(ドキュメンタリー映画「靖国」を観て(1) のつづき)
2008年2月9日(金)
中国人の首を刎ねるその“日本刀”は、この映画の複線として底流にずっと流れ続ける。映画のファースト・カットも靖国神社に奉納する日本刀作りの作業所から始まり、刀を作り続けてきた老刀匠の姿と声、日本刀作りの作業シーンは、靖国神社で繰り広げられる様々な光景の合間、合間に挿入されていく。
なぜ日本刀作りとその刀匠にこれほどこだわるのか、当初、私はよくわらなかった。映画のパンフレットの中に次のような文章をみつけて、私はやっとその意味をぼんやりと理解した。「2007年釜山国際映画祭 The Daily 10月11日」の映画評の中に以下のような文章がある。
「靖国神社で崇拝されているのは墓碑や位牌ではなく、神社の聖所に飾られている一本の日本刀だということは、ほとんど知られていない」「このドキュメンタリーの中心の主題は日本刀であり、その日本刀をめぐる武士道の倫理や神道の哲学、戦争の理念とそれによる国民の精神への影響などといったテーマが掘り下げられている」
私がそれを「ぼんやりと」しか理解できなかったのは、映像の中に「その日本刀をめぐる武士道の倫理や神道の哲学、戦争の理念とそれによる国民の精神への影響などといったテーマが掘り下げられている」のを私が読み取りきれなかったからだろう。
私は“靖国”の問題の本質をパンフレットの筆者のように「日本刀をめぐる武士道の倫理や神道の哲学、戦争の理念とそれによる国民の精神への影響など」といった表現でぼかす必要はないのではないかと考える。“天皇制”とそれを支える“日本の精神文化”にこそ、“靖国”の問題の本質があると私は思う。「神道の哲学」という言葉にはその意味がこめられているのかも知れないが、それではわかりにくい。李纓監督自身は、“靖国”の問題の根源には“天皇制”にあることをきとんと見抜いていると私は見た。だからこそ、靖国神社の歴史映像の中に、天皇の靖国参拝のシーンや日本軍将兵を謁見するシーンが執拗に登場するのだろう。また刀匠が一番心安らぐテープだと言って「天皇の声」を聞くシーンも、そのことを象徴しようとしているのだろう。それでも、刀匠の姿や日本刀が作られていくシーンと“天皇制”の接点は曖昧に見える。だから「このドキュメンタリーの中心の主題は日本刀」であると言われても、大方の観客はそれをすっきり消化できないまま、映画を終ってしまうのではないだろうか。
ところで、映画の中で不思議な一シーンが気になった。精魂こめて日本刀を作り靖国に奉納する、その作り手の“思い”を監督がその老刀匠に問うシーンである。刀匠はその質問の真意がよく理解できなかったのか、またその答えを捜しあぐねているのか、ずっと沈黙したままである。「次の瞬間、刀匠は重要な言葉を発する」と撮影者が予感したのか、カメラが顔に少し寄る。しかしそれでも刀匠は答えず、困ったような顔で沈黙し続ける。結局、1、2分のその長いカットの中で答えは発せられなかった。もし私が監督か編集者なら、そのシーンは「時間の節約のために」切ってしまうだろう。
同じパンフレットの中のある映画評には、監督の言葉を引用しながら「彼は『ある意味では、沈黙のほうがやかましい論争よりはるかに問題の核心を伝える』といい、老人の沈黙をそのまま映し出す。それとともにこのやり方は、「『中国、日本、韓国、台湾が歴史についてじっくり考えることができるきっかけ』のためでもある」と書かれている。
しかし私は、その老刀匠の戸惑い押し黙る表情に、『中国、日本、韓国、台湾が歴史についてじっくり考えることができるきっかけ』というほどの深い意味を読み取れなかった。私に見えたのは、質問の真意がわからず、またはこれまであまり考えてもこなかった質問を投げかれられ、答えに窮し戸惑う一老人の姿だった。むしろあのカットから私は、「靖国に日本刀を奉納することに一生を賭けてきたこの老人の仕事も、その“意味あい”を深く探求しながらの営為ではなかったのではないか。さらに言えば、この刀匠に象徴されるように、あれほどの犠牲を強いられた日本の一般民衆はその戦争の“意味合い”を深く追求することもなく、その犠牲を強いた“体制”に対して疑問と怒りを抱くこともなく、ただ『蟻』のように当時の体制の命令、またそれが意図的に創り出す“時代の空気”に従い流されてきたのではないか」という思いを想起させられるのだ。
他方、私はこのシーンに象徴される、無駄のようにも見える長いカットがかもし出す“空気”“臨場感”にはっと気付かされた。それは、私のように、限られた時間の枠のなかに“要素”を詰め込むテレビの番組制作で映像作りを学んできた者には、決定的に欠落している部分だったからである。10分程度の短い枠のなかに、より効果的に“要素”を表現するために、本筋とはあまり関係ない、「無駄」と思えるシーンをどんどんのカットしていく。その結果、伝えたい要素は伝わっても、余韻のない、ひじょうに“平板な映像”になってしまう。今、自分が編集しているパレスチナ・ドキュメンタリー映像の最大の欠陥を、私はこの映画「靖国」にずばりと指摘された思いがした。
もう1つ書き留めておきたいことがある。あの老刀匠に問いかける中国人監督・李纓氏の“言葉の響き”、つまりその言葉の“穏やかさ”“謙虚さ”そして“冷静さ”である。もし私が、あの監督の立場なら、私は“侵略戦争で多くの犠牲を強いられた中国の一国民”としての感情が先に立ち、糾弾調の問いかけをしたにちがいない。パレスチナ・イスラエルの現場で、私がイスラエル人、とりわけ政府や軍など当局側の人物、ユダヤ人入植者などパレスチナ人の権利も人間としての尊厳も無視する右派のイスラエル人たちにインタビューするとき、あたかも自分がパレスチナ人の一人であるかのように、感情的になり、糾弾調になり相手を追及してしまうことがある。それによって、相手の真意をもっと深く聞き出すチャンスを自ら潰してきた苦い体験が幾度となくあるがゆえに、李纓氏の「その透徹した目線と人間に対する深い愛情が窺え」「偏狭なイデオロギーにとらわれることのない」(パンフレットの「解説」より)“記録者”として姿勢に、私は学ばねばならないと思った。
関連サイト:映画『靖国 Yasukuni』公式サイト
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