2007年4月20日(金)
『パラダイス・ナウ』と自爆攻撃の本質
昨日、「村上春樹が“パレスチナ”を描いたら」と、一見、突拍子もないことのように思えることを書いたが、実は、私がそう考えるのには訳がある。
昨年、11月アメリカのバークレイ近郊で映画『パラダイス・ナウ』を初めて見たとき、私は正直、怖くて正視できなかった。日本へ持ち帰ったDVDで、見直し、そしてとりわけ心に残った後半20分のストーリーの中で語られる登場人物の語り、会話を私は一字一句、日本語に翻訳した。そしてそれが、現在のパレスチナ問題、いやもっと正確に言えば、“占領”とは何かを凝縮して語り尽くしているように思えた。私はこの映画は、「自爆テロ」の映画ではなく、「占領とはパレスチナ人にとって何か」を「自爆テロ」という究極の状況設定を用いて語っている映画だと思ったのである。監督は制作の意図をそうは語らなかったようだが、何度か観るうちに、私はそう確信した。
私はドキュメンタリー映画『届かぬ声』第3部で、この「自爆テロ」を描こうと計画している。そのためにこれまでガザ地区で取材し、今回、ディヘイシア難民キャンプの遺族、そして今日、初めての女性自爆犯、ワファ・イドゥルスの遺族をラマラ市近郊、アマリ難民キャンプに訪ね、取材した。本人を一番知っている遺族たちはそれぞれに、自爆攻撃者たちが体験した“占領”、その“占領者”イスラエルへの怒りを語り、その動機を説明した。しかしそれは当人の直接の言葉ではない限り、想像の域を出ない。だから足の痒いところを靴の上から掻いているような、もどかしさを抱いてしまう。もしもっと真実に近づこうとすれば、『ハアレツ』の記者、アミラ・ハスがやったように、イスラエルの獄中にいる自爆未遂犯たち、つまり自爆攻撃を試みようとして失敗し、イスラエルに逮捕され投獄されたパレスチナ人たちに、同じ獄中のパレスチナ人政治犯に依頼し、直接、インタビューすることである。その記事は圧巻だった。どんな近しい家族や友人たちの声でも太刀打ちできない生々しさと説得力があった。
それでも、真実そのものとはいえないかもしれない。実際、自爆した人間と、何らかの理由で自爆できず、生き残った者とは、どこか大きな隔たりがあるように思えるからだ。『パラダイス・ナウ』で言えば、生き残ったハーレドが、実際に自爆するサイードの心境を代弁できないようにである。それでも、当初、自爆攻撃を志願する思いには、それほど大きな食い違いはないはずだ。
だから私が遺族たちの声をどんなに集めても、自爆犯たちの思いそのものを描けるわけではない。深い地底から掘り出した恐竜の骨の一部をかき集め、“想像力”で生前のその恐竜の姿を現す模型を作り出すように、遺族によって語られるその事実の断片を寄せ集め、“想像力”でその本人たちの思いを紡いでいき、ぼんやりとでも、その輪郭を描いていくしかないのである。
その作業の中で、輪郭がいかに現実に近いかどうかを決めるのは、かき集める断片の質と量だけではない。まさに“想像力”、もっと正確に言えば、“人間に対する洞察力”とその“表現力”である。
私が唐突に、「村上春樹をパレスチナへ」と言い出したのは、そのことを痛感するからだ。
私がこれから創りだそうとする“自爆テロ”のドキュメンタリー映画は、どんなに私が力を尽くしても、“自爆攻撃”、“占領”の本質を語る説得力と迫力において、『パラダイス・ナウ』の後半20分で語られる言葉、とりわけサイードの言葉を超えることはできないと思う。つまり事実の断片をどんなにつなぎ合わせ、つじつまを合わせてみても、それがそのまま、深い洞察力で描かれる「フィクション」以上に問題の本質を語ることができる、ということにはならないのである。
しかし現実には、“村上春樹”はパレスチナにいないし、来ない。ならば、足を運んで話を聞きまわることしか能のない私のようなジャーナリストは、事実の断片を寄せ集める作業を続けることで、できる限りその本質に迫ろうともがくしかないのだ。たとえそれがうんざりするほどの時間と手間がかかる愚直なやり方であってもだ。
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