Webコラム

日々の雑感 50
パレスチナ・2007年 秋4

2007年10月20日(日)
パレスチナ取材の原点“ビルゼート”

 ラマラ市から北へ10キロほど離れたところにビルゼートという村がある。世界にその名を知られるパレスチナ一の名門校「ビルゼート大学」のある村だ。1985年春から1年半に及ぶ最初のパレスチナ取材の拠点がこの大学と村だった。あれから22年。第2次インティファーダが始まった直後の7年前、ある大学教授にインタビューするため1度再訪したことがあるが、以来、久しぶりにこの村を歩いた。
 1985年夏、私はこの大学で開かれた外国人向けの夏季講座に参加した。アラビア語会話と社会学の授業を受けたが、前者はほとんど身につかず、後者も私の当時の英語力ではハーバード大学帰りのパレスチナ人教授の難しい講義についていけず、その後の現地取材にほとんど生かせなかった。
 しかしこれを契機に、その後、この大学は私のパレスチナ取材の拠点となった。近くのジャラゾン難民キャンプの民家から毎日のように歩いて通い、学生や講師たちと交流を深めた。ガザ地区を含めパレスチナ各地から選りすぐられ集まってきた学生たちとの交流は、私のパレスチナ各地の取材の重要な情報源となり、取材ルートの糸口となった。親しくなった学生に招かれ、実家を訪ね歩くことで、ヨルダン川西岸やガザ地区の様々な町や村、難民キャンプで住み込み取材が可能になった。また各地で録音した住民たちの膨大な数のアラビア語インタビュー・テープを、ボランティアで英語に翻訳してくれたのもビルゼート大学の学生たちだった。講師の中に私の仕事を理解し協力してくれた人もいた。ある英語の教師は、授業中に私のインタビュー・テープを学生たちに配り、「今回はこのテープの英語訳が課題です。結果は成績の一部になります」と告げた。
 当時、ビルゼート大学は“占領への抵抗の拠点”でもあった。だからその学生委員会の選挙は、さながらパレスチナ占領地における政治勢力分布の縮図でもあった。私は85年と86年の学生選挙を学生たちに混じって取材した。当時、ファタハ、左派連合(PFLPやDFLP、共産党など)と、イスラム同胞団の三つ巴の選挙戦だった。投票日の直前、2000人近い全学生が新キャンパス広場に集まり、3人の学生委員長候補による立会い演説会が開かれた。ビルゼート大学の学生委員長は、当時のパレスチナ抵抗運動のリーダーを意味し、それを決めるための大イベントである。一般学生たちも食い入るように、その演説に聞き入っていた。
 結局、2度の選挙ともファタハが左派連合との僅差で勝利した。しかし事はそれで終らない。晴れて学生委員長に選ばれた学生に待っているのは、イスラエル占領当局の弾圧という“洗礼”だった。85年の選挙のとき、深夜にファタハ支持の学生たちが勝利祝賀集会をキャンパスで始めた直後、イスラエル兵たちが、選ばれたばかりのファタハの学生指導者たちを拘束しようと、会場のキャンパスを急襲した。当時、占領下ではこのような政治集会は禁止されていたのだ。ファタハの学生幹部たちと行動を共にしていた私は間一髪のところで拘束を逃れ、幹部たちと共に車で逃走した。しかしその直後、新学生委員長は、「将来、イスラエルのセキュリティーに問題を起す危険がある」という理由だけで逮捕状もなく拘束できる「行政拘留」によって、逮捕され投獄された。彼に限ったことではない。歴代の学生委員長が同じ道をたどってきた。
 私が取材する前年と前々年の2度にわたって学生委員長に選ばれたのが、次のパレスチナ指導者と目されながら、現在イスラエルの刑務所に投獄されているマルワン・バルグーティーだった。彼もまた学生委員長に選出された直後に「行政拘留」で投獄され、学生時代の多くの年月を獄中で過ごした。私がビルゼート大学に出入りしていた頃、取り巻きたちに囲まれキャンパスを闊歩する彼の姿を何度か目撃した。政治犯として投獄される年月が長いほどリーダーとしての“箔が付く”のか、当時から彼は学生の間でもカリスマ的な存在だった。
 当時のビルゼート大学の学生運動リーダーたちは、その後、さまざまな分野でパレスチナ社会をリードする存在になっている。PFLPリーダーだったカーセムは、その後、結婚したパレスチナ系アメリカ人女性と共に渡米したが、やがて故郷のガザに戻り、アメリカのABCなど海外メディアに映像を提供するメディア機関を立上げ、現在ではパレスチナ最大規模にまで成長したそのメディア会社を率いている。共産党リーダーだったナセルも卒業後、渡米して大学院で学んだが、その後、帰国し、共産党系メディア機関のジャーナリストとして活躍していた。さらにイスラム同胞団のリーダーだったモフィシンは、オスロ合意直後の1994年にガザ中部の街で9年ぶりに再会したとき、ハマス系の慈善団体の代表になっていた。
 そのモフィシンに学生選挙直前にインタビューしたビルゼート村の当時の小さなモスクは、今や高い塔がそびえ立つ立派なモスクに建て変わり、ハマスの緑の旗がはためいている。学生選挙運動が繰り広げられた新キャンパスは、22年前の当時より校舎の建物が倍増し、巨大な大学街になっていた。勝利宣言集会の直後、イスラエル軍に急襲された旧キャンパスの入り口だけは昔のままだったが、学生たちのためにサンドイッチを売っていた大学前のカフェテリアなどは姿を消し、IT関係の店など立派な家々が建ち並んでいる。
 毎日のように通った道、学生たちと談笑したカフェテリア跡、イスラエル兵の追跡を逃れ学生たちと必死に走った道路、幾度も泊めてもらったガザ出身の学生下宿・・・、新しくなった建物や風景の一部には当時のままの家々やオリーブ畑がそのまま残っている。その光景が私に当時の記憶を次々と蘇らせる。「あれから、もう22年が経ったんだ・・・」と自分の中でつぶやく。その間に、私はパレスチナでさまざまな出来事を目撃してきた。そして私自身のものの見方や考え方、そして生活も大きく変化した。ただこの“ビルゼート”が私のパレスチナ取材の出発点であり、原点だったことには変わりはなく、当時、私のなかで形成された“パレスチナ人”観、“占領”に対する問題意識は、今も私の中で息づいている。

【註・当時のビルゼート大学と学生選挙に関するルポは拙著『占領と民衆 ─パレスチナ─』(晩聲社/1988年刊)に収録】

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