“村に残り続ける”闘い・ヌーマン村再訪
8月18日(金)
ヌーマン村を再訪した。今日は休日の金曜日、しかも早朝8時前にエルサレム郊外のオム・トゥーバ町まで出るバスはありそうもない。ダマスカス門前からタクシーを使うことにした。15分ほどで、2日前、猛暑の中を汗まみれで息を切らして登った坂道の上まで一気に到着した。それで「50シェーケル(約11ドル)は決して高くない」と、同行した堀越上人が言った。
再訪の目的は、1年半前にインタビューした2人の村人から、この間、とりわけ分離フェンスとゲートが完成した後の村人の生活に起こった具体的な変化を聞き出すためだった。
まず村の子どもたちの通学が分離フェンスによって大きな問題を抱えることになった。親がヨルダン川西岸のID(身分証明書)しかないため、子どもたちは、谷一つ隔てた隣村にあるヨルダン川西岸の学校へ通っている。しかしその谷に分離フェンスができたため、毎日、イスラエル兵が警備するゲートを通過しなければ登校できない。そのイスラエル兵の嫌がらせが絶えないという。ゲートを通過する条件として、兵士の前でダンスをさせられた子どもたちもいる。また幼稚園へ通う小さな子どもたちは、これまでスクールバスで通園していたが、イスラエル兵がバスの通行を許可しないために、幼い脚で歩かなければならなくなったという。
毎日のゲート通過でさまざまな嫌がらせを受けるのは子どもたちにだけではない。ベツレヘムやベイトサフールなど近郊の町へ仕事に出る村人たちは、身体検査や荷物検査、車両の検査などで長時間待たされ、仕事に遅れてしまうことも珍しくないと村人は証言する。中には車のシートまで取り外させられるケースもあるという。
1年半前にこの村の若い夫婦を取材した。ベツレヘム地区の学校教師である夫ニダール(当時30歳)は、その8年前にヨルダン生まれのシハーム・マフムード(当時26歳)と結婚した。身分を証明するものはヨルダンのパスポートしかなかったシハームは、結婚直後に夫や他の村人と同じようにヨルダン川西岸住民としてIDの発行をイスラエル側に申請した。しかし8年経った当時もIDは発行されないままだった。イスラエル軍の検問所の通過は拘束される危険があるため、シハームは、ときどき村周辺にやってくるイスラエル兵の検問を恐れ、できるだけ移動を避けていた。
結婚が決まった直後、夫のニダールは家の新築を決意し、エルサレム市当局に建築許可を申請したが、拒絶された。パレスチナ人居住区の多くが、家の建築が禁じられる「グリーン地区」に指定される。家族が増えたため、また結婚のために増築しようとしてもできないのである。これは“エルサレムのユダヤ化”の一環で、ユダヤ人とパレスチナ人の人口比率を約7対3のまま維持するためにパレスチナ人人口の増加を阻止する一手段である。
結婚のためには他に手段のないニダールは新居の建設を強行した。これに対し市当局は5万シェーケル(約125万円)の罰金を課した。ニダール夫妻はそれを毎月500シェーケル(約1万3000円)ずつ支払っていかなければならなくなった。支払日を1日でも遅れると罰金は2倍の1000シェーケルになってしまう。ニダールの月給が5万円にも満たず、しかも彼が教師を務めながら大学院の通信教育を受けていた4人家族には重過ぎる負担だった。罰金の支払いはエルサレムでないとできない。しかしエルサレムのIDのないニダールは出向くこともできない。だからエルサレムの学校へ通う15歳の甥(母親がエルサレムIDを持っているため特例として認められている)に毎月支払いを委ねなければならない。全額を払い終えるのに2011年までかかる予定だった。
そのニダールの家が突然、イスラエル当局に破壊されたのは今年1月だった。破壊する直前、警察はニダールに家具など家財道具を家から出すように命じたが、家の破壊そのものを受け入れられないニダールはそれを拒否した。その直後、建てて10年にも満たないニダールの家は、家財道具と共に瓦礫の山となった。
それで話が終わったわけではない。兄のユセフによれば、ニダール一家は家が破壊された後も罰金500シェーケルを毎月支払い続けているという。
1年半前、ある人権活動家はヌーマン村の事例について、「イスラエルは分離フェンスで村人の生活を困難にして村から住民を追い出すことで、ヌーマン村を“住民のいない土地”にし、そこにさらにユダヤ人入植地を拡張しようとしているのです」と説明した。
ヌーマン村の200人ほどの村人たちはイスラエル当局による“静かな住民追放”(村委員会の代表ジャマール)と、孤立無援の中、“村に残り続ける”という行為で、今も必死に闘っている。