Webコラム

日々の雑感 69
パレスチナ・2007年 秋 23

2007年11月22日(木)
私の「ハマス」観の転換

 11月12日、会場となったアンサール広場で、これまで見たこともない数十万人の大群集を実際目にするまで、私は「アラファト追悼集会」の意味をまったく理解できていなかった。「ハマスに統治され、影響力を失ったファタハ支持者たちが、日頃のうっぷんを晴らすためにファタハの黄色の旗を掲げて気勢をあげている」といった程度の認識しかなかったのである。しかしあの現場で、群集の熱気とハマス警官が参加者に向かって発砲するのを目の当たりにし、逃げながら怒りを込めて「シーア! シーア!」と罵声を上げる群集と、それに向かって容赦なく暴力を振るうハマス警官たちを目撃したとき、私は自分の認識の甘さ、状況判断の誤りに初めて気付いた。(関連記事:ハマスによる“アラファト追悼集会”への弾圧
 長男の右脚をハマスの武装青年たちに奪われたイブラヒムもあの会場にいたことを昨日初めて知った。(関連記事:ハマス武装青年に右脚を奪われた友人の長男
 彼はガザ地区南部のラファから200人ほどの住民たちと共に、車でガザ市に向かった。あの日、ラファからほとんど車が消えたとイブラヒムは私に言った。集会に参加するためガザ市へ向かおうとする住民たちが車という車を借り切ったからだ。しかしガザへの幹線道路のいたるところでハマス警察は検問所を設置し、車の移動を厳しく制限した。車を止められた住民たちは歩いてガザへ向かい始めたとイブラヒムは私に語った。
 似たような話をあるジャーナリストから聞いた。ガザ北部の町ベイトハヌーン(ハマスのカッサム・ロケットの発射拠点となり、イスラエル軍の攻撃で多くのオレンジ畑が破壊され、多数の住民が犠牲になった。人口は約3万5000人)からも、全人口の3分の2近い2万人が集会に参加するためにガザ市へ向かったが、町の出口でハマス警察の検問で車を止められた。住民はそれでも諦めず、ガザ市内までの16キロを歩いて会場にたどり着いた、と地元出身のジャーナリストが私に語った。彼によれば、ベイトハヌーンはかつて住民の9割近くがPFLP支持者で、オスロ合意に反対する集会がしばしば開かれ、アラファト体制に強く反発してきた町だ。その町が今や大半がファタハ支持者になっているという。つまり「反ハマス」の町になったというのだ。
 「あの会場に集まった住民の半分以上が、前回の選挙でハマスに投票した人たちだよ」とイブラヒムが私に言った。「その住民たちが、いまハマスの統治に『ノー』と言うためにあの会場に集まったんだ」
 彼によれば、あの会場に集まった群集は「ファタハ支持者」だけではなかった。イスラエル軍の厳しい封鎖で生活苦に喘ぐ住民たち、一方で武力にものを言わせ、自由や民主主義とはほど遠い強圧的な統治を続けるハマスへの反発を抱く住民たちだった。そのやり場のない不満と怒りを表出するために、誰からも強制されることなく集まった群集だというのである。

 「たとえイスラエルの封鎖によって生活が苦しくなっても、その不満と怒りはハマスへ向かわず、イスラエルとその“占領”に向けられている」。1年半前の2006年夏、ガザ地区各地で住民の声を拾い集め、私はそう結論づけた。当時の大方の住民の反応としては間違っていなかったと今でも思っている。しかし今年6月のハマスによるガザ制圧以後、住民の意識は変わってきた。今でも、「問題の根源は“占領”なのだ」という住民の根本的な認識に変化はない。ただそれ以上に、ハマス統治に対する不満が噴き出しているのだ。これまでにない厳しい封鎖によって生活物資が不足し、失業者がさらに増え、病気の治療のためにエジプトやイスラエルへも出られずただ死を待つしかない現状。それに対してハマス政府はなんら打つ手もない。逆に「銃による統治」の実態が日を追うに従って明らかになっていく。不満や抗議は銃によって封殺され、公に声を上げるのも容易ではないのだ。
 今回の封鎖の被害による怒りがイスラエルの“占領”だけではなく、ガザ地区を統治するハマスへも向かっている背景の1つには、この封鎖によって苦しめられているのは一般民衆ばかりで、ハマス自体はあまり痛手を受けていない現実への反発があると指摘する声は少なくない。その実態は、ハマス政府の幹部も認めた。ハマスの懐具合を知ろうと、ハマス政府の財務省次官(実質的なハマス政権の財務大臣)にインタビューしているとき、「ハマスはこの封鎖で痛手を被っていないでしょう?」という私の質問に、次官は「そうだ」と認めた。その直後、自分の失言に気付いたのか、「でも・・・・」といろいろ言い訳じみたことを語ったが、すでに彼のその発言はビデオカメラに収録されていた。
 ヨルダン川西岸ラマラの自治政府のアッバス議長は先週、「ハマスはその支持を拡大するためにこの封鎖を利用している」とハマスを非難した。封鎖でいっそう生活苦へと追い込まれる一般住民たち。その一方、ハマスはエジプトとの国境の地下に掘られたトンネルや他のさまざまな秘密の手段で、資金と武器は十分に外から供給できる。その資金で「貧困者」たちを「救済」することで、さらに「ハマス支持者」を増やしているというのである。それは全く的外れの指摘ではないように思える。民衆が封鎖で瀕死の状況に追い込まれるなか、ハマスだけが資金を潤沢に使える状況。その格差の中で、「封鎖を利用して勢力拡大」と受け止められる状況が生まれるのは当然だろう。
 原材料が手に入らず、操業停止寸前に追い込まれたある企業の幹部が、ガザの民衆が置かれている状況を私にこう説明した。
 「今、ガザ地区の一般民衆は三方から殴られています。1つはイスラエルの“占領”と武力攻撃、2つ目は銃で統治するハマス、そして3つ目は統治者ハマスを窮地に追い込み自分たちの勢力回復を狙うために、封鎖をむしろイスラエル側に奨励しているラマラのアッバス政権に、です。そして三方から叩かれ、最も苦しめられているのが一般民衆なのです」

 一方で、ハマスがとりわけガザ地区で今なお強固な支持層を維持しているのも事実だ。その支持層の維持と拡大のために主に3つの手法が用いられていると、ハマスの内情に詳しい、ある住民が私に説明した。
 1つは中学生や高校生など若い世代を学校やモスクでの巧みな組織化工作によってハマスのメンバーまたはその下部組織である青年サークルにリクルートしていくやり方だ。彼らはその後も強固なハマス支持者として大学生の活動家となり、さらに社会に出てもハマスの活動を担っていく。これについてはハマスのメンバーとなったある青年がその具体的な方法を証言してくれた。
 2つ目は、40代の壮年男性たちをモスクでのイマーン(導師)やハマス関係者たちの巧みな誘いによってモスクのさまざまな活動に導き、やがてハマスのメンバーにリクルートしていく。一家の長である彼らをハマスに取り込むことで、必然的にその家族や親族たちも影響を受けていく。
 3つ目がハマス系の慈善組織による支持者の拡大である。前述した「サラーハ協会」や「イスラム協会」など表向きはハマスとは独立したこの慈善組織の支援を受ける住民たちは当然のことながら、ハマス支持に傾いていく。(関連記事:ハマス系といわれる慈善組織「サラーハ協会」
 ハマスのデモへの支持者たちの動員力も定評がある。数日前、方々のモスクのスピーカーから、デモを呼びかけるアナウンスが響き渡った。前日、エルサレムのアルアクサ・モスクにイスラエルの極右団体が侵入したことへの抗議デモである。私が滞在するビーチ難民キャンプの民家の周辺にある数箇所のモスクから一斉にそのけたたましい叫び声が轟いた。私とワエルは会場となるガザ市内の広場に向かった。すると会場周辺は群集で埋まり、あちこちにハマスのシンボルカラーの緑の旗が翻っていた。頭のスカーフの上に緑色の鉢巻をし、ハマスの旗をマントのように羽織った若い女性たちもいた。ひな壇のリーダーの声に従って群集が一斉にスローガンを叫ぶ声が周囲に轟く。しかし、12日の「アラファト追悼集会」のあの群集の数と熱気を目の当たりにした後は、あの迫ってくるような熱気を感じることができなった。それは、居たたまれない感情に突き動かされ、自らの意志で何キロも歩いて集まってきた参加者による集会とは違って、そのハマスの集会には「組織的な動員」の匂いがするからだろう。

 2週間のガザ取材によって私は、過去の取材と日本での情報収集の中で自分の中にかたち作られていた“ハマス観”を、6月の「ハマスによるガザ制圧」から数ヵ月を経た今、修正する必要があることを痛感している。
 そう感じ始めたきっかけの1つが、1993年以来ずっとその生活を定点観察してきたエルアクラ家の反応だった。この一家の長、アブ・バッサムは「反ファタハ」で、オスロ合意にも「自分たちが奪われた故郷へ還る権利をアラファトが放棄してしまった」と激怒した。99年、パレスチナ自治開始から5周年目にアラファトがテレビ演説をしたときも、そのアラファトの「こここそがパレスチナだ」という言葉に、「どこにパレスチナがあるというんだ! お前はアメリカからたっぷりお金をもらっているからそんなことが言えるんだ! ふん!」とテレビ画面のアラファトに向かってあらん限りの罵言を浴びせたものだった。
 そんなアブ・バッサムが、前回の選挙でファタハに投票したとは考えにくい。彼はあえて語らなかったが、ハマスに投票した可能性が高い。そのアブ・バッサムに、「ハマス政府はどうですか?」と訊くと、彼は「チェ!」と、頭を振り上げた。パレスチナ人が強く拒否するとき、また嫌悪感を示すときによくやる仕草だ。奥さんのウム・バッサムに訊いても同じ反応だった。私は意外だった。あれほどアラファトとその腐敗した自治政府を嫌悪してきたアブ・バッサムは、それを選挙と武力で打ち負かしたハマスに好意的な感情を抱いていると思っていたからだ。長年のつきあいから、この人の政治的また社会的な感覚の真っ当さに強い信頼を置いてきた私は驚き、「好意的な民衆のハマス観」という、私がそれまで抱いていたイメージとの食い違いに戸惑った。だがその後、私自身が現場でさまざまな事象を見聞きするなかで、アブ・バッサムのあの反応とその意味を少しずつ納得するようになった。
 私が今回、ハマスについて新たに感じた疑問が2つある。1つは、ハマスと一般民衆とを“一体”として捉えるべきではなく、いまハマスと一般民衆は乖離しているのではないかという疑問だ。ハマスの呼びかけ(動員)に集まってくるハマス・メンバーや支持者も「民衆」の一部に違いないが、現在のガザでは“多数派”ではないというのが今回の取材を通しての実感である。
 2つ目は、明確に証明はできず、根拠に乏しい単なる私の感覚に過ぎないかもしれないが、「ハマス」という組織は一般民衆の生活の安定、幸福を目標として活動しているのではなく、組織の拡大と自らのイデオロギーの実現を最優先にして活動し、その目標のためには一般民衆の生活の安定や幸福を犠牲にすることも厭わない、そういう組織ではないかという疑問である。それはハマスに限らず、権力を握る為政者や組織には決して珍しくない傾向なのかもしれない。アラファトも例外ではなかった。アラファトは、その政治的な決定や手法において、いつも民衆の将来の幸福のための長期的なビジョンを最優先して政治判断をしてきたとはいい難く、むしろ自分の権力維持のためにそれを犠牲にさえしてきた実例が少なくないことは、パレスチナの歴史を冷静に振り返れば否定できないだろう。
 私のこの“ハマス観”は現在のガザの現状を表層的にしか捉えきれていない結果から来る、浅薄な見方かもしれないし、将来、さらに取材を続けていけば、その“ハマス観”はまた変化するかもしれない。しかし、2週間ガザ地区を取材し終えた今の段階では、ジャーナリストとして現場を歩き回って拾い集めた声と目にした現象から、私は上記した2つの疑問をどうしても抱いてしまうのである。

 しかしこの民衆の高まる不満と怒りによってハマスによるガザ地区の統治が近い将来、崩壊するとは考えにくい。圧倒的な武力を持つハマスの「銃による統治」の基盤があまりにも強固だからだ。ファタハを支持する住民が増えても、それを組織化し集結してハマスに対抗できる政治勢力を生み出せるファタハの指導者は今のガザにはいない。イスラエルの“封鎖”による圧力によっても、ハマス自体は微動だにしない。「アナポリス中東和平会議」の失敗後、もしイスラエル軍によるガザ大侵攻が行われたとしても、「外」の敵に対抗するために、民衆はそれと闘うハマスへの支持へとまた回帰していくだろう。ハマスもまた、民衆のこれ以上の“ハマス離れ”“ハマスへの反発”を回避するために、「外の敵」の存在を改めて民衆の目の前に示していく必要を感じているにちがいない。
 そういう光の見えない状況のなかで、底なし沼のような悲惨な状況へとさらに追い込まれていくのは、民衆である。私たちが決して目を離してはいけないのは、その民衆の動向だ。その“届かない叫び声”をできうる限り外の世界へ伝えること──それがジャーナリストである私の使命だと、いま自分に言い聞かせている。

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