Webコラム

日々の雑感68
パレスチナ・2007年 秋 22

2007年11月21日(水)
ハマス武装青年に右脚を奪われた友人の長男

 2003年春、イスラエル軍によるラファの家屋破壊の現状を取材するため、私は国境沿いのイスラエル軍陣地から200メートルほど離れた借家で暮すアブシャタット家に住み込み取材した。両親と17歳の長男を頭に8人の子どもがいる10人家族だった。父親のイブラヒムはかつて湾岸諸国で働いて貯めた金や、その後イスラエルでの仕事で貯めた金を元に、10年ほど前に3階建ての家を完成した。しかしその家は、2001年秋にイスラエル軍によって破壊され、そこから数十メートル離れた借家に移り住んでいた。そこは、昼夜を問わず軍の陣地からの機関銃の射撃音が鳴り響く危険地帯だった。
 2004年夏に再訪したとき、家族はサッカー・スタジアムの倉庫に移り住んでいた。その半年前に借家もイスラエル軍に破壊されてしまったのだ。英語が堪能なイブラヒムとは自由に意思疎通ができ、ラファを訪ねるたびに私はイブラヒムを訪ね、その時々のラファの状況、家族の近況などを聞かせてもらっていた。

 今回の取材はガザ市など北部が中心で、どうしてもラファまで足を延ばして取材すべき対象もなく、またそのための時間的な余裕がなかったので、今回はイブラヒムに会わずに帰るつもりでいた。しかしかつてラファで通訳をしてくれた青年が、イブラヒムがこれまでになく沈み込んでいると私に伝えてきた。長男のマフムードがファタハとハマスの銃撃戦の流れ弾で脚を撃たれ、片脚を切断したというのである。私がガザにいることをその青年から聞き知ったイブラヒムが、私に宜しく伝えてくれと伝言したという。たまたま取材で中南部のハンユニス市まで来たので、お見舞いだけでもと、私はラファへ向かった。
 一家は以前と変わらずサッカー場の倉庫で暮していた。家の中で昼寝をしているイブラヒムが起きてくるのを待つ間、次男からマフムードが脚を失った事情を聞いた。すると、通訳の青年の話とは大きく違っていた。ハマスとファタハの内戦がピークに達した6月中旬、家に侵入してきたハマスの武装青年たちにマフムードは至近距離から右脚を撃たれたというのだ。不運にも流れ弾に当たったのではなく、意図的に銃撃され、片脚を切断しなければならなくなったというのである。
 平静を装い、笑顔で私の前に現われたイブラヒムの手を私は両手で握り締め、「マフムードの脚のことを聞いたよ。なんと言っていいか・・・」と言葉を詰まらせた。彼は「神の御心のままに、だよ」と弱々しい笑顔を作った。
 家の居間に通され、イブラヒムから事の次第を聞いているとき、外出していたマフムードが戻ってきた。カーテンを開けて現われたマフムードの体は松葉杖に支えられていた。ズボンの右の裾がゆれている。そこにあるべき脚がなかった。私は立ち上がり、マフムードに歩み寄り、松葉杖で立っている彼を両腕で強く抱きしめた。まだ21歳、大人として人生の出発点に立ったばかりのこの青年が、片脚を失ってこれからどう生きていくのか。しかも彼は7人の幼い弟、妹の面倒を見ていかなければならない長男である。彼の心情を想うと、私の胸に熱いものがこみ上げてきた。英語を解さない彼にどんな言葉をかければいいのかわからなかった。ただ彼を強く抱きしめるしか私の心情を伝える術がわからなかった。顔を見ると、3年前の幼さが消えていた。濃い髭に覆われ、弱々しい笑顔がかえって彼の憂いの深さを際立たせていた。

 マフムードと父親のイブラヒムによれば、事の経緯は次のようなものだった。
 ハマスとファタハの銃撃戦が激しさを増した6月14日、危険を避けるために、一家はイブラヒムが働く中心街にある事務所に避難した。3男が忘れ物を取りに帰るというので、イブラヒムは家の鍵を渡した。3男が家に戻ったとき、外に出ていたマフムードが家に立ち寄った。友人たちといっしょだった。3男は目的のものを手にするとまた避難場所に戻り、マフムードは友人たちと家でお茶を準備し、飲み始めた。そのときマフムードは外で何が起きているのか状況がまったくつかめていなかった。
 お茶を飲んでいるとき、顔をマスクで覆い銃を持った4人のハマスの武装青年が家にやってきて、水を飲ませてくれと頼んだ。マフムードは水を彼らに渡した。彼らは武装したファタハの連中を見なかったかとマフムードに聞いた。彼は知らないと答えた。
 青年たちはこの家の窓からサッカー場を隔てて、ファタハの武装グループの拠点、情報局のラファ支部の建物が真ん前に見えることに気付くと、そこから銃撃しようとした。マフムードは「止めてくれ。ここから撃ったら、この家が危険になる。撃つなら外へ出て撃ってくれ」と叫んだ。そのことで武装青年たちとマフムードが言い争いとなった。すると武装青年の1人がマフムードの顔を平手打ちした。マフムードは殴った相手に打ち返した。相手は再び平手打ちし、またマフムードは反撃した。その争いの時に数十人の武装青年たちが次々と家の中に入ってきて、マフムードを殴り始めた。彼が殴られ倒れたとき、武装青年の1人がマフムードの脚を狙って撃った。その後も大人数でマフムードの全身を殴り続けた。最後に1人の男が「一番やってほしい懲罰はなんだ?」とマフムードに訊いた。「慈悲を我われに請え」とその男がいうと、マフムードは「自分は神に慈悲を請う。お前たちに慈悲など請わない」と言い返した。するとその男は、すでに撃たれていた右脚をまた撃った。同時に、部屋の外にいたマフムードの友人たちも撃たれた。
 その後、武装青年たちはマフムードの手を縛り目隠しをして、外に引きずり出した。そして撃たれた友人たちと共に通りに放り出したまま立ち去った。近所の人々がやってきて、病院に運ばれたのは放置されたまま30分ほど血を流し続けた後だった。

 マフムードの悲劇はそれで終らなかった。運ばれたのはハンユニスとラファの間にある「ヨーロッパ病院」だった。この病院は1993年のオスロ合意以後、EUの支援で建てられたため、ガザではそう呼ばれている。施設もガザ市のシェファ病院に次いで最も整備されていると言われている。しかし、この病院の医者たちは、運ばれてきたマフムードの傷ついた脚に包帯をしただけで、5日間ほとんど何の治療もせず放置したと、マフムードと、付き添った父親イブラヒムは言う。5日間まったく消毒も包帯の付け替えもされなかったというのだ。5日後、脚が冷たくなっているのに気付いたイブラヒムが医者に訴えると、5日ぶりに包帯が解かれた。そのときすでに傷口にはうじが湧いていたという。医者は脚を切断するしかないと言った。
 この病院は当てにならないと判断したイブラヒムはガザ市内の有名なクリニックへマフムードを移した。そこで表面のうじを取り除いたが、すでに脚の内部にまでうじが湧いていることが分かった。すぐにシェファ病院へ移し手術をした。しかし手術した医者は、化膿がひどく、イスラエルの病院に移すべきだと言った。
 撃たれてから19日後、マフムードはイスラエルの病院へ移された。熱は40度近くあった。その体温を下げるために1週間以上も要した。イスラエル人の医者はイブラヒムに、「もう右脚を切断するしか息子さんの命を救う道はない。辛いだろうが決断してほしい」と告げた。息子が脚を失うことで将来、どれほど辛い思いをするかを考えると、なんとしても切断は避けたかった。しかし切断しなければ、もうマフムードの命が危ないと言われ、医者の進言を受け入れるしかなかった。マフムードに事情を説明すると、彼もそれを受け入れた。
 右脚切断の手術を終えても、マフムードの高熱はなかなか下がらず、それから何日も集中的に熱を下げるための治療が行なわれた。そしてやっとマフムードは一命を取り留めた。

 この事件はイブラヒムを大きく変えた。あれほど信仰深く、モスクでの礼拝を欠かさなかった彼が、モスクでの礼拝を止めた。ハマスの影響力の強いモスクへ足を踏み入れる気になれないのだ。マフムードの右脚切断の災難を見舞うために何百人という知人、友人、隣人たちが一家を訪ねてきた。しかし、イブラヒムはハマス関係者、ハマス支持者の訪問は一切拒絶した。
 「道でハマスに関わる人に出会って、『サラマレコム(こんにちは)』とあいさつをされても、私は一切、返事を返さず、無視する。もうハマスを支持する人間とは一切関わりたくない」とイブラヒムは怒りのこもった声で言った。
 今イブラヒムは、ハマスと「ヨーロッパ病院」に対して訴訟を起す準備をしている。

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