2007年4月7日(土)
すでに現存する“ユダヤ人入植地依存”の生活
今日からヨルダン渓谷の村に住み込み取材するため、その中心都市ジェリコ市へ向かった。エルサレムからジェリコへ向かう方法は2つある。1つはまずラマラ市へ向かい、その中心街にあるタクシー乗り場からジェリコ行きの乗合タクシーを捕まえる方法。これだとラマラまでが5.2シェーケル、ラマラから15シェーケルの費用で1時間ほどで着く。前回、ジェリコ市に向かったのはこのルートだった。
もう1つは現在、分離壁でエルサレム市から遮断されたアブディス町まで、壁を遠回りしてバスで向かい、そこからジェリコ行きの乗合タクシーに乗り換える手段だ。アブディスまで5シェーケル、さらにジェリコまで10シェーケルとこちらが安い。しかも地図で観れば、はるかに後者が近い。だがジェリコへ向かう乗客はヨルダン川西岸の政治の中心地ラマラの方がはるかに多い。だからラマラでは短時間待つだけで定員の7人は集まり、すぐに出発できる。しかしアブディスでは、7人の乗客が集まらず、なかなか出発できない。今回、このアブディス経由を利用したが、結局、アブディスで1時間近くも待つことになった。
ジェリコ市から7人乗りの乗合いタクシーを貸切り、30キロほど北にある目的地ジフトゥリック村へ向かった。従来なら1人15シェーケルの料金だが、借り切ったため100シェーケルかかった。途中、ジェリコ市の区域を出た直後、つまりパレスチナ人が管轄するA地区からイスラエルの管轄下にあるC地区に入るところで、イスラエルの検問所を通過しなければならないが、パスポートを見せたらすんなり通してくれた。荒野の中をまっすぐ北へ続く国道90号線を100キロ近いスピードで突っ走った。途中、ユダヤ人入植地や、入植者たちが所有する広大なナツメヤシのプランテーションが次々と現われる。
30分ほどで、豊かな農地が広がるジフトゥリック村に着いた。昨年夏、地元出身のNGOスタッフに案内されて訪ねた以来、半年ぶりである。その彼が電話で事前に手配してくれていた英語を話す村人が出迎えてくれた。
ヨルダン渓谷住民の生活の実態を取材するために、このジフトゥリック村を滞在先に選んだのにはいくつか理由があった。JICAの農業プロジェクトが住民に有益かどうかを判断するには、まず農村の実態を知る必要があったこと、この村は最も人口の大きな農村の1つで、ヨルダン渓谷の農村の典型を見ることができると判断したこと、そしてこの村がイスラエルが管轄する、つまりイスラエルの占領下にあるC地区またはB地区であること、などである。
この村の農民たちは、灌漑設備の整った農地で、キュウリ、ナス、トマト、枝豆、クサ(キュウリに似た野菜で、中を掘り出しご飯を詰めて蒸す「マーシ」はパレスチナ料理の代表の1つ)、胡椒、そしてナツメヤシなどを生産している。ナツメヤシは近くのユダヤ人入植地に売っていると農民の1人が言った。
「ジフトゥリック」とはこの地を400年に渡って支配したトルコの言葉で「スルタンの土地」を意味する。人口は、夏場は約5000人、冬場は7000人ほどに膨れ上がる。夏、近くの山野で羊の放牧をしながら暮らす住民が冬には村へ戻って定住するからだ。住民のうち2000人ほどは1948年にイスラエルに土地を追われた難民である。だからこの村の子どもたちが通う小学校はUNRWAの学校だ。横10キロほど、縦3キロほどにも及ぶ広大な地域をもつこの村は、4つの地区に分かれている。そのうち3地区が数ヵ月前に、イスラエルが民生、治安などすべてを管轄するC地区から、パレスチナ側が民生を管轄するB地区に転換された。それによってこれまで禁止されていた家の建設が自由にできるようになった。しかしもう1つの地区は依然、C地区のままで、自分の家も自由に建てられない。村の約50%にはまだ電気がない。飲料水はイスラエルの水会社「マカロット」から1立方メートル当たり3.5シェーケルで買わなければならない。灌漑用水は12キロ離れた高地の水源から水を引いている。
この村で500人ほどの住民が属するファミリーの長、アブ・アハマド(仮名)(52)の家に滞在することになった。この家には電気はない。50年ほど前に建てられた土壁の家で暮している。アブ・アハマドには27歳の長男アハマド(仮名)を頭に8歳になる末っ子まで4人の息子がいる。またアブ・アハマドの弟サイード(仮名)(32歳)とその一家5人も、同じ敷地、隣接する家に住んでいる。
アブ・アハマドは広大な農地で野菜を栽培する農民だが、農業だけでは生活できず、長男は同じ村で、次男(25歳)は30キロ離れたジェリコ市でそれぞれ建設の仕事をし、三男ジハード(仮名)(20歳)は近くのユダヤ人入植地で働いている。農業だけでは生活できないこの村の住民たちにとって、入植地は重要な職場になっている。5000人の住民のこの村から約500人が入植地で働き、ヨルダン渓谷全体では5000人を超すといわれている。アブ・アハマドの弟サイードもそうだ。彼は第2次インティファーダ前、テルアビブなどで壁塗りや床張りなど何でもこなす左官として重宝がられ、日当300シェーケル(約9000円)ほどを得ていたが、インティファーダ以後、イスラエルでの仕事はできなくなり、入植地で働くようになった。同じ仕事をしかも12時間働いて得られる日当は100シェーケル、3分の1に急減した。それでも他に働き場所はないのだ。サイードの日当は特別で、通常、入植地でナツメヤシの収穫や加工工場での仕事は日当50から60シェーケルが相場だという。三男ジハードもまだ暗い5時から12時まで働き、60シェーケルを得ている。
この一家をよく訪ねてくる村の村議会の議員であるモハマドも、日頃は入植地で働き、日当75シェーケルを得ている。村議会議員である彼が、“占領者”であるユダヤ人入植者の元で働くことにどういう感情を抱いているのか訊いてみた。モハマドはこう答えた。
「できることなら、入植地で働きたくないが、他に働く場所がないんです。農業も、農薬やビニール、灌漑用水などコストが高い一方、その農産物はマーケットも限られ、値段も安く、コスト分さえ補えないときだってあるんです。そんな状況の中で私たちは生活していかなければならない。だから入植地で働かざるをえないんです」
入植地で働くほかの数人の住民に訊いてもほぼ同じ答えが返ってきた。
私には意外だったのは、住民たちの「ユダヤ人入植地・入植者たちへの感情」である。ガザ地区や他のヨルダン川西岸では、パレスチナ人住民は入植地と入植者たちに激しい怒り・敵意を抱いている。それはまさに“占領の象徴”だからだ。だから住民と入植者たちの間に、入植地で働く人々以外、まったく交流はない。むしろ闘うべき“敵”なのだ。
しかしこの村の住民にユダヤ人入植者に対する感情・印象を訊いても、前者のような“敵意”は出てこない。たしかに1967年当時には「不在地主」「国有地」などの名目で、ヨルダン渓谷の土地がまずイスラエル政府に没収され、その後、ユダヤ人入植者たちに与えられた。つまり入植地に土地を奪われた。「しかし、以後、入植地に土地を奪われることもない。今は悪い関係ではない」というのだ。生活するために、入植地に依存しなければならない住民たちの“入植地観”である。
これは以前に紹介したベドウィンの住民たちとは大きく異なっている。通常、羊の餌を求めて移動し、その所有地の境界線が明確に示しにくいためか、入植者に土地を収奪されやすいベドウィン住民の場合と異なり、所有地が明確に識別できる農地をもつ住民は、収奪される危険性が少ない。そのことが、それぞれの“入植地観”の大きな違いの理由になっているように思える。
ヨルダン渓谷におけるJICAプロジェクトに反対し、これを危険視する人々は、「このプロジェクトが結局、ユダヤ人入植地だけを利することになりかねず、地元住民がユダヤ人入植地に“安い労働力”として搾取される状況を造り出すだけだ。パレスチナ人の経済的な自立には決してつながらない」と主張する。
しかし彼らが完全に見逃しているのは、JICAプロジェクトの以前に、すでに現地では住民がユダヤ人入植地に依存しなければ生活できない構造がもう出来上がってしまっているという現実だ。そして何もしなければ、この構造は変わらないし、むしろこれからますます強化されていくだろう。つまりJICAプロジェクトが、そういう状況を造り出すという「論理」は、現実をかけ離れた「推論」なのではないか──現場を取材して初めてわかった、衝撃的な“発見”である。
アブ・アハマドの家には電気はないが、台所には冷蔵庫があり、部屋にはコンセントもある。以前、この地区では電気を得るため共同の発電機を回していた。しかしその発電機も古くなり故障して動かなくなった。だから冷蔵庫は今や、食料を入れる貯蔵庫になった。
電気のない生活は、ちょうど5年前の春、私が滞在していたバラータ難民キャンプがイスラエル軍に包囲され、水と電気を切断されたとき以来だろうか。夜になると、アブ・アハマド家ではプロパンガスを利用したガス燈を灯りに使う。その下で食事をし、子どもたちは大人たちに勉強を教えてもらう。テレビなどの娯楽はないから、青年たちは庭先にプラスティックの椅子を並べ、ガス燈の灯りの下、甘いお茶やアラブ・コーヒーをすすりながら、語り合う。近くの農地にある貯水池からは蛙の鳴き声が聞こえてくる。日本の田植え時期の農村の夜のようだ。暗闇の空に、青年たちの笑い声が響き渡る。話に飽きた青年たちは、部屋にろうそくを並べ、トランプ遊びを始めた。テレビやラジオからの騒々しい“文明の音”もない静かな夜、ゆっくりと時間が流れる。
ただ私は、電気がないために、カメラのバッテリーの充電もできないし、パソコンで日記を書くこともできない。理解できないアラビア語の会話に加わることもできず、かといって暗闇の中では撮影もできず、10時前に、私は早々と床に着いた。しかし、蚊に悩まされて昨夜は熟睡できなかった。
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