2007年4月4日(水)
5年ぶりのバラータ難民キャンプ再訪
昨日、集会の取材を終え、今日中にナブルスに入るために、タクシー乗り場へ向かった。乗合タクシーに乗り込んだのは午後3時半、しかしタクシーは1時間過ぎても出発しない。満席となる7人の乗客が集まらないのだ。ナブルスとジェニンというヨルダン川西岸北部の2大都市を行き来する人がそれだけ少ないということだ。2時間ほどして、やっと6人の乗客が集まり、1人当たり5シェーケル(1シェーケルは約30円)割り増しし25シェーケルで折り合いがつき、出発した。途中、舗装道路をはずれ、野原に続くでこぼこの道を走る。イスラエル軍の検問を避けるためだろうが、それでも舗装道路に戻った途端、2箇所で検問を受けることになった。1度は全員が車から降ろされ、身分証明書をチェックされた。直行すれば30分ほどで行き着ける距離だが、ナブルス市入り口の検問所まで1時間ほどもかかってしまった。ラマラやジェリコ、ジェニンなど他の都市では市内までタクシーでたどり着けるのだが、ナブルスは郊外の検問所までしかタクシーは行けない。常設の検問所前には、ナブルス市へ出入する住民たちが列を成している。市内へ向かうときは、身分証明書のチェックだけで通過できた。しかし市内から出るときは、持ち物が検査される。夕暮れ時にナブルス市内へ向かう外国人の私を不審がり、兵士が「なぜこんな時間にナブルスへ行くのか。どこに泊るのか。誰と会うのか」などしつこく尋問するのではと心配した。だが杞憂だった。日本のパスポートを見た兵士は、笑顔を見せ、すんなり通してくれた。
私が目指すのは、ナブルス市内ではなく、その先にあるバラータ難民キャンプである。タクシーで20シェーケルもかかる(後で確かめたが、それは外国人料金ではなく、住民も15から20シェーケルを要求されるという)。タクシーを運転する青年が片言の英語で私に言った。「今、ナブルスでの生活はたいへんです。とにかくその日暮らしなんです。今日働かなければ、その日の食費もないんですから。このタクシーだって、他人から借りているんです。私の手取りは50シェーケルですよ」
バラータ難民キャンプの入り口で、電話連絡しておいたモハマドが待っていてくれた。5年ぶりの再会である。坊主頭の姿も以前のままだ。
5年前の3月下旬、私はバラータ難民キャンプに入った。イスラエルのナタニア市内での自爆テロで20人を超す犠牲者を出した直後から、イスラエル軍は西岸の都市の再占領に乗り出していた。ラマラが再占領され、ナブルス市への侵攻も迫っていた。イスラエル軍の侵攻をパレスチナ側から取材するため、真っ先に標的になることが予想される抵抗の拠点、バラータ難民キャンプに住み込むことにしたのだ。私を受け入れてくれたのがこのモハマドだった。当時、32歳で独身、ナブルス市にある名門ナジャバ大学を卒業した後、航空管制官の勉強をするためにモロッコへ留学したが、帰国後、第2次インティファーダでガザの空港は破壊され、就職の当ても消えた。だから私が出会った5年前は失業中だった。私がバラータ入りして数日後、イスラエル軍はバラータを包囲した。結局、私は2週間、電気も水道も切られたこの難民キャンプのモハマドの家に寝泊りし、取材を続けた。いつイスラエル軍がキャンプ内に侵攻してくるかという恐怖心、外から戦車の攻撃、空から戦闘ヘリコプター「アパッチ」の攻撃に脅えながら過ごしたバラータでの2週間は、私にとって忘れられない思い出である。
「あれからバラータは変わった?」。入り口からモハマドの家へ向かう途中、私は彼に訊いた。「昔のままだよ。何も変わってはいない」。私は37歳になるモハマドはすでに結婚し、新たな住まいを構えているに違いないと予想していた。「変わった?」という私の問いかけには、そういう意味も含まれていたのだ。しかし「何も変わっていない。昔のままだよ」という返事に、彼がまだ独身のままであることを察知した。しかし敢えて「結婚は?」と訊かなかった。それは50歳まで独身だった私自身が、いつも周囲からそう尋ねられ、辛く惨めな思いを嫌というほどさせられてきたからだ。とりわけ30歳を過ぎた男性が未婚であることは異常な目で見られるパレスチナ社会では、37歳になっても結婚していないモハマドへの圧力は私の比ではないだろう。しかも彼は長男である。
モハマドは通りを歩きながら、すれ違う住民や通りがかりる店ごとに「マルハバ、ハビビ! ケファラク?(やあ、相棒、元気かい?)」と声をかける。2万5千人ほどの住民が1キロ四方ほどの狭い地区で押し合うように暮らすバラータには、ほとんどが知り合いか親族のような親密な人間関係がある。かつてのガザ地区ジャバリア難民キャンプがそうだった。しかし、オスロ合意以後、キャンプに立派な建物が建ち並ぶようになってから、ジャバリアの人間関係が希薄になっていくのを、十数年通い続けた私自身が目撃してきた。私が長年住み込んだ一家の長男バッサムも、昨年夏、「住民は以前よりよくなった生活環境と引き換えに、豊かな人間関係を失っていっている」と嘆いた。しかし、ここバラータには、その濃密な人間関係がそのまま残っている。それは単に閉塞した空間に住民が密集する生活環境だけのせいではないような気がする。イスラエルの占領への抵抗の拠点としていつもイスラエル軍の攻撃の標的にされてきた住民たちの“固い絆”、“結束力”の表れのように私には見える。
私がかつて滞在したモハマドの家も5年前のままだった。父親も健在だったが、2,3年前から軽い脳梗塞のためか両手両脚が不自由になり、歩けないし自由に手を上へ挙げることもできない。しかし意識ははっきりしていて、5年ぶりの私を両頬にキスをして迎えてくれた。ナブルス市内の公立病院で看護師の仕事をしているモハマドの妹も「ドイ! ケファラク!」と笑顔で私の前に現われた。当時、包囲下、外に出ることもできず、2階のモハマドの部屋で青年たちが集まり、トランプ遊びや議論で時間を潰していたものだ。その青年たちがモハマドの家にやってきて、再会を喜びあった。5年前、バラータで毎日顔を合わせていた人たちが再び私の目の前にいる。私は5年前にタイムスリップしたような錯覚に陥った。かつてモハマドの部屋でよく政治議論をしていたナジャハ大学卒の青年シャーディ(当時24歳)は、当時のように流暢な英語で、この5年間に自分に起こったことをまくし立てた。彼は教師となり、貯めた金で昨年、1ヵ月半ほどアメリカの友人を訪ねた。パレスチナ人の彼は入国時に執拗な尋問を受け激怒した。「もし私のアメリカ訪問の書類に不正があるんだったら、すぐに私を追い返せばいいじゃないか!」とたんかをきった。入管の職員はやっと入国を許した。その後、東海岸のある街に住む友人の家で快適な生活を過ごした。しかし、シャーディの心の中は満たされなかった。
「確かに、ここにはバラータ難民キャンプでの生活のようにイスラエル軍の検問も、侵攻の恐怖もない。自由を満喫できる。食べ物だってずっといい。女の子とだってその気になれば遊べる環境もある。パーティーも映画もあり、ずっと楽しいはずだ。しかし、何か空しいんだ。何が欠けているんだ。いったい自分はここで何をしようとしているんだ、いったい自分は何者だろうかって考えてしまうんだ。そして『ここは自分の居場所ではない』ってわかったんだ。ひどい所だけど、やっぱり自分の居場所はバラータだってつくづく思ったよ」
モハマドの生活に大きな変化があった。臨時ではあるが、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)で働き始めたのだ。UNRWAがバラータ難民キャンプに新設した身体障害児のリハビリセンターの責任者となったのだ。彼は、まだ建設が進む施設の中を案内した。1階の広い部屋には子どもたちの遊び場兼訓練の場所となっている。2階には大きな劇場が建設されつつあった。子どもたちの情操教育の場がほとんどない狭い難民キャンプに、子どもたちに夢を与える劇場を造ろうというのだ。しかし資金が尽き、建設は中断したままだった。「海外からの援助でも、なんとか資金を集めて、ここに子どもたちが夢を持てるような劇場を完成させたいんだ。それが今の私の目標なんだ」。まだブロックやコンクリートがむき出しで、屋根もない2階の閑散とした周囲を見渡しながら、モハマドは夢を私に語った。
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