Webコラム

日々の雑感 19
パレスチナ・2007年 春 5

2007年3月28日(水)
5年経っても癒えない“生傷”

 ジェニン侵攻で雑貨店と住居を兼ねた家を完全に破壊され、イスラエル軍に連行された状況を私に証言したモハマド・サマーダを探した。通訳のイマードはまずモハマドの弟を訪ね、その居所を訊いた。モハマドはかつて家があったハワシーン地区から、その住民の一部が移り住んだ「新キャンプ地区」に建てられた家で暮らしていることがわかった。訪ねると、奥さんが出てきた。一時避難生活をしていたジェニン市内のアパートに泊めたことのある私のことを覚えていた。夫のモハマドは近郊の村で家建設の仕事に出ているという。さっそくその場所へ向かった。郊外に移り住むパレスチナ人の家を長男アラーらと建設する仕事の最中だった。突然の私の訪問にびっくりした様子だった。両頬にキスをしあうアラブ式のあいさつを交わす。かつて長年イスラエルでの建設の仕事で生活をしていたモハマドにとって慣れた仕事である。しかし腰を痛め、心臓病も抱えるようになった今のモハマドには過酷すぎる労働に違いない。それでも他に仕事がない現状では、選択の余地はないのだとモハマドは言う。
 夕方、帰宅したモハマドを訪ね、カメラを回しながらインタビューした。ハワシーン地区の住居はアラブ首長国連邦の支援で再建されたが、住民が全員元の場所に家を建てられたわけではない。この地区がイスラエル軍によって完全に破壊されたのは、戦車や軍用ジープも入れない細い路地が網の目のように走るこの地区にパレスチナ人の武装勢力が立てこもって応戦し、多くのイスラエル兵が犠牲になったためだったといわれている。つまり戦車も入れないから、地区全体を破壊してしまう作戦に出たというのである。もし以前と同じ状態の地区を再建したら、再びイスラエル軍が侵攻してきたとき、同じ理由で地区全体がまた破壊されかねない。破壊されるかも知れない住居の建設ために援助はできないというのが支援する側の主張だった。そこでこの地区を管理する国連のUNRWAは、侵攻されても家々が破壊されないようにと、戦車や軍用ジープが通れる道幅を確保しておくのが得策と判断した。その結果、あぶれた住民が従来のキャンプ地区と隣り合わせの敷地の「新キャンプ地区」に造られた新居に移り住んだのである。
 「新たな地区は敷地も広く、快適」という当初の話とは違い、新たなハワシーン地区と同様に家々はかつてのように細い路地で区切られることもなく、四方を隣の建物で囲まれるので、ほとんど窓も作れない家になってしまった。その物理的な閉塞感と共にサマーダ一家を悩ましているのは、かつてハワシーン地区にあったコミュニティーの濃密な人間関係から断ち切られた“孤立感”だ。新たな隣人たちになじめず、交流もない。まるで見知らぬ都会の中に引っ越してきたようなものだ。以前は、貧しい中でも隣人たちと訪ね合い語り合う人間関係が大きな安らぎの場となった。心の支えだった暖かなコミュニティーを失ったことが一番辛いとモハマドは言う。できれば、この家を売って他の場所に移り住むことも彼は考えている。

 侵攻で親兄弟と暮らす3階建ての家を破壊され、片手を失った弁護士のイマード・カーセムもサマーダ一家と同様、新キャンプ地区に新居を設けていた。5年前には癒えかけた右腕の先を白い包帯で包み、頬が痩せこけた暗い表情で私のインタビューに応えていたイマード。しかし再会した彼は、見違えるほど顔がふっくらとして、穏やかな表情になっていた。しかしこの5年間の彼とその家族の道のりは決して平坦ではなかった。私のインタビューの直後、イマードは右腕の治療を受けるためにヨルダンに向かおうとした。しかし国境でイスラエル当局に逮捕された。ジェニン侵攻直後、住民の生活を復興のためにリーダーとして奔走したことが武装勢力の指導者と疑われた。右手を失ったことも戦闘で爆弾を投げようとして負傷したとみなされたのだ。結局、イマードはその後3年間をイスラエルの刑務所で過ごした。投獄されたとき妻は妊娠9ヵ月だった。生まれた長女を初めて見たのは、生後8ヵ月後、母親に抱かれて刑務所に「家族訪問」でやってきたときだった。
;{所後、イマードは弁護士の仕事に戻らなかった。各地に検問所が出来、逮捕歴のあるイマードは自由に移動ができないために弁護活動が難しくなったためだ。今はパレスチナ自治政府の仕事についているが、もう1年以上も給与が出ないままだ。
 侵攻がカーセム一家に及ぼした深い影はイマードだけではなかった。母親は侵攻によって家を失い、息子が片腕を失った上に3年も投獄された衝撃で、全身麻痺の状態に陥ってしまった。今はイマードの家の一室で寝たっきりの生活だ。言葉を発することもできない。
 「5年経った今、ジェニン侵攻とは何だったのか」という私の問いに、イマード「あのジェニン侵攻は、家の破壊、殺戮、投獄、その後に続く移動の自由の制限、住民の生活苦など、“占領”というものが全て集約された事件でした」と答えた。
 事件から5年経った。国際社会はもう「過去の一事件」として、忘れ去ろうとしている。しかしあの侵攻によって、生活を完全に破壊され、その後の人生を大きく変えられてしまった住民たちは、その生傷が癒えないまま、そのトラウマに悩まされながら、今も連日のように続くイスラエル軍の侵入と殺害の中で生き続けている。

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