Webコラム

臼杵陽インタビュー(3)
「なぜガザは封鎖・大量殺害されるのか」より

2008年3月30日(日)

以下は、臼杵陽・日本女子大教授へのインタビューの第3弾である。
臼杵陽インタビュー(1) 臼杵陽インタビュー(2)

【アッバス首相と西岸住民の反応】

臼杵:アッバス自身は極めて現実的な政治家だから、やはり見極めていると思います。つまり、今のハマスに対しては結構冷たい視線で、自分たちとしてはハマスと話し合うつもりは全然ない。これは全くのイスラエルあるいはアメリカ向けの発言とは言い切れない。少なくともガザ地区を切り離した時点で、アッバスはハマスに関してかなり見切りをつけているところがあると思います。だからアッバスは、“ハマスの自壊作用”を待っていて、自壊した時点で自分の手を差し伸べることによって何らかの解決、いわゆる“落とし所”を見つけていくという考えではないかと私は思っています。

これはパレスチナの長い歴史のなかで、つまり1920年代、委任統治でパレスチナができた当時からの課題だと思うのです。パレスチナ人のなかでは、いつ、どこで妥協すべきなのかということがずっと議論になってきているということです。要するに、「“抵抗する”ことによってどんどんと失っていっている」という議論があるわけです。今回の状況もそうです。それに近いと思います。つまりどこまでで妥協すれば、自分たちのマイナス、つまり損失が最低限で終わるのか、ということです。今はもう、妥協することによってはじめて、ようやくより少ないマイナスになっていくという、そういう構造ができあがってしまっています。それはもう、20 世紀になってからの、あるいはイスラエルという強者が目の前に立ちはだかって以来の権力政治の中でのパレスチナの歴史だと思うのです。だからこそ、アッバスのように、「もう現実を見るしかない。これは妥協ではないのだ」という政治家が出てくる。「最低限の損害で今の状況を維持するため、これはもう“必要悪” と言ってもいいような状況なんだ」という議論がパレスチナ人の間で徐々に出てきているといわれています。「抵抗しなければならない」。一方で、「いやそうではない。現実のなかで解決方法を見出していかなければいけない」という、このいわば“攻めぎ合い”がずっと昔から続いています。それが今回、ガザ地区と西岸という対比のなかで、かなり前面に出てきている気がするのです。だからパレスチナ人のなかでも、ガザ的な悲惨な状況を見て、「あのように絶望的な状況にはなりたくない」という意識は、西岸の住民のなかにかなり強くなっていると言えるような気がします。

ただ、その一方で常に歴史を動かしてきているのは、“抵抗する側”の“武力闘争”であるという現実もずっとあります。この微妙なバランスがあるから、アッバス自身の中にも、今はイスラエルとアメリカの動きをにらみながら行動しているけれども、もし本当に状況として全く展望がなくなったときには、アバッス自身の考えや行動が変わるかも知れないという可能性も否定できないと思います。ですから、いつもその“バランス”です。

【日本は何ができるのか】

臼杵:その問題では、NGOなどを通じて、日本は基本的に“人道援助”をする必要があると思います。それはずっと日本政府もやっているし、やらなければいけないとずっと言い続けています。それは、“当然のこと”としてやらなければならない。

それにプラス何をするかという問題です。やはりパレスチナに対する援助というのは切るべきではないし、それに対して日本の援助がきっちりと届かなくなるような状況があるならば、それはイスラエル政府に対して、それなりに是々非々できちん日本政府はものを言うべきだと思います。

これは前提としながら、ではそれ以上何が出来るのかということになると、もう全然レベルの違う話になるとは考えています。

例えば「抗議行動」をするのが一番いいんかもしれせんが、ただ残念ながら、それをやったところで何も変わらないというのが現実です。抗議をして圧力をかけることによって何かが変わるという可能性があるならば、やる意味があると思うのですが。ただ、少なくとも我われ自身が今の状況のなかで、何らかの発信をしていかなければいけない。「こういうことが起こっている」「起こっているその事に対してこのように思うんだ」という発信はしなければいけないと思います。ただ、それをイスラエルに対する非難だけでは、もう問題は解決できないと思います。だからそこが微妙な問題です。

土井:イスラエル批判だけではなくて、プラス何が必要ですか。

臼杵:やはり、同時に今の状況をどのように自分たちが見ているのかという“見取り図”を示した上で、「自分たちはイスラエルのやっていることをどのように査定するのか」ということをやった上で、パレスチナ人の置かれている状況も前面に出していきながら自分たちの見方を提示していく。

パレスチナ人に対する支援は必要で、やらなければいけないけれど、それだけでは何も見えてこない気がするのです。つまり「イスラエル批判」だけではどうしようもない。今の状況は、「どちらが悪い」ということを越えたレベルで動いています。もちろん全体状況のなかで「対テロ戦争」という名目で、すべてが動いていること自体が問題であるわけですから、その部分が崩れない限り、今の構図は何も変わらないのです。もちろんイスラエルの行為は許されるべきことでは絶対ない。ただ、「それではそれを糾弾する声をあげてイスラエル政府が変わる可能性があるのか」と言えば私はないと思う。ないからこそ、逆にイスラエル政府は「自分たちのやっていることは正統だ」と意固地になっている。それはなぜか。やはり「自分たちは『対テロ戦争』の一環としてやっている。それは日本政府ふくめて世界的に支持されているんだ」という言い分があるからです。「それに対してどういうかたちで声を挙げるか」ということになれば、もう全体構造を変える以外にないという感じがします。もちろん、個々の局面で抗議は必要だとは思います。ただ、それがどういう効果があるのか、ということを常に認識しながらやっていく必要があると思います。

【「テロ」をどう定義するか】

臼杵:基本的に、私は現在使われている「対テロ戦争」の「テロ」という使い方には与していません。そういう使い方もしません。だから「テロ」と言うときは、あくまで「対テロ戦争」の文脈における「テロ」という言い方であり、その「テロ」というのは、かなり限定された使い方です。例えば、いまパレスチナでハマスがやっていることは「テロ」ではないと思います。あれは、あくまで“武力攻撃”です。しかしながら、それは相手側から見れば「テロ」という言い方になります。要するに、“立場の違い”の問題だと考えています。もちろんもう少し客観的に“武力攻撃”と言うべきであって、それを例えば「ゲリラ的には正統だ」というつもりは全然ないのですが。少なくともそこに付加的な価値、つまりマイナスの価値を付与するというのは一つの立場の表明です。それは2001年の9.11以降のなかで作り上げられていった「テロ」に関する言い方に乗って「テロ」という言い方を使っているだけであって、すべてのものを実際に、「テロ」とは思いません。

要するに「非戦闘員を攻撃した場合には、もう完全に“テロ”」というのが一般的な定義だと思います。その事件が起きた時点で、「戦闘員か非戦闘員か」の区別をするしかない。そういう意味では、軍人が一人も乗っていないバス中で自爆するとすれば、それは“テロ”だと思います。つまり、「テロ」の定義は極めて限定的に使われるべきだと思います。

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