2007年10月31日(水)
“占領”を象徴する検問所
“占領”という言葉に日本人は何を思い浮かべるだろう。敗戦直後からのアメリカによる日本統治? 「併合」という名の日本による朝鮮半島の「植民地化」? ……
しかしそんな過去の歴史を実体験として持たない現在の日本人には、“占領”がどういうものか実感するのは非常に難しいだろう。
この22年間、パレスチナとイスラエルでずっとやってきた私の仕事を一口で言えば、“イスラエルによるパレスチナの住民と土地の占領”の実態を伝えていくことだったような気がする。文章、映像と、いろいろな手段と手法で伝えてきたが、思い通りに読者や視聴者に伝わったかとなると、自信がない。
現在のパレスチナ情勢のなかで、一般の日本人が “占領”とは何かを一目で実感できる象徴的な場所があるとすれば、ヨルダン川西岸の“検問所”かもしれない。だから、私も何とかしてこの“検問所”の実態を映像で伝えようと何度も撮影を試みてきた。しかし、これは決して容易なことではないのだ。今はさらに難しいだろうが、8年ほど前、ガザ地区への出入口エレズ検問所を撮影したことがある。このときは、まずイスラエル軍(IDF)の広報担当官に申請し許可を得なければならなかった。まずイスラエル政府が発行するプレスカードの番号、所属し発表するメディアの名前、取材目的、取材予定日と時刻、そして所要時間を電話で告げる。担当官は、エレズ検問所の軍責任者に取材の詳細を伝え検討した後、まもなく取材許可か否かがこちらに電話で伝えられた。その手続きには1週間ほどかかったような記憶がある。この場合、もちろん、政府発行のプレスカードが不可欠である。
ヨルダン川西岸の検問所の場合、IDFを通す手続きを省き、直接、撮影したい検問所へ行く。検問する兵士に近づき、政府発行のプレスカードを示し、「ここの司令官に会わせてほしい。私は日本のジャーナリストでこの検問所の様子を撮影したいから」と申し出る。司令官と言っても、まだ20代前半の若い将校である。検問所撮影の許可には明確な規定があるわけでなさそうだ。大方、現場の司令官の判断で決まる。インテリふうで優しい表情をした、理解のある司令官なら許可を出すし、見るからに獰猛な顔つきの将校なら、たいがい「ここは軍事地区で、ダメだ」と取り付く島もなく拒否される。まさに運任せで、こちらは「ダメ元だ。当たって砕けろだ」と、とにかく試してみるしかない。
今日、エルサレムから2時間近くかかって、ナブルス市への出入口、「フワラ検問所」にたどり着いた。ヨルダン川西岸には100を超える検問所があるだろうが、そのなかでもこの「フワラ」は、兵士による住民への暴行の最も激しい検問所の1つとして悪名高い。映画『パラダイス・ナウ』の最初に出てくる検問所のシーンも、この「フワラ」を模したものである。実際はあれほど閑散としているわけでなく、毎日数千人が行き来し大混雑する検問所なのだが。
「フワラ検問所」は占領への武装抵抗(イスラエルの言う「テロ」)の最大拠点の1つとして知られるナブルス市の住民の往来を監視し、武器の出入りを阻止する、イスラエルにとっては重要な検問所となっている。それはまた西岸最大の商業都市だったナブルスの経済活動を締め付け、抵抗への“集団懲罰”を加える場所でもある。
撮影許可を申し出た私の前に現われたのは、まだ20歳を越えたばかりのような青年将校だった。口の周りに薄い無精ひげをはやしているが、目つきに獰猛さはない。「IDFの本部に問い合わせてみるから、向こうで待て」というと、彼は無線の受話器を取り出した。私は検問所から20メートルほど離れた道路の道端に座り、パンとソーセージで昼食をとり始めた。やがてその司令官が私に「来い」と手招きをした。「OKだ。ただし“いい映像”を撮れよ!」とにんまり笑った。私は礼を言い、握手した。「よし、ではまず腹ごしらえをしてから」と昼食の続きを食べているとき、私に許可を与えた司令官は10人近い部下たちと共に、近くの基地に引き上げていった。この小隊は任務の時間が終わり昼食と休息をとるためだろう。私が昼食を終え、カメラを構えて検問所の兵士たちのところに近づくと、「何をしている?」と兵士の1人が詰問する。「先ほど、司令官から撮影の許可をもらったんです」と言うと、交替した司令官に私のことを通報した。司令官は無線で前の司令官と連絡を取り合っているようだった。やがて改めて許可が出た。しかし、ナブルス市内から出てくる車を調べている2人の兵士を背後から撮影しているとき、突然、その1人が振り返り、撮影している私を見ると、「何を撮っているんだ!」と恫喝しながら私のところへ向かってきた。「撮った映像を見せろ」というので、テープを巻き戻して見せた。幸い、彼の後ろ姿だけで振り返ったところで映像は途切れている。それでも彼の怒りは収まらない。幸い、他の兵士が「彼には撮影許可が下りている」と獰猛な兵士に声をかけてくれた。その兵士はそれ以上、私を追及する手立てを失ったが、私を敵意に満ちた眼で睨みつけた。
今度は、住民が列をなす建物の中に入り、住民が兵士にIDや持ち物を検査される場面を至近距離から撮影した。金属探知機による検査、器械が反応した青年にポケットのものを全部出させ尋問する女性兵士・・・、こんなシーンを自由に撮らせてもらえるチャンスはそうはない。生後数ヵ月の赤ん坊を抱えた若い男性が、列の横で延々と尋問されている。IDに何か不備があったのか。抱かれた赤ん坊がむずがる。いくら若い男性とはいえ、子どもをじっと抱えているだけでもたいへんだろう。しかし兵士はそんなことに同情する様子も見せない。ただ機械のように「任務」を遂行する。そんなシーンを夢中になって撮っていると、将校の1人が「兵士は撮るな」と私に命じた。でも兵士を撮らなければ検問のシーンにならない。私が弁明をしていると、気分を害したのか、今度は、「この建物の中での撮影はだめだ。外のあのフェンスの外から撮れ」と言い出した。逆らうとまったく撮れなくなってしまう。私は引き下がった。
私は撮影を止めて、10メートルほど離れた道路脇に座って、検問の様子をじっと観察した。列に並んでから検問を通過するのに、2、30分ほどはかかるだろう。ただじっと待つしかない。大きな荷物を持つ者は、近くに停車している車の移動式X線検査器械を通さなければならない。女性のカバンも例外ではない。ナブルス市内からやってくる黄色のタクシーの乗客は、まず兵士たちの10メートルほど手前で全員降ろされる。運転手と車だけが兵士に近づく。運転手のID、車の内部、後部のトランクなど2人がかりで徹底的に調べる。機械部品のようなものが出てくると、兵士がこれは何だとしつこく尋問し、運転手はそれについて一々説明しなければならない。車の点検が終ると、やっと乗客たちが兵士のところへ呼ばれ、IDのチェックが始まる。全部終り通過するのにやはり10分から20分ほどはかかる。
やがて反対側から軍のジープが検問所へ走り寄ってきた。止まったジープから出てきた兵士の手に緑色のIDが見えた。その後に続いてパレスチナ人の黄色のタクシーが止まった。しかしタクシーは止まったまま、検問所を越える様子もない。ただIDを手にした兵士の様子をうかがっている。このIDはあの運転手のもので、兵士に没収されたのだ。
タクシーは道路のはずれに停止するように命じられた。しかしその後、兵士たちが取り調べる様子もなく、放置されたままだ。痺れを切らして運転手ともう1人の乗客が車から降りてきた。その乗客はもう老人と呼べるほどの年齢で、脚が不自由らしく杖を頼りに歩行した。彼らはIDを没収されたまま、帰ることも進むこともできず、じっと待たされた。何か不審な点があるのなら、すぐに調べればいいのに、ずっと放置したままだ。これも“懲罰”の一種なのだろう。しかし彼らは声を荒げて抗議することはしない。すればますます“懲罰”が厳しくなることをこれまでの体験で知り尽くしているからだ。
このようにして、検問所のイスラエル軍将兵たちは、理由も示さないまま、理不尽に住民の生活の貴重な時間を奪い、人としての誇りも自尊心も奪う。
仕事や学校の時間に遅れると焦りながらも、どうすることもできない。逆らえば、通過さえできなくなるのだから。ただ耐えるしかないのだ。「もし自分があの住民の1人だったら・・・」と想像してみる。私はどんな行動を取るだろうか。臆病な私は、できるだけ早く通過させてもらえるようにと、兵士に愛想笑いをするだろうか。それとも生来の短気さゆえに、後先のことも考えず、掴みかからんばかりに抗議するだろうか。それとも蓄積していく怒りと絶望感で、私は武器を持つだろうか。
1993年の「和平合意」でガザ地区やヨルダン川西岸の“占領”は終ったと勘違いしている日本人がいるなら、このフワラ検問所に来て、30分でもいい、じっとその様子を観察すればいい。そして「もし自分があの住民だったら」と想像してみればいい。“占領”とは、“抽象的な言葉”ではない。人が自由に生活していく権利を理不尽に奪われる“現実”なのである。
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