Webコラム

日々の雑感49
パレスチナ・2007年 秋3

2007年10月19日(金)
パレスチナと私

 パレスチナ・イスラエルの取材に向かう直前の1、2週間、私はいつも重い憂鬱な気持ちに襲われる。「行きたくない」と周辺の身近な人たちにふと漏らしてしまう。しかし彼らは、パレスチナに20年以上も関わり毎年、2、3ヵ月は現地で過ごしてきた私が冗談で言っていると思い、まともに取り合ってはくれない。しかし、本音である。その「行きたくない」という気持ちを「いや、行かなければ」という気持ちで抑え込むのにずいぶんと時間がかかってしまう。その時間が年齢を重ねるごとに長くなってきている。
 なぜ「パレスチナ行き」が苦痛なのかと自問するとき、真っ先に思い浮かぶのが、取材現場や検問所での冷酷で傲慢なイスラエル兵との不快で苦痛なやり取り、ガザを取材したことを“懲罰”でもするかのようなエレズ検問所での長時間の執拗な検査、そして帰路の空港でのあの拷問のようなセキュリティー要員たちの尋問である。まだ20歳前後の若い娘が、どのような環境で育ち、どんな教育を受ければこれほど傲慢で機械のような人間になれるのかと思ってしまうほど、失礼極まりない態度と質問を、これでもかこれでもかと浴びせてくる。気の弱い私は、空港に近づくにつれて、まるで被告人が自分の刑期を宣告する裁判に向かう時のような心境になり、そのストレスで吐き気に襲われる。
 以前は、そんな不安やストレスを跳ね返すだけの“エネルギー”があったのだろう、今ほど苦痛には感じなかった。しかし最近、堪えがたいほどの苦痛に思えるのは、齢を重ねた私自身の“エネルギー”“情熱”の磨り減りが一因であることは間違いない。

 もう1つの苦痛の要因は、食べ物だ。エルサレムなどでホテル住まいをするとき、どうしても近場のレストランの食事になってしまう。しかしパンが苦手な私が、好きなご飯を食べさせてくれる場所をみつけるのは容易ではない。あっても「マクルーバ」(チキン付きのご飯)など種類は限られ、値段も安くはない。それでも背に腹はかえられない。毎日のように同じ食堂に通い、同じ料理を食べ続ける。すると肉と脂っこいご飯の食べすぎで、持病の痛風の発作が始まる。だから出来るなら、自炊ができる宿泊施設を、と探す。私の旅行カバンには、いつも自炊用のカレーとラーメンと味噌がたくさん詰まっている。後輩のジャーナリストに「私なら、テープなど取材機材を代わりに詰めますがね」と皮肉られても、私にすれば、取材を続けるための“必需品”なのである。私がガザや西岸の現場で、民家への住み込みを“取材の手法”として選ぶのは、もちろん住民とその生活に密着できるというメリットが一番大きな動機だが、民家で、ご飯料理をはじめ様々な種類の家庭料理が楽しめることもそれに匹敵する重要な要因となっている。だから家族に出す“宿泊の謝礼”はその“食事代”も考慮して払う。

 しかし、私がパレスチナ行きを苦痛だと思う最大の要因は、パレスチナ人とその社会の変化によって、以前のようなパレスチナ取材への情熱を持ちきれなくなっていることである。第1次インティファーダ(民衆蜂起)が始まる2年半前の1985年春から、私は1年半、ヨルダン川西岸にあるラマラ市近郊のジャラゾン難民キャンプに隣接するある民家に住み込み、占領地各地を取材して回った。ジャーナリストとしての最初の長期現地取材だった。毎日、自分の目の前で衝撃的な出来事が次々と起こる。それに驚き、怒り、喜び、悲しむ毎日だった。当時の日記に私は「こんなに生き生きとして、面白い毎日でいいのか」とさえ書いている。
銃を持ったイスラエル兵に子どもたちが投石で挑み、住民が一致団結し助け合って占領と闘った第1次インティファーダのときも、取材しながら胸が熱くなり、こちらがパレスチナ人に勇気と力をもらうような気がしたものだった。
 しかし、いつの頃か、パレスチナ行きが苦痛を伴うようになった。それはパレスチナ人が「和平」に失望して、自己犠牲を覚悟で“占領”と闘う意思が薄れ、自分と家族を守ることに精一杯になり、どんどん内向きになる一方、共同体の強い絆が緩み始める時期と重なっていたように思う。希望の光がまったく見えず、ますます悪化するばかりの政治・社会・経済状況の中で落ち込み、以前のような“輝き”や“明るさ”を失っていくパレスチナ人たちを観るのが辛くなった。かつてのように、彼らの中にいることで、自分自身の気持ちが高揚することも少なくなった。
 ましてや、ハマスとファタハの抗争が激しくなり、パレスチナ人同士が殺しあう事態にまで状況が悪化してしまうと、「そんな状況を見たくない」という感情がどうしても先行してしまう。しかし一方、こんな状況だからこそ、「なぜこうなったのか」「この最悪の状況のなかで、民衆はどういう思いで生きているのか」「これからパレスチナはどうなっていくのか」を伝えるのは、長年“パレスチナ”と関わり、伝えてきた人間としての責務だ、という理性で、「見たくない」という感情を必死に押さえ込む。そんな葛藤の中で、私はまたパレスチナの地を踏んだ。

 しかし、さらに冷静になって、自分が万が一「入国拒否」され、このパレスチナへ来ることができなくなったら、または「プレスカード」の発行を拒否され、ガザ地区には入れなくなったら、と想像してみる。それは、「出発前のあの苦痛」とは対比できない絶望感に襲われるにちがいない。そう想像するとき、自分にとってこのパレスチナの地はどういう意味合いを持つのかを私は改めて考える。
 自分が二十数年間通い続け、そこで“ジャーナリスト”として、また“人間”として育てられたパレスチナ。もう“パレスチナ”という土地は、私のものの考え方、生き方、そして生きてきた軌跡そのものの欠かせない一部となっている。現在の私が形成される上で欠かすことのできなかった人たち、私にパレスチナやイスラエルを観る視点を教え導いてくれた多くのパレスチナ人やイスラエル人の友人・知人たち、これまで私が住み込み生活を共にし、家族の“暖かさ”、人の“優しさ”、“豊かさ”を教えてくれた難民キャンプや村の数知れぬパレスチナ人家族、そして目を閉じると浮かんでくる街角や難民キャンプ、村々の通りの光景、そこで聞こえてくる人びとの喧騒・・・、それらはもう私の半生で何ものにも代え難い“宝”となっている。私がこの土地から切り離されるとすれば、私のその“原点”を奪われることだ。
 確かに目を背けたくなるパレスチナ人もいる。今のパレスチナの政治・社会状況に失望もする。その醜い部分、ネガティブな面に目をつぶって“パレスチナ人”や“パレスチナ”を美化するつもりもない。しかし、たとえウンザリすることはたくさんあっても、“パレスチナ”は私から切り離せない土地になってしまっていることを、もしここから断ち切られたらと想像するときに、改めて思い知るのである。

次の記事へ

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp