Webコラム

2006年夏・パレスチナ取材日記 20

1ヵ月半ぶりに開いたラファ国境

8月10日(木)

 6月下旬以来イスラエルによって閉鎖されたままのラファの国境が「今日こそ開く」という情報が流れたのは、現地の知人によればこの1ヵ月に少なくとも5度はあったという。そのたびに海外に仕事を持つガザ出身者、留学する学生、ガザでは治療ができずエジプトで手術や治療を受けるために渡航しなければならない人々、海外で暮すガザ地区出身者たちが、夜明け前からラファの国境前に集まった。しかしそのたびに「国境が開く」という情報は覆され、たくさんの重い旅行バッグを抱えて、彼らは出てきたばかりの家に戻らざるをえなかった。
 早朝7時過ぎ、「今日こそ間違いなく開く」と私に電話をしてきたのは、ラファに住む私の通訳だった。さっそく準備をしてラファ市へ向かい、そこで通訳と待ち合わせ、国境への車を捕まえた。
 いつも閑散としている国境前の通りは、数百メートル手前から荷物を山ほど積んだ車の列が渋滞して前へ進めない。私たちはタクシーを降りて歩くことにした。多くの旅行者たちも立ち往生した車から旅行カバンを降ろし、それを引きながら、歩いて国境へ向かって歩いた。避難民の大移動のようだった。
 国境前の広場は旅行者やそれを見送る家族でごったがえし、人垣をかき分けないと前に進めないほどの混雑ぶりだ。パレスチナ側パスポート審査の建物の周囲と広場は人で埋め尽くされた。8時過ぎだが、シナイ半島の砂漠に近いラファの日差しは強く、気温はゆうに30度を超えている。建物の中にも入れず、強い日差しの下、大きな旅行バックの上でぐったりとなっている子どももいる。老人たちも、いつ手続きができるかわからないまま、汗をかきながら地面に座ってじっと待っている。
 何人かに話を訊いた。アラブ首長国連邦のドバイで仕事をしているが、仕事復帰が1ヵ月以上も遅れて、まだ仕事があるのかどうか不安という男性、もう5回もこの国境へ来たという。エジプトへ手術を受けに行くという男性もいた。1日も早い治療が必要なのに、国境を越えられなかった。ガザ地区で手に入らない薬をもらいに行くのだという老女、ドイツの大学に留学中で1日も早くも戻らなければという学生・・・・、それぞれ切羽詰った事情で越境を待ち続けていた。
 10台を超す救急車が国境へのゲートを通過していった。エジプトへ治療に向かう重病患者を乗せている救急車だった。
 近くの建物屋上へ登った。ラファ市から国境への道は見渡す限り、車と人で埋まっている。もう1キロは優に超している。パレスチナ側出国手続きの建物もさらに膨らんだ群集で取り囲まれている。国境に集まった人の数はもう数万にも及んでいるだろう。
 ちょうど12年前、私は同じ場所で同じような光景を目撃していた。94年5月、「和平交渉」によってパレスチナ警察がガザ地区に入ってくるときだ。パレスチナ自治の開始によって27年間のイスラエル占領から解き放たれるという喜びを抑えきれない群集が、パレスチナ警察の到着を今か今かとこの国境で待ち続けた。今日と同じように、ここへ続く道路は見渡す限り群集と車で埋まった。予定は1日、1日と引き延ばされた。しかし夜になっても群集はここを立ち去らなかった。私はその群集の興奮する表情をみつめながら、占領の圧政のなかでこの27年間、人々がどれほど苦んできたのか、またその占領からの解放に民衆がどれほど喜び、大きな期待を寄せているのかを目の当たりにする思いがした。
 それから12年、私は再びここで大群衆を目にしている。しかしその理由はかつて彼らが期待したものとはまったく違った事情によるものだった。“封鎖”という新たな“占領”のために、人々はここに群がっているのだ。いったいガザ地区のパレスチナ人にとって、この12年は何だったのか。

 国境が開いたのは午前10時だった。ヨーロッパ監視団とPAによる出入国手続きが行われる建物へ続くゲート前には、車体の屋根や後方に荷物が山積みされた黄色いタクシー(それ以外の車は敷地内に入れない)が長い列をつくる。1台が通過するのに十数分がかかり、列は遅遅として進まない。暑い日差しの中で待ち続ける何千という渡航者たちの苛立ち、叫ぶ声があちこちから聞こえてくる。おそらく渡航者全員をこの日のうちに国境通過させるのは難しいだろうなあ、と思いながら、私は3時間ほど取材した現場を昼前に後にした。
 「午後1時半ごろに再び国境が閉鎖された」という情報を友人から聞いたのは、午後2時過ぎ、ハンユニスに戻ってからだった。イスラエル側が「セキュリティーの理由」で、急に国境の再閉鎖を命じたというのだ。炎天下で待ち続けていた、あの渡航者たちが汗まみれになり、パレスチナ側の国境を警備する警官に向かって怒り叫んでいる声と姿が脳裏に浮かんだ。早朝からあれほど辛い思いをして待ち続けた渡航者たちの苦労はいったいなんだったのだ。どうしてこれほどむごいことができるのか。
 「セキュリティーの理由とは何だろうか」と私は友人に訊いた。「数キロ離れたところでパレスチナ側からの銃撃があったらしい。それが原因なのかもしれないが、はっきりしない。しかし、これがイスラエルのやり方なのさ。こんな手段でパレスチナ人を『懲罰』しようとしているんだよ」と友人は答えた。「こういうことがイスラエルへのパレスチナ人の怒りと憎しみをいっそう掻き立てるんだ」
 “占領下で生きる”とは、こういう日常の出来事の積み重ねなのである。

次の「2006年夏・パレスチナ取材日記」へ