破壊跡と入植地跡
7月25日(火)
朝から車をチャーターして、6月25日以来、イスラエル軍が破壊した発電所や橋を回った。当時、BBCのリポーターは海岸道路の破壊された橋の現場で、「この破壊は、拉致された兵士がガザ北部へ移送されることを防ぐため」と報じた。しかし現場に来てみると、それは明らかに嘘であることがわかる。破壊された橋の横には、ほとんど水量のない乾季の夏には自由に通れる車道がちゃんとあるからだ。雨季の冬には海に大量の水が流れ込む川となるため車は通れなくなるが、夏場は陸続きで通行に問題はない。ガザ地区を南北に走る幹線道路サラヒディーン道路の破壊された橋も同様だ。その横には舗装はされていなが大きな道があり、車は自由に行き来している。イスラエル軍は、北部と南部をつなぐ道路の4つの橋を破壊しても、捕虜となったイスラエル兵の北部への移送を阻止できないことぐらいわかっていたはずだ。見事なくらい正確に橋だけが破壊されている。これほどの命中率があるのなら、その横を走る道路も確実に破壊できたはずなのに、そうしなかったのだから、BBCの報道は明らかにおかしい。イスラエルによる住民への威嚇と嫌がらせの報復としか考えられない。
これら破壊された複数の橋は、海外の援助で建設されたもののはずだ。援助したインフラがイスラエル軍に破壊され、まったくその援助が無駄になっても、支援国はイスラエルに抗議することも、補償を要求することもない。日本が一部を援助したパレスチナの空港が破壊され使用不能になったときもそうだ。その援助は私たちの税金なのだから、国民もそれが破壊され支援が無駄になったことに怒らなければならないはずなのに、まるで遠い世界の他人ごとだ。
橋と同じ時期に破壊された発電所を訪ねた。ガザにこれほど巨大な敷地と最新の設備を備えた発電所があることを、長年ガザに通い続けている私も知らなかった。1999年にパレスチナ人とアメリカ人の実業家によって建設されたという。これまでガザ地区の電力の70%近くを供給してきたと、発電所のエンジニアが説明した。しかしメディア報道ではほぼ50%と伝えられている。残りはイスラエルから送電される電気に頼ってきた。この発電所が破壊された今は、ガザ住民は完全にイスラエルの電気に依存している。もしイスラエルがガザ住民に電気のない生活を強いることで報復しようとするのなら、イスラエルからの送電を止めれば済むことで、発電所を破壊しなくもよかったのだ。
空爆で破壊された大型変電機は6基。それらが横並びになり、各々ブロックの壁で仕切られているが、これも見事なまでに壁は無傷のままで、6基の変電機だけが焼け焦げている。パレスチナ人の作業員たちが、破壊された機械を取り外す作業にかかっていた。焼け焦げた配線ボックスから無数の電線を無造作に引き千切っていく。もう修復しようないほど完全に焼けてしまっている。海外からこの大型変電機を取り寄せ、再び発電できる体制に復旧するまで、最短でも6ヵ月はかかるという。おそらくイスラエルはその機械のガザ地区への搬入をすんなりとは認可しないだろう。そうなれば、停電が断続的に続く不自由な生活からガザ住民が解放されるのはずっと先になる。
1年前までハンユニス市からユダヤ人入植地へと続く唯一の通路となっていたトファーフ検問所。入植地の先のパレスチナ人地区マワシで暮す人々にとって、学校へ通うにも、街に買い物に出るにも、病院へ通うにも、ここを支配するイスラエル軍に何時間も待たされ、屈辱的な検問を受け、ときには何日も通行を拒否され立ち往生させられた、まさに“魔の検問所”だった。2001年12月、近くで起こったイスラエル軍による100軒を超える家屋破壊の直後、私は、住民が必死に瓦礫の中から生活用具を捜し出している現場を無我夢中で撮影した。その数日後、私がこの検問所を通過してマワシ地区に入ろうとしたとき、兵士がプレスカードを差し出す私に、「君は数日前、カメラを持ってあの現場にいただろう。もし外国人であることが判別できなかったら、撃っていた。今後、気をつけるように」と警告した。ぞっとした。そんな苦い思い出のあるトファーフ検問所の後にはイスラエル軍のトーチカの瓦礫が残るだけだ。ここを通過するために何時間もかかった同じ場所を、今、私はチャーターした車で、誰に妨害さえることもなく、1,2分で通過している。もうユダヤ人入植者もイスラエル軍もここにはいないことを実感する。感無量だった。
ちょうど1年前、入植地撤退の直前、取材で入ったネバディカリム入植地。当時はまだ芝生に囲まれた家々が立ち並ぶモダンな“街”だった。しかし今は、沿道に瓦礫の山が連なるだけだ。ユダヤ人の存在を誇示するのような巨大なダビデの星の形をした宗教学校も、今は天井の梁だけを残す廃虚となった。まさに「つわものどもが夢の跡」だ。
唯一、原型を留めているのが、かつてグシュカティーフ入植地群の市庁があった官庁街だ。入口前に「アルアクサ大学」の看板が立っていた。中に入ると、入植地時代の建物が改築され、きれいに塗り替えられている。かつての市庁は大学の本部に、スーパーマッケトは学生たちのクラブ活動の部屋に、さらに小学校はそのまま大学の教室に変わっていた。ちょうど1年前、撤退取材のために、ここにはたくさんのジャーナリストたちが集まり、撤退準備に追われるイスラエル兵や警察官たちがたむろしていた。しかし今は、同じ場所をパレスチナ人学生たちが自由に闊歩している。ほんの1年なのに、“今浦島”になったような気分だ。
ユダヤ人入植地撤退から1年、入植地跡だけは大きく様変わりした。しかし、ガザ住民にとって、“小さな牢獄”から“大きな牢獄”に変わっただけで、捕囚の生活には変わらない。いやむしろ、捕囚の締め付けは強まるばかりだ。