2007年1月1日(月)
今年も新年を愛知県三河の小さな漁港の町の神社で迎えた。私の連れ合いの実家があるこの町で新しい年を迎えるのは3度目である。時計が夜中の12時を過ぎる頃、この町の神社、八幡社の境内には初詣する住民たちの長い列ができた。年配の人たちだけではない。若い世代、子どもたちも多い。多くの地方の町と違って、この若者たちは、正月を故郷で迎えるために大都会から一時帰省した人たちではない。この町の近くには大企業トヨタの工場やその下請け工場など働く場所も少なくないために、故郷に残る若い人たちが大半だという。
老若男女が神殿前にたどり着くと、賽銭箱に硬貨を投げ入れ、拍手を打ち、神棚に向かって深々と頭を垂れて祈る。日ごろ神社などとは縁もない私もこの日ばかりは、神棚に向かって神妙に手を合わせ、投げ入れた賽銭の額とはまったく不釣合いな、とてつもなく大きな願い事をする。
私は、この神社が奉る神道に信仰心があるわけでもない。ただ幼い頃から慣れ親しんだ日本の風習、文化であるこの初詣の雰囲気が好きだし、気持ちがなんとなく浮き立つ。
だが周知の通り、神道の“神”は天照大神、現天皇の先祖とされる「存在」だ。つまり神道は天皇制の根幹で、神社に詣でることはその“神”とされる“天皇の先祖”に手を合わせ天皇制を崇拝し受け入れることを意味する。そう言われれば、神社への初詣も、私などは躊躇せざるをえなくなる。しかし、そんなことを考えて初詣をしている国民は、ほとんどいないだろう。
だが一方、それを「考え、計算し、狙っている」政治家たちがたしかにいる。長い日本の歴史の中で根付いてきた民衆の伝統文化への素朴な想いを、為政者たちが天皇制を中核とする国家体制固めに利用し、国民を侵略戦争に巻き込んでいった歴史を私たちは持っているのだ。しかもそれは過去だけのことではなく、“靖国問題”や“教育基本法”の改悪による「愛国心の強制」に象徴されるように、再び、以前の国家体制作りの準備が着々と進められている気がしてならない。初詣に長い列を作り、神棚に一心に手を合わせ祈る民衆の素朴で純粋な行為が、為政者たちによって、「愛国」の名の元に利用される日が着実に迫っているのではないかという危機感である。
私の連れ合いの祖母は、今年91歳。この世代の日本人の多くがそうであったように、あの侵略戦争でその人生を狂わされた国民の一人である。
24歳で3歳年上の漁師に嫁いだ。その夫はそれまで2年間中国大陸に出征し帰国したばかりだった。1年後、長女が誕生した。しかし夫に再び赤紙が届き、再度出征した直後、生後7ヵ月になる長女は肺炎で入院した病院で急死した。出征した夫は不在で迎える車もなく、祖母はその遺児を背負い、遺体であることを隠すために深々と帽子を被せ、自転車で3時間かけて自宅に運んだ。背中から伝わってくる、冷たくなり硬直し始めた愛児の遺体の感触が65年近く経った今も忘れなれないと祖母は言う。祖母はそのとき、次の子を宿していた。それが連れ合いの母である。
夫は中国大陸を転戦したのち、戦局が悪化した南洋諸島に送られた。そして出征から4年後の昭和20年7月、南洋諸島の1つ、ブーゲンビル島で戦死した。生き残った戦友の話によれば、当時、夫のいた部隊には食料がなく、兵士たちは次々と飢えで死んでいったという。戦死した夫の「戦死の証拠」として渡された白木の箱の中に入っていたのは、ただ夫の名前が書かれた1枚の小さな板切れだけだった。
26歳で未亡人となった祖母に残されたのは、夫の老いた両親と父方の祖母、そして3歳になったばかりの娘だった。漁師だった義父はその2年後、脳溢血で倒れ半身不随となり、働けるのは祖母一人となった。近くの農家の手伝いや臨時の線路工夫などの仕事で必死に働き、女手一つで老人と幼子だけの一家5人を支えた。極貧状態だった。しかし自分が倒れたら一家は全滅だと自分に言い聞かせ、がむしゃらに働き続けた。
やがて娘は成長し、岐阜の美濃出身でトヨタ系列の工場で働く男性を婿として迎え入れた。生活はやっと安定した。その2人の長女として生まれたのが私の連れ合いである。
祖母は朝夕、夫の位牌が置かれた仏壇の前に座り長いお祈りをすることが日課だ。その仏壇の上に色あせた古い一対の写真が掲げられている。生前の昭和天皇と皇后である。自分の夫を戦地に駆り立てて悲惨な戦死を強い、その後、残された自分の人生を無茶苦茶にした国家、当時、その最高権威者であり、日本をその侵略戦争に導いた政府や軍を統帥する立場にあった天皇の写真を、夫の位牌の上に飾る。私にはその祖母の心理がどうしても理解できない。私はその祖母に訊いた。「自分の夫を戦死させ、自分の人生を破壊したその責任者を憎いと思いませんか」と。すると祖母は答えた。「赤紙一枚で夫を戦地に送り、そしてその夫が戦死し、遺された私たちが生活苦で苦労していても国は何もしてくれなかなかった。そんな国がほんとうに憎いと思った。でも、あの時、戦争をするかどうかを決めたのは天皇ではなく、政府や軍の人たちだったのだから天皇は責められないよ」。
戦勝国アメリカの連合国司令官マッカーサーは、戦争の責任を当時の軍部や政府の一部の首脳たちに全部背負わせ、最高権威者だった天皇の戦争責任をいっさい「免罪」して、戦後日本の占領統治のための要(かなめ)として利用した。そのマッカーサーの言い分を、「歴史の事実」として受け入れさせられた末端の国民。祖母の言葉は、そのことを象徴している。
日本国憲法とりわけ第9条を改悪しようとする勢力は、「この憲法が当時の占領国アメリカから強制されたものだから、自前の憲法を改めて作るべきだ」と主張する。ならば、連合国司令官から強要された、天皇の戦争責任に関する「歴史の事実」を、どうして見直し、ほんとうの史実を明らかにする運動を起こさないのか。
祖母の戦中・戦後の人生と、天皇に関する言及の乖離、理不尽さを目の当たりにするとき、歴史の責任の所在を曖昧にしてしまう日本人の国民性と精神構造と共に、それを教育や情報操作で歪曲する日本の為政者たち、権力者たちの狡猾さをまざまざと見る思いがする。日本の一般国民だけではなく、アジア各国とりわけ中国で膨大な犠牲を強いた侵略戦争の責任者であるA級戦犯が戦後、首相になる国、また、その人物を“政治の師”と仰ぐ孫を首相にしてしまう国、そして、平和憲法の核である第9条を改悪しろという声は上がっても、戦争責任を一切とらなかった天皇家、日本社会の差別構造の根源ともいわれる天皇制の存続を保証する条文にはほとんど改正の議論を起こせない国。
この日本に生きる自分は、一人の“伝えることを生業とする人間”として何をなすべきか、どう生きていくべきか。2007年の元旦の朝、連れ合いの実家に近い三河湾の海を独りみつめながら、私はじっと考えていた。
その結論の1つが、公開を前提とする日誌に、自分の目に映るもの、耳に聞こえるもの、それが自分の心に投影したものを書きなぐり、伝えていくこと、だった。いつまで続くかわからないこの「日々の雑感」は、そういう動機で、今日から私のホームページに連載していく。
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