Webコラム

日々の雑感 59
パレスチナ・2007年 秋 13

2007年11月10日(土)
ガザ:14年後のエルアクラ家

 1993年秋、オスロ合意の調印から1ヵ月後、私はガザ最大の難民キャンプ、ジャバリアのある家族の家に住み込みを始めた。「和平合意」と呼ばれたこの合意がほんとうにパレスチナ人民衆に平和と生活の安定をもたらすのか──それをまさに民衆の中に入って探ることが目的だった。その住み込み先が、知人のパレスチナ人ジャーナリストに紹介されたエルアクラ家だった。その時は断続的に半年近くこの家族と暮すことになった。その後も10年以上、私のガザ取材の滞在先はこのエルアクラ家だった。この家族や隣人たちから、私はいつしか「エルアクラ家のドイ、“ドイ・エルアクラ“」と呼ばれるようになった。
 そのエルアクラ家の長男は1993年当時、すでに30歳を過ぎていたが、仕事にもつけず、ぶらぶらと日々を送っていた。長男でありながら、弟たちの学用品1つ買ってやれず、むしろタバコ代さえ両親に無心しなければならない自分が惨めで情けないと、当時のインタビューの中で語ったことがある。学生時代、抵抗運動に参加し、イスラエル占領当局によって2年間投獄された経歴を持つバッサムは、イスラエルでの仕事も許可されず、かといってガザの中でも仕事を見つけるのが困難だったのである。彼だけではない。成人男性は7人ほどいたが、仕事についていたのはイスラエル内のスーパーマーケットで働くバッサムの父親の弟だけだった。彼の収入だけで15人家族が食いつなぐ生活だった。
 あれから14年、エルアクラ家は大きく様変わりした。長男バッサムは94年にラジ・スラーニの「パレスチナ人権センター」の調査員として職を得た。8年前にやっと結婚し、今では4人の子の父親となり、ローンで買ったガザ市内のマンションで暮している。次男のガッサンはUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の学校の教師になり、ジャバリア難民キャンプ内に新築した家で妻と4人の子どもたちと暮す。三男フサムは、当時からフランスに留学し、今ではリヨンの大学で教鞭をとっている。四男ヒシャームは当時、高校を卒業したが大学へも進学できず無為に日々を送っていたが、その後、リビアの大学でスポーツ学を学び、帰国後、さらにエジプトで1年間、博士課程の勉強をした。現在はガザの大学でスポーツ学を教えながら、博士論文を書いている。もう、1児の父親である。
 当時、高校生だった末息子のムスタファは大学を中退したが、今ではガザの身体障害者のための施設(フランスのNGOが支援)で働いている。2年前に結婚し、今年長男が生まれた。
 この兄弟たちとその家族が一斉に集まる金曜日の午後、私は食事に招かれた。家の中はこの兄弟たちの幼い子どもたちの叫び声、泣き声、笑い声、そしてそんな子どもたちを叱る親たちの叫び声で溢れかえる。当時と同じように、父親と兄弟たちが大きな皿に盛られた料理を囲む。泣く孫たちをあやすウム・バッサム(バッサムの母親)、当時と同じように息子たちの輪に加わりトランプ遊びを楽しむアブ・バッサム(バッサムの父親)。時が流れ、子どもたちは成長しそれぞれ独立して家族の状況は大きく様変わりしても、エルアクラ家の家族の強い絆は変わってはいない。もう自らも父親となった息子たちが、あの当時と同じように父親を囲みトランプ遊びに興じながら暖かい会話を交わし笑いあう。そんな光景を側でじっとみつめながら、私の脳裏に家族の当時の姿が蘇り、それが目の前の光景と重なり合った。そして私の胸に熱いものがこみ上げてきた。“家族”とは何か、“人の幸せ”とは何か、私たちが日本で失いかけたものを、イスラエルの厳しい封鎖の中で過酷な社会状況下にあるこのガザで、私は目の当たりにする思いがした。

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