Webコラム

日々の雑感 58
パレスチナ・2007年 秋 12

2007年11月8日(木)
ガザ訪問の長い1日

 朝8時半にエルサレムを出たタクシーは予定通り1時間半後の10時にエレズ検問所についた。タクシーの発着所も検問所への入り口もまったく15ヵ月前とは様変わりしていた。一番の大きな違いは、検問の建物である。まるで空港のような巨大な建物が目の前にそびえ立っている。その建物の敷地に入るにも、自動小銃を提げたガードマンが立ちはだかる厳重なゲートの前で、防弾ガラスに囲まれたブースの中の女性にパスポートとプレスカードをチェックされる。やっとゲートの通過が許されると、建物まで数十メートルを歩く。中は、空港の出入国管理とまったく同じようなブースが横に10箇所くらいずらりと並ぶ。ガザへの出入りが厳しく制限され、日に数十人も通過できないこの検問所になぜこれほどの数のブースが必要なのか。将来は出入りする住民や外国人がもっと増えるとでもいうのだろうか。私の前に3人のアメリカ人が通過を待っていた。プレス関係者ではなく、黄色のカードを示していた。国連関係者だろうか。3人で20分ほどの時間がかかっている。やっと私の番になった。ブースの中にいるのは「国境警備兵」の軍服を着た女性と男性4人。かつてのように女性1人が、チェックしコンピューターに名前やパスポート番号など個人情報を打ち込み、すぐに許可を与えるというふうにはいかない。特に私の場合は、多くのジャーナリストがそうするように、入国時に空港でパスポートに入国スタンプを押さないようにと係官に申し込む。これまでは別紙にその印を押してもらい、それがパスポートの入国印代わりになっていた。しかし最近、その入国カードが出なくなった。つまりパスポートに入国印を押さないと、自分が入国した期日を証明するものがまったくないということになる。ヨルダン川西岸の検問所で兵士たちにパスポートをチェックされるとき、いつもそれが問題になった。そのときはプレスカードを示すことで難を逃れてきた。
 このエレズ検問所でも、それがまた問題になった。プレスカードを提示しても、入国印がないことを4人の係官たちが不審がった。コンピューターで私の名前を探し、いろいろ協議しているが、ヘブライ語なので理解できない。ずいぶん時間が経ってから、窓口の女性係官が真新しい入国カードを差し出し、そこに名前や住所、パスポート番号などを記入するようにという。これを空港で出してくれれば、何の問題もなかったのに。提出したカードにスタンプが押され、やっと私は通過を許された。広々とした建物の中、出口を示す看板の矢印に従って進むと、円を4等分された回転ドアがあった。キャリアーに乗せた大型のカメラバッグと背中のリュック、そして三脚を担いで4分の1の円の中に入ったら、動けなくなってしまった。周囲には誰もいない。閉じ込められて動けなくても誰も助けてはくれないのだ。汗が噴き出してきた。閉じ込められたまま、やっとの思いで背中のリュックを下ろし、カメラバッグの乗ったキャリアーを足で蹴り進め、じわじわと回転ドアを回す。やっと開いた隙間から三脚と手に持った水ボトルを外に投げ出す。もう少し空くと、今度はカメラバッグとリュック、そしてやっと自分の身体を回転ドアから出した。もし私が前回のように大型の旅行カバンで移動していたら、絶対にここは通過できなかったはずだ。大きな荷物を持って移動するパレスチナ人はどうやってここを通過するのだろうか。なぜこんな回転ドアが必要なのか。看板の指示に従い、巨大な建物を出て通路を先に進むと、さらにもう1つ回転ドアがあった。今度は三等分なので少し前よりも楽だったが、それでもずいぶん苦労する。やっと抜け出したと思ったら、その先の三方の扉は鍵がかかったままだ。引き返そうにも回転ドアは反対方向には回らない。つまり行き場のない空間に私は完全に閉じ込められてしまったのだ。一瞬、どこかで出口を誤ってしまい、袋小路に迷いこんでしまったと思った。周囲には誰もいない。大声で人を呼んでみた。建物まで数十メートルある。しかもあの閑散とした建物の中の係官まで私の声が届くはずもない。「誰も気付かないこの場所にこのままずっと閉じ込められてしまう」という思いが頭をよぎると、全身から血が引くような恐怖感を覚えた。中の係官に電話しようにも、電話番号がわからない。もし手段があるとすれば、プレスカードを発行したエルサレムの政府プレス・オフィスに電話をし、そこからエレズ検問所に連絡してもらうしかない。しかし電波の届きにくいガザから私の電話で通話できる保証もない。まさに絶望的な情況の中、私にできることは、建物に向かって、「ハロー! プリーズ、オープン!」と叫び続けることだけだった。これまで占領地での取材で危険や恐怖心を感じたことはあったが、この恐怖心はこれまでとは全く質が違っていた。解決の糸口が見えない、絶望感から来る恐怖心だった。
 その時だった。平服の男性が建物から出てきて、こちらへ向かって歩いてくる。「自分の声が届いたんだ。助かった!」と心底思った。彼が近づいてきたちょうどその時、後ろから声をかけられた。振り向くと、厚い鉄のドアが開いている。声をかけたのはそこから入ってきた男だった。一方、建物から出てきた男は、イスラエル人ではなく、私と同じようにガザ側へ向かうパレスチナ人で、回転ドアを通ると、そのまま、開いたドアからガザ側へ歩き去っていった。
 やっと私は事情がつかめた。私は出口を誤ってはいなかったのだ。ただ、ガザ側への最後の出口が閉じられたままだったのである。私ひとりの通行のためには開けず、通行者が複数になった時点で、厚い鉄の扉を開けたのだ。声をかけてきたのは、荷物を運ぶことで金を稼ぐパレスチナ人のポーターだった。タクシー乗り場までずいぶん歩かなければならないと聞いていたので、今回は荷物を最少限にとどめ、長く歩ける用意をしてきた。そのため、私にはポーターは必要なかった。しかし、ガザでは働く機会のない男たちにとって、数十メートル荷物を運ぶことで20シェーケル(ほぼ600円)を稼げる機会だから、私の持つキャリアーをなんとか代わりに引こうとする。彼らの事情はわかるが、こちらも取材費を1円でも切り詰めなければならないフリージャーナリストの身、冷酷なようだけど、なんとか断った。ポーターの男は憮然とした表情で私を見送った。
 前回まであった屋根付きの回廊は壊され、あるのはコンクリートの道だけだった。境界に隣接していたエレズの工場群も破壊され、瓦礫になっている。タクシー乗り場はかつてより、さらにイスラエル側の検問所から遠ざかり、500メートルほども歩かなければならない。そこにはかつてのようにパレスチナ人警察官はいない。ほんの15ヵ月間ほどの期間だが、エレズはまったく様変わりしてしまった。

 エレズからタクシーで、ラジ・スラーニの「パレスチナ人権センター(The Palestinian Centre for Human Rights/PCHR)」のオフィスへ直行した。私のガザ取材の拠点の1つである。今年春、パレスチナを訪れたとき、ラジも他のスタッフも、私がガザへ来ることを止めた。当時、BBCのアラン・ジョンストン記者ら外国人の誘拐が続き、治安が最も悪化した時期である。だから私がガザへ入るのも、そしてラジら友人、知人たちと再会するのも昨年の夏以来だ。
 エルサレムからラジに電話したとき、声に張りがなく、疲れ切ったような様子が気になっていた。「センター」に着き、外出していたラジを待つ間、親しいスタッフが私に最近のラジの様子を語ってくれた。ハマスがガザを制圧した直後、ラジの母親が死去したという。早く父親を亡くしたラジは、別居してからもいつも母親を気遣い、事あるごとに実家に通い続けた。来日したときも、母親のために着物を選んでほしいと私の連れ合いに頼んだほどだ。そんなラジが、パレスチナの内紛と分裂で一番心を痛めていた時期に最愛の母親を失ったことは、大きな衝撃だったに違いない。さらに追い討ちをかけるように、封鎖の強化によってラファからエジプトへの出入ができなくなり、エジプトに滞在していたラジの妻と2人の子どもたちはガザへ帰れなくなった。一方、ラジ自身もエジプトへ出られず、家族はすでに7ヵ月も会えないままで、ラジはガザの自宅で独り暮らしをしているというのだ。
 しかしラジは、自分自身の不幸に落ち込んでいられる状況ではなかった。ハマスのガザ制圧後、深刻化したハマスの警察や武装組織による人権侵害の実態を監視し、報告・批判しなければならない事態になったからだ。最近、「人権センター」はハマスのハニヤ首相に対して、法の遵守と法システムの確立を訴える声明文も提出した。
 15ヵ月ぶりに再会したラジは、「この3ヵ月に3年分くらいの仕事をしたような気がするよ。とにかくずっと働きっぱなしだった」と言った。事態も事態だが、仕事で時間を埋めることで、自分自身の不幸を忘れようとしていたのかもしれない。
 私がラジと話をしている間も、彼の執務室には次々と訪問者がやってくる。外国人記者、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の外国人スタッフ、友人の精神科医で社会活動家のイヤド・サラージ・・・。彼らとの会話を私は側でじっと聞くことで、現在のガザの状況と、ラジの見方をいくらか読み取ることができた。
 外国人記者が、イスラエルによる燃料供給の制限についてのコメントを求めると、ラジは言葉を荒げた。「問題は『燃料供給の制限』のようなことではない。イスラエルの占領そのものなんです。“封鎖”という集団懲罰によって、苦しむのはハマスではない、民衆なんですよ。民衆が犠牲になっているんです。今のガザは、民衆が最低限の食料だけを与えられてやっと生き続ける“家畜小屋”です。私はハマスを弁護するつもりも守るつもりもありません。私の使命は一番苦しんでいる民衆を守ることなんです!」。ラジはその記者に叫ばんばかりに訴えた。それは「個々の事象だけに眼を向けるだけで、どうして全体の状況をきちんと捉えた質問をしないんだ」というラジの怒りだった。
 UNRWAスタッフやイヤド・サラージらとラジの会話で、ガザ制圧後、ハマスがスポーツセンターやコミュニティーセンターなど公共の施設の管理権を“力”ずくで奪いつつある現実を知った。そのため、これまで支援してきたUNRWAなど国際機関も支援の停止を決めつつあるという。外からは見えてこなかったハマスの現実を垣間見る気がした。

 ラジの車でハンユニスへ向かった。ユダヤ人入植地撤退前は、何時間もかかったハンユニスへの道は今は30分ほどで突っ走れる。2003年3月、カイロでのラジと在米パレスチナ人、エドワード・サイードとの対談のため、ラジと共に同じ道を走ったとき、イスラエル軍のアブ・ホーリー検問所で1時間以上待たされ苛立ったことを思い出す。「時代が変わったね」と2人で当時を振り返った。

 この日、ハンユニスの集会場に数百人が集まり、1956年のハンユニス虐殺の記念集会が開かれ、ラジはそのゲスト・スピーカーの1人として招かれた。民衆から敬愛された、パレスチナを代表するガザ出身の政治指導者、ハイデル・アブドゥルシャーフィー(1991年マドリッド中東和平会議のパレスチナ代表の団長)が2ヵ月前に死去したのち、ラジはその後継者の役割を果すことをパレスチナ社会から期待されるようになった。その発言は、以前にも増して、パレスチナ社会内部だけではなく、国際的にもパレスチナ知識人を代表する声として注目を集めるようになっている。
 第2次中東戦争の折、ガザに侵攻したイスラエル軍によってハンユニスで数百人単位の住民が虐殺された事実は、日本ではほとんど知られていない。この集会でラジは、記録資料を体系的に整理し、世界に伝え残していく必要性を説いた。
 集会が終ると、ラジと「人権センター」ハンユニス支部の幹部たちは、ハンユニス市の有力者たちと共に、市長の自宅での夕食会に招かれた。そこでもラジは今の政治状況について熱弁を振るった。時計はもう7時を回っていた。しかしラジの1日はそれで終らなかった。
 ラジはガザの最南端に近い海岸からガザ北部のジャバリア難民キャンプまで、暗闇の中を100キロ近いスピードで海岸沿いの道路を車で飛ばした。途中、3ヵ所の検問所で車を止められた。自動小銃を構えたハマスの警官だった。ドアを開けると、ラジはその警官たちに叫ぶように早口のアラビア語であいさつの声をかけた。圧倒されたのか、軍服姿の若い警官は固い表情を崩して笑顔を見せて、通過を許可した。
 ジャバリアに着いた時にはもう8時を回っていた。3日前、「人権センター」の幹部スタッフの妻が姉妹2人と共にハマス警察の車にはねられ、即死した。19歳の娘を頭に4人の子どもをもつ38歳の女性だった。ラジはその葬儀に参列するため、ジャバリアに向かったのである。
 「彼は事故の直後、私に『もう自分の人生は完全に破壊されてしまった。もう人生は終った』って言ったんだよ」と運転しながら、ラジは助手席の私に、妻を失ったスタッフ、ハムディの事を語って聞かせた。「彼はもう誰とも再婚はしないと思う。心から奥さんのことを愛していたからね。とりわけ美人で特別な女性だったというわけではないけど、とにかく彼は奥さんに心底惚れていたんだ。私はそれに、むしろ嫉妬さえ感じたよ。もちろん私も妻を愛してはいるよ。でもこんなに深く妻を愛せるかと問われれば自信がない。そんな彼に嫉妬さえ感じるんだよ」
 葬儀場に着いたのはもう8時半近かった。「葬儀」といっても、自宅の前の道に臨時にテントが建てられ、そこに並べられた100を超す椅子に男たちが座り、談笑しているだけである。青年たちによって、小さなカップで砂糖を入れないコーヒー(サダー)と甘いナツメヤシが振舞われる。妻を亡くしたハムディは、その男たちの間をあいさつしてまわる。もう夜更けだというのに、「人権センター」の多くの同僚たちが集まっている。参列者たちはみな平服で、日本の葬儀のような神妙な顔をして座っているわけではない。タバコをふかし、また振舞われるコーヒーをすすりながら、隣の仲間たちと笑いながら語り合っている。絶望しているはずのハムディもそんな彼らにときどき笑顔を見せる。談笑する参列者たちは本人に何も語らなくとも、側にいて談笑することで、「悲しみのどん底にいる君の側に私たちはいるよ」という無言のメッセージを送るのだ。パレスチナ式の「痛みの分かち合い」である。

 9時半過ぎ、ラジと私はやっと彼の家にたどりついた。“長い1日”に疲れきった私は、彼が用意してくれた部屋のベッドに倒れこむように横になった。しかしうとうとしていると、ラジが外から叫んだ。「ドイ、起きろ。これからパーティーだぞ!」。庭のテーブルにすでにラジの仲間たちが数人集まっている。蟹料理と魚フライがいっぱい詰まった箱が3箱も用意されている。市長宅での豪華な夕食を腹いっぱい食べた後だったから、もう食欲もない。しかし顔を出さないわけにもいかない。さっき食べたばかりのラジも蟹にかじりつく。「パレスチナ人権センター」代表であり、世界に名を知られたラジには、こうやって突然集まってくる昔からの友人たちがいる。中にはガザYMCAの代表もいる。若い友人もいる。PFLPの政治犯として投獄されていた時代からの仲間たちもいる。彼らはラジの社会的な地位などとは無関係なところで繋がっている、気の置けない“友だち”なのだ。
 実は、この日、ラジはあるヨーロッパの国の外交ルートを通し、エレズ検問所からエルサレムへ、さらにヨルダンへ渡り、家族の待つエジプトへ行ける可能性があると伝えられていた。その国の国民平和賞を受賞しているラジのために、大使館が動いてくれたのである。しかし、その期待は裏切られた。口には出さなかったがラジの失望が大きかったことは想像できる。
 「子どもたちが今、いちばん父親の私を必要としている。なのに側にいてやれない。電話口で子どもたちが『ガザに帰りたい』って泣くんだよ。自分は父親としてとても大きな“罪の意識”を感じるよ。子どもたちにとってひどい父親だ」とラジが私に言った。
 「そんな子どもたちに1日も早く会いたい、今日その願いがかなうかもしれない」。ラジはそう期待していたにちがいない。それが裏切られた。忙しく動くことで、それを紛らわしていたのかもしれない。仲間たちは、ラジの世話役のスタッフからそのことを聞き知ったのだ。落ち込んでいるはずのラジを励まそうと、彼らはごちそうを持って押しかけてきたのである。
 「彼らは私が元気なときは、そっとしておいてくれる。でも私が元気がなく落ち込んでいると知ると、こんなふうにみんな集まって押しかけてきて、大騒ぎするんだ」
 ラジ・スラーニはこんな友人たちに支えられながら活動を続けているのである。

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