮮人の息子と娘たちをかつて(強制連行などで)拉致したことについては、もう過去のことで時効だと言います。その一方で、北朝鮮が日本人を拉致したことを激しく批判するんです」
李玉仙自身、拉致され「慰安婦」にされた。一九二七年、釜山市内の貧しい家庭に生まれた李玉仙は、一四歳のとき飲み屋に奉公に出された。だが、ある日、路上で朝鮮人と日本人の二人の男性に拉致され、中国・旧満州に送られた。「慰安所」では一日に何十人という男たちの相手を強いられた。何度も逃亡を試みたが、そのたびに捕まり、兵士に激しく殴られ、ときには軍刀で切りつけられることもあった。李玉仙の身体には今も刀の切り傷が残っている。梅毒に感染したとき、水銀を身体にあてて治療されたため、その後、不妊症となった。「慰安婦」生活は三年間続いた。
日本の敗戦後、帰国できず二人の連れ子のいる男性と結婚した。李玉仙は祖国へ帰る決意したのは、子どもを育て上げ、夫が亡くなった直後の二〇〇〇年六月、五八年ぶりの帰国だった。
李玉仙は現在、韓国・ソウル郊外にある「ナヌム(わかちあい)の家」と呼ばれる施設で暮している。元「慰安婦」のハルモニ(おばあさん)たちが共同生活する施設である。現在、ナヌムの家の住人人のうち五人が、「慰安婦」として中国大陸に送られ、戦後も祖国へ戻れず現地で暮し、最近数十年ぶりに帰国した女性たちである。
もう何度も日本での証言集会に出かけた李玉仙の部屋の壁は、その時々の記念写真が所狭しと並ぶ。その中に混じって李自身の二〇歳当時の写真や、結婚した直後、まだまだ幼かった連れ子たちと夫と共に撮った写真、また成長し結婚したその子と孫たちの写真も並んでいる。
李玉仙は言葉を継いだ。
「私たちが解放されてから六〇年になりますが、日本人はまだ心からの反省はしていません。それどころか、強制連行された人たちは自分の意思で日本に来たと言い、私たちが嘘をついていると非難するんです。それは良心がないということです」
「そんなに多くの朝鮮人を拉致しておきながら全然反省しないで、今わずかな数の日本人が拉致されたと非難するのは私には理解できません。もし韓国の被害者たちにちゃんと賠償した後ならともかく、そうせずに今のように相手を非難ばかりしている。もし日本と韓国の立場が逆なら、日本人はがまんできないと思いますよ」
李玉仙が日本での証言集会で、若者たちに「直接被害を与えたわけではないあなたたちには罪はありません」と語りかける。しかし安堵しかけた彼らに李玉仙はこう畳み掛ける。「でも日本国民として、あなたたちにはこの問題を解決すべき責任があるんです」
李玉仙は厳冬でも毎週欠かさず、ソウルの日本大使館前で立つ。もう一四年も続く抗議の「水曜デモ」だ。強制連行の事実を認め、公式の謝罪・補償することを求めて李たちは拳を突き上げる。
「今、日本がやっていることを見ると気持ちが悪くなります」と李玉仙は言う。「日本は私たちが早く死んでしまうことを待っているんです。実際、すでにたくさんのハルモニたちが亡くなりました。しかし私は、他のハルモニたちが全員死んで独りになっても、最後までたたかいますよ」
日本軍「慰安婦」とされた女性たちの多くが貧しい家庭に生まれ育ち、教育を受ける機会もなかった。そのため大半のハルモニたちは文字が読めない。文字に代わる自己表現の手段となったのが絵画だった。創設されてまもない九〇年代前半から「ナヌムの家」のハルモニたちはボランティアの美術大学生の指導で絵を描き始めた。この「連れて行かれる」を描いた金順徳(享年八三歳)もその“優等生”だった。「『慰安婦』たちは金目的で戦地へ行った」という日本政府の主張に怒りを抑えられず、一九九二年に元日本軍「慰安婦」であったことを公にした。「一四、五歳の田舎娘がどうして好きこのんでそんなところ行きますか。もし日本からの『見舞金』を受け取ったら、将来ずっと私たちは『売春婦』呼ばわりされる。だから私たちは自分の名誉をかけて張り合うのよ」と私に語った。
金順徳は一七歳のとき、「日本工場で女工として働ける」という誘いに騙されて中国の上海、南京へ送られ、四年間の「慰安婦」生活を余儀なくされた。この絵は娘だった自分が国花むくげの花に彩られた祖国から日本軍兵士によって強引に引き裂かれ連行される様子を描いた絵である。
帰国後、鉄道助役の「妾」となり四人の子を生んだ。洗濯婦や付き添い看護人などの仕事をしながら育てた子のうち二人は朝鮮戦争や事故で亡くした。
自分の過去を公にするとき、金順徳が最も悩んだのは、子どもたちへの影響だった。公表後、トラック運転手の長男に、「なぜこれまで自分に隠してきたのか」と訊かれた金順徳は、「もし打ち明けていたらお前は赦すことができたのかい?」と訊き返した。息子は「お母さんは自分の意思でやったのではない。歴史は正す方がいいと教わった。私が理解できないとでも思ったのですか」と答えた。しかし嫁から、その後、息子がしばしば放心状態に陥っていたことを聞き知った。
「公表しなかったときは、そのことで心が落ち着かず、公表してからは、息子たちにいつ知られるかとびくびくし、こんど息子に知られてからは、いままでの苦労が悔しくて眠れないのです。いまもうなされて夜中に突然大声を上げることがあります。私はその苦しみを絵に描きました」と語った金順徳。その後、闇の中からやってくる三人の兵士たちの前で裸にうずくまり顔を手で覆う自画像や、十代の少女が亡霊となった絵など、現在も、元日本軍「慰安婦」たちの心情を吐露した作品として残る絵画を次々と描いていった。
何度も来日し、公式謝罪と賠償を訴え続けてきた金順徳が日本政府の対応について、「日本はきれいな国民でいたいわけだよ」と痛烈に批判していた。「自分の国に『慰安婦』問題を残さないために、ありったけの力を振り絞っているわけだよ。『見舞金』というお金は出すつもりはあるが、自分の過去に傷がつくのがいやなんだよ。日本は名誉を大事にしたいんだよ。そんなに大きな罪を犯しておいて、汚点を残さず済まそうとしているんだよ。日本政府も私たちもお互いの名誉をかけて張り合っているんだよ」
金順徳が一〇年も前にそう語っていたことが、現在、日本で現実のものとなりつつある。昨年の教科書検定後、日本の歴史教科書から“元日本軍「慰安婦」”への記述が消えた。また二〇〇一年一月のNHK・ETVの「女性国際戦犯法廷」に関する番組改ざん事件などを機に、メディアによる“元日本軍「慰安婦」”報道がほとんど姿を消した。その一方で、北朝鮮による拉致事件が連日のようにメディアをにぎわしている。そんな日本の現状を金順徳は韓国からどういう思いでみつめていたのか。一昨年六月、恒例のソウル日本大使館前でのデモにでかける朝、金順徳は脳出血で倒れ、この世を去った。
「ナヌムの家」を訪ねる日本人たちは、まず、ビデオ映像を通して一人の元「慰安婦」と出会う。「絵で訴える元『慰安婦』」として知られた故・姜徳景である。一九九二年、最初に元日本軍「慰安婦」であったことを公にした金学順(キム・ハクスン)と並んで日本で最も名を知られた韓国の元「慰安婦」である。その数十枚におよぶ絵画は韓国国内のみならず日本、アメリカ各地で公開され、日本軍「慰安婦」の存在を世界に伝えるシンボルとさえなっている。
その代表作の一つが「責任者を処罰しろ」と題された絵だ。大木に縛りつけられた日本の責任者にハルモニたちが握るピストルの銃口が向けられている。その周囲に白い鳩が舞う。死の一年前、完成したその絵を前にして姜徳景は「ピストルを持つハルモニたちの手で、『責任者を処罰しろ』という要求を表現しました。周りの鳩は『責任者の処罰で日本も平和になるという意味です』と私に説明した。
自分たちを「慰安婦」にし、人としての尊厳を奪った日本とその責任者への怒りを表す姜徳景の絵は他にもある。チマチョゴリを着た娘が苦渋の表情で天を仰ぎながら、右手に握り締めた短刀で日の丸を突き刺す絵「私たちの前に謝罪しろ」。その日の丸から滴り落ちる血の下には、土下座する「責任者」の姿が描かれている。
姜徳景は一五歳のとき、「仕事をしながら日本で勉強できる」という勧誘に騙され女子挺身隊に志願し、富山県の軍事工場に送られた。重労働と空腹に耐えられず、宿舎から逃亡した直後、憲兵に捕まり、山の中で強姦される。その時の様子表現したのが絵「奪われた純潔」だ。桜の花の下で全裸になった少女時代の自分が両手で顔を覆っている。桜の木の根にはたくさんのしゃれこうべが並び、その幹には自分を強姦した日本兵が描かれている。
強姦した憲兵に送られた先は、当時、地下大本営の建設が進められていた長野県松代町の「慰安所」だった。そこで一年半ほど、一日に何人もの男の相手をさせられる「慰安婦」生活を強いられる。四八年後、姜徳景は証言集会に招聘されこの松代町を再訪している。かつて「慰安所」のあった場所に立ち周囲を見渡した姜徳景は「めまいがする」と言って座り込んでしまった。同行した元「慰安婦」の女性に「お姉さん、ここに間違いない。話をできないくらい・・・・」とつぶやいた。そこはまさに姜徳景の人生を狂わしてしまう原点の場所だった。
日本の敗戦直後、船で帰国する途中、妊娠していることを知り、入水自殺を試みようとしたが、同行していた女性に止められた。帰郷する前に滞在先で出産したが、「未婚の母親」となった娘を実家の母親は受け入れてはくれなかった。釜山に働きに出た姜徳景は、まだ二歳になったばかりの息子をキリスト教会の孤児院に預けた。しかし二年後、その子が肺炎でなくなったことを知らされる。「慰安婦」体験の記憶を蘇らせてしまう我が子への屈折した感情、一方でお腹を痛めた我が子を死なせてしまった悔恨、その後、子どもの死は深い心の傷となって生涯、姜徳景を苦しめ続けることになる。
その後、飲み屋の従業員、経営者、米軍基地での運転手、ビニールハウスでの農業労働者など仕事を転々とした。「慰安婦」時代に受けた心と身体の傷を引きずり続けた姜徳景は、結局、結婚を諦め、酒とたばこに溺れる、すさんだ日々を送ってきた。何度か自殺未遂もした。そんな姜徳景が生活に追われる日々から解放されたのは、九二年「ナヌムの家」に移ってからである。
「絵を描く」という自己表現の手段を手にした姜徳景だったが、それも数年後、病魔に奪われる。九七年一月末、肺癌の末期症状に肺炎を併発した姜徳景は危篤状態に陥った。苦しい息のなかで、日本に向けた最後の言葉を私のカメラに向かって残した。
「日本は大きな罪を犯したのだから、罰を受けるべきです。最後まで闘わなければいけない・・・」
来年、歴史教科書から元日本軍「慰安婦」の記述が消える。それは何千、何万人ともいわれる「姜徳景」の身体と記憶に刻まれた体験、それを背負って生きた数十年の人生の辛苦を、私たち日本人が無視し忘れ去ることを意味する。
夕食後、「ナヌムの家」の食堂で、一人の青年が中国帰りの李玉仙(イ・オクソン)と向かい合っていた。中国に残してきた家族のこと、他のハルモニ(おばあさん)たちとの人間関係の悩みを語る李さんの話に青年はじっと聞き入っている。唯一の日本人スタッフ、矢嶋宰(35歳)である。3年前、ここに入った当時、まったくできなかった韓国語も、今ではハルモニたちと冗談を言い合うほど上達した。「ナヌムの家」の日本軍「慰安婦」・歴史資料館を訪ねてくる日本人は年間1000人を超える。その日本語ガイドが矢嶋の仕事だ。ハルモニたちが日本での証言集会に赴くときは矢嶋が付き添い、通訳を務める。一方、フリーのカメラマンとして韓国や中国、台湾に残る元日本軍「慰安婦」たちの写真を撮り続けている。その写真の一部は、2005年春、日本のある写真雑誌の「国際フォトジャーナリズム大賞」で「女性ドキュメンタリー賞」を受賞した。
「無条件に日本を肯定するタイプだった」という矢嶋は、大学時代、アジアの留学生たちとの交流で初めて日本の“負の歴史”を知った。自分の中にあった日本のイメージが音を立てて崩れた。それから日本の侵略戦争や植民地支配の“爪痕”を訪ね歩く矢嶋の旅が始まった。
性差別、性暴力に矢嶋が目を向け始めたのも学生時代だった。警察官だった父親が「母親に支配者然と振舞う」姿や、学校やアルバイト先で上司や先輩の男性たちによるセクハラにさらされる女性たちの現状に居たたまれなくなった。自分の中にもある「女性に対する暴力性」、その象徴である家父長制度への疑問と反発が膨らんでいった。
巨匠、セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー写真に触発され、矢嶋はフォトジャーナリストを目指した。大学卒業後、写真学校へ通い、大手新聞社の嘱託カメラマンになったが、フリー・カメラマンになる夢を実現するため、2年で退職した。だが、「生活のための仕事」に追われ悶々とする生活が続く。そんな矢嶋の転機となったのが、2000年夏、韓国への旅だった。初めて「ナヌムの家」の元日本軍「慰安婦」たちに出会ったとき、自分の撮るべきテーマはこれだと思った。「やりたいことを自分の生活そのものに合わせていく」ため矢嶋が選んだ道が、スタッフとして「ナヌムの家」のハルモニたちの中に飛び込むことだった。「自分の関わりたい問題の中にいる人びと直接触れ合い、話を聞くことができる場所、その女性たちがどのような思いを抱いているのかを肌で感じ取り、理解できる場所に自分の身を置くことがいちばんいいと思った」と矢嶋は言う。2003年春、日本での生活をすべて整理して渡韓、電子辞書を片手に、元「慰安婦」のハルモニたちとの生活が始まった。
「ナヌムの家」を訪ねてくる日本人たちのガイドを務めて3年。矢嶋は「ナヌムの家」を、訪ねてくる日本人たちの“自己浄化”の場にしたくないと言う。「つまり、『ナヌムの家』を訪ねハルモニたちに会うことを、『自分は被害者に会い、日本の戦争責任ときちんと向かい合った』というふうに“免罪符”にしてほしくないんです」。「ナヌムの家」でハルモニたちと出会うこと自体が目的になるのではなく、その日本人たちがその後、この出会いをきっかけにどう日本に行動していくのかという出発点してもらいたい、そのために自分は何を、どう伝えればいいのか、矢嶋は悩み続けてきた。
この春、彼は「ナヌムの家」を去り、友人のいるドイツに移り住む。昨年、訪ねたドイツで、この日本軍「慰安婦」問題は、平和博物館に勤務する職員さえ知らないことに衝撃を受けた。この問題を「ホロコースト」のように、一般市民のレベルまで浸透し共有されるテーマにしたい、そしてこの問題を拒絶し続ける日本にヨーロッパから“逆輸入”したいというのが矢嶋の夢だ。
元日本軍「慰安婦」のハルモニ(おばあさん)たちを日韓の学生たちが囲んだ。とつとつと語られる「慰安婦」時代の体験談。聞き入る日本人の女子学生の目から涙があふれ出た。
「もし自分がそうされていたらと考えると先がわからなくなる。怖い」。大阪の女子高校生が言った。「知らなければと思うけど、こんなひどいことをしたのかと思うだけでしんどくなる。(ハルモニの体験を)受け止めなければと思いながら、受け止めきれない自分がいる」
「被害者のことを想像する力が私になかったのではないか」と吐露したのは大分県で福祉の仕事をしながら平和運動を続ける二六歳の女性だった。「『慰安婦』という言葉に慣らされ理解したような錯覚に陥っていたのではないか。その人たちのことを想像してこなかったのではないか」と自らに問う。
今年二月中旬、元「慰安婦」たちの施設「ナヌムの家」で「歴史」「人権」「平和」をテーマに日韓学生たちが討論する一週間のワークショップ、「ピースロード(和平への道)」が行われた。三年前から毎年夏と冬の二回ずつ開かれてきたこのワークショップも今年で八回目を迎える。ナヌムの家の施設「歴史館」見学、元「慰安婦」たちの日本大使館前での「水曜デモ」への参加、そのための横断幕作り、ハルモニたちとの対話や交流などを通して、日韓学生たちが「私と『慰安婦』問題」、「性暴力」、「反日感情」などさまざまなテーマで討論を重ねていく。
なかでも白熱したのは「反日感情」に関する議論だった。前日、参加者たちはソウル市内にある植民地時代の拷問や暴行を再現した西大門刑務所を見学した。そこで日本人学生たちが目にしたのは、壁いっぱいに書きなぐられた落書きだった。「独島(竹島)は俺たちのものだ」「日本政府は大嫌い!」「日本は地獄へ落ちろ」「テメラ ゆるさない」などといった韓国語、英語、日本語の文字に日本の若者たちは大きな衝撃を受けた。
「もし謝罪と補償、竹島問題、靖国問題が解決したら、韓国の人の反日感情は変わるだろうか」と、討論の中で日本人学生が問いかけた。すると、「そんな未来ことをどうわかれというのか」と韓国人学生が憮然とした表情で答えた。
「でも訴えているわけではないですか、賠償しろと」
「過去の問題は過去の問題として解決されなければならない。私たち若い世代がどうするかはそれ以後の問題です」
元日本軍「慰安婦」問題について関心と認識を共有し集まったはずの日韓の学生たちの間にも、“反日感情”に関しては理性を超えた反発がある。
その一方、日本人側から韓国人学生たちへの反発もあった。韓国はベトナム戦争時代、派兵し現地の多くの住民を殺害・暴行を加えた“加害の歴史”をもちながら、なぜ日本だけを責めるのかという声だ。矢嶋さんらスタッフたちはこの問題を正面から議論することにした。
「韓国のベトナム人への加害の問題と日本と韓国との関係は別問題」「韓国の加害を責めても、日本人の蛮行の歴史がなくなるわけではない」という韓国人学生の間からの反発の一方、「反日感情を自分たちの人気とりに利用している」と自国の政府や政治家を批判する声が韓国の女子大生から出た。「国家にとって、『外部の敵』と『国内の英雄』ほど国民を先導できるものはないのだから」というのである。
いずれにしろ、「お互い悪い」「両国ともきれいな国民でない」といった議論で日本人が胸をなでおろしても、日韓の将来に明るい展望は開けない。ましてや「反発しあう日韓の若者たちが対話すれば、和解できる」といったナイーブな幻想は問題の本質から目をそらさせてしまう。
かつて日本が朝鮮半島を植民地支配し、その過去の清算をきちんとしてこなかった両国関係の歴史と現状の“構造”と、そのために戦後60年経ても対立したままの現実を見据えなければ、先へ進めないのだ。「対立関係にあるという現状を認識することが、新たな関係の再構築のスタート」と、矢嶋さんはこのピースロードを締めくくった。