2007年1月30日(火)
ずば抜けた知性と思想をもった、いわゆる“天才”とはこういう人のことをいうのだろう。ドキュメンタリー映画「チョムスキーとメディア」を観ながら、改めてそう思った。「改めて」というのは、1980年代後半、私がアメリカ国内でユダヤ人、パレスチナ人の取材をしていたころ、直接、ノーム・チョムスキーの講演を聞いたこともあり、また彼の発言や主張も活字や映像の部分的には見聞きし、いくかは知っていたから、何も真新しい出会いというわけではなかったからだ。しかし、25年間、120時間の素材の中から選び抜かれた映像を通して、これほど体系的にチョムスキーの思想と知性に触れると、やはり“天才”なのだとつくづく実感する。
若くして言語学の分野で革命的な業績をうち立て、“言語学界のアインシュタイン”とまで形容されるチョムスキー。しかし私が関心を抱くのは、そういう研究分野での彼ではなく、世界の社会問題や政治問題に対して反権力、弱者の側に立ち続けるチョムスキーのその一環した思想と行動である。
3時間近いこの映画の初めの部分、延々と続くチョムスキーの語りに少々、眠気を感じていた私が、いっぺんに目を覚めたのは、ポルポト政権時代のカンボジアでの虐殺と東チモールでの虐殺に対するアメリカの主流メディア、とりわけ『ニューヨーク・タイムズ』紙の報道の量と質の歴然とした差とその理由を、歴史的な映像などを交えて論証していくあたりからである。実際、新聞記事の長さを、紙ロールを広げてその差を視覚的に見せていく手法で、見る者を有無を言わさず納得させていく。「アメリカの敵、共産主義勢力」の一部であるポルポト政権の罪悪は、それこそ紙面を尽くして報道していく『ニューヨーク・タイムズ』も、自国の政府が物心両面で支援するインドネシア政府が引き起こした虐殺には、多くの紙面を割こうとしない。それどころか、ポルポト政権のカンボジア虐殺を強調することで、東チモールの深刻な事態から世界の目を逸らさせる意図があったことまで匂わせる。その指摘に反論し否定する『ニューヨーク・タイムズ』紙の幹部、それに対するチョムスキーの反駁、というふうに議論を畳み掛けていく。この映画の圧巻である。
このドキュメンタリー映画の“ネタ本”になっているのは、チョムスキーと経済学者、エドワード・ハーマンの共著『マニファクチャリング・コンセント(合意の捏造)─マスメディアの政治経済学』だ。試写会で配布された資料によると、この著作はアメリカのような「民主主義国家」でマスメディアが政府、大企業という支配層のプロパガンダに奉仕しているという内容だという。その中でチョムスキーは、あらゆるニュースはマスメディアが構造的にもつ5つのフィルターを通して伝えられると指摘している(試写会・資料を参照)。
この映画はチョムスキーがアメリカのマスメディアについて指摘しているのだが、日本のマスメディアについてもそのままあてはまるのではないか。「広告に合った『心地よいもの』が求められる」テレビ界の現状、マスメディアの自主規制、北朝鮮報道に象徴されるような「内なる味方と外の敵という単純な二分法つくり」などは、まさにそうだ。
チョムスキーへのインタビューを3時間も延々と聞か見せる地味なこのドキュメンタリー映画が、公開時には、カナダの劇場用ドキュメンタリー映画の興行収入における第一位を記録し、サンフランシスコにおける劇場公開時に、当時の全ての公開作品中で公開後第一週目の興行収入第二位、さらにパリで劇場公開されたこれまでのカナダ映画のうち最長興行記録を樹立(2年以上)など、欧米社会で大きな評価を受けたという。しかし日本では「1993年に山形国際ドキュメンタリー映画祭」に招待されたものの配給が決まらず、このたび初めて劇場公開される」(作品解説)という。1992年の公開から15年も経ってやっと劇場公開される。やはりこれも日本の民意の程度を象徴する一例なのかもしれない。
一方、私自身にとっては、自分の取材した結果をマスメディアを通して発表することで生活の糧を得ている一人として、自分の“立ち位置”を再考させられる映画である。
参考サイト:
SIGLO:『チョムスキーとメディア』−マニュファクチャリング・コンセント−
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