Webコラム

日々の雑感 55
パレスチナ・2007年 秋9

2007年10月29日(月)
屈折した東エルサレムのパレスチナ人

 午後3時過ぎ、東エルサレムのダマスカス門に近い食堂でチキンをのせたご飯で遅い昼食をとり、ダマスカス門からエルサレムホテルに通じるナブルス通りを宿舎に向かって歩いているときだった。買い物客や近くのミニバスの発着場へ往来する住民で、道路はごったがえしていた。突然、黒いTシャツを着た青年が、数枚つながった絵葉書を掲げて、「2シェーケル、2シェーケル!」と近づいてきた。彼らは葉書を売ることが目的ではなく、仲間と組んだスリ集団の1人であることを知っていた。だから私は「ノー・サンキュー」と断り、そのまま立ち去ろうとした。しかし青年はしつこく私を追ってくる。横から私の持ち物を狙う仲間がいるか横目で確かめたが、幸い見当たらない。私はあまりのしつこさに「ハラース(止めろ)!」と迫ってくる青年の手を片手で払いのけた。それがかえって青年を挑発してしまったのか、彼の追跡はさらに激しくなった。私は進行方向を変え、駐車する車の反対側に回った。しかしそれでも青年は付きまとってくる。挙句の果て、私の左胸ポケットに手を突っ込み、中の2枚の紙幣をわしづかみした。気の弱い私でもさすがにこれを見逃すわけにはいかなった。金を取り戻そうと青年ともみ合いになった。幸い、青年の仲間がいなかったので、1対1である。なんとか金を取り戻すと、私はそれ以上、青年と関わるのは危険だと思い、その場を立ち去った。青年は別れ際に、私に捨てぜりふを吐いた。それは、自分が“他人の金を盗もうとしたのだ”という後ろめたさの一欠けらもない、荒みきったパレスチナ人青年の姿だった。
 宿舎に帰っても、つい先ほどの体験で私の胸の中に澱(おり)のようなものが残り、気持ちを暗澹とさせた。金は取り戻し損害はなかったものの、相手がパレスチナ人だったことが、いっそう私の気持ちを曇らせたのだ。
 数年前、日本からやってきた知人が同じ手口で被害にあった。パレスチナ人支援活動をするその知人は、夏休みを利用してパレスチナを訪問するため、アンマンからエルサレムへ乗り合いタクシーで入った。そのタクシーから降り、宿舎までのほんの2、30メートルの距離を両手に荷物を持って歩いているとき、絵葉書売りの青年が片方から近づいてきた。それに気を取られている間に、反対側からやってきた男に、肩にかけていたカバンから財布をすられてしまった。知人がそれに気付いたのは、宿舎にたどりついてからだった。彼は到着して数分後に、有り金全部とクレジットカードを失ってしまったのだ。すぐにイスラエル警察(東エルサレムはイスラエル当局の管轄下にある)に通報したが、警察は事情を聞くだけで犯人捜しに動く気配もなかった。知人は日本の奥さんに電話でクレジットカードを止めるように手配した。しかし、カードが停止されるまでの間に、すでに多額の金が引き降ろされていたという。
 パレスチナ人居住区の東エルサレムで日本人が盗難の被害にあった例は少なくない。もう10年ほど昔になるが、大学でパレスチナ問題を教えるある日本人の大学教授が、夜更けに、ほろ酔い気分で独り旧市街の中を歩いているとき、数人のパレスチナ人の男たちに囲まれ、金など持ち物全部を盗まれた。また数年前には、現地を知り尽くしているベテランの新聞記者が東エルサレムのホテル近くで複数の男たちに襲われた。記者は大声を上げて助けを求めたために、ホテルの警備員が駆けつけ難を免れたが、パレスチナ人社会に深く入って取材してきたその記者にとって、パレスチナ人に襲われた精神的な衝撃は大きかったに違いない。
 私が知らないところで、日本人だけでなく、たくさんの外国人が同様の被害に合っているはずだ。私は宿舎の受付けをしているパレスチナ人女性に、私の体験を打ち明けた。すると、その女性は事も無げにこう言った。

 「ナブルス通りやサラヒディーン通り、そこへ繋がる道路などで、絵葉書を売っている男たちは全部、盗賊たちよ。ここに泊っているドイツ人の客も2日前にやられたばかりよ。外国人だけじゃない。私たちパレスチナ人だって盗まれるんだから。女性だってそうよ」

 私は彼女に訊いた。
 「そんな事故にあった場合、どうすればいいんですか」
 「警察に行くしかないでしょうね」
 「で、その警察は何かやってくれるんですか」
 「いいえ、何もしない。聞き流すだけよ」

 彼女によれば、周囲の住民も盗難を目撃しても、観て観ぬふりをするという。問題に関わりたくないのだ。だから、被害にあった者は自分で解決するしかない、ということになる。これが東エルサレムの現状なのである。
 イスラエル警察が東エルサレムに現われるのは、大半は金曜日、アルアクサ・モスクに礼拝にやって来るパレスチナ人たちの中にヨルダン川西岸から検問をすり抜けてやってきた者がいないかチェックするとき。また土曜日には、旧市街に隣接する聖地「嘆きの壁」に礼拝に向かうユダヤ人たちの警護のために現われる。さらに、旧市街の中を常時、巡廻する国境警備兵たちがいるが、これは、西岸の住民とりわけ青年たちが紛れ込んでいないかを調べ、時々中を行き来するイスラエル人の安全を守るためである。
 つまり東エルサレムにおけるイスラエル警察の役割はあくまでもイスラエル人(ユダヤ人)の保護であり、パレスチナ人住民の保護のためではないのだ。だからパレスチナ人が外国人や他のパレスチナ人に犯罪を犯しても、彼らはほとんど関知しない。そのため、東エルサレムのパレスチナ人居住区は“無法地帯”となる。東エルサレムの青年たちの間で麻薬の売買が蔓延していることは誰も知っているが、それをイスラエル警察は取り締まる気配もない。「パレスチナ人と社会が自ら崩壊していく現状には関知せず」である。
 そんな社会を変えるために、東エルサレムがパレスチナ地区に組込まれることを住民が渇望しているかといえば、そうではなさそうだ。私の友人メイル・マーガリットがまだエルサレムの市議会議員だった頃の2000年夏、イスラエルのバラク首相(当時)とアラファト議長の「キャンプデービッド会談」で、東エルサレムの一部がパレスチナ側の統治下になる話が持ち上がったとき、パレスチナ人に同情的だと知られていたメイルのところに東エルサレムの住民たちが押し寄せてきたという。「イスラエルの市民権が欲しい」という訴えである。現在、彼らは「イスラエル市民」ではないが、「居住権」を持つ市民としてイスラエルの医療保険など社会保障の恩恵を受けている。もしパレスチナ統治下になれば、その恩恵が受けられなくなる。また「独裁・強権的で非民主的なパレスチナ当局の統治の下で暮すなんてまっぴらだ」というのも彼らの本音である。その一方で、イスラエルの“占領”下で暮す屈辱感、“パレスチナ人としてのプライド”もくすぶっている。東エルサレムの住民の心中には、そのような屈折した感情が幾重にも折り重なっている。

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