2008年6月27日(金)
【第3章】同義的根拠も消えていく
過去の犯罪に対する償い
- イスラエルの建国は新たな犯罪をつくり出した。ほとんど罪のない第三者であるパレスチナ人がこれに巻き込まれたのだ。この事実は誰にも無視することができない。ユダヤ人に対して行われた犯罪行為は、イスラエルの存在を養護する理由にはなる。しかし特別待遇を要求するイスラエルの主張は、自らのパレスチナ人への犯罪行為によって土台が崩れるのだ。(P.169)
- シオニストの野心はパレスチナの恒久分割案をも超えるものだった。米国では、とくにイスラエル支持者の間では、「シオニストはパレスチナの恒久分割に同意するつもりがあった」と広く考えられている。確かに彼らは、英国のピール調査委員会が1937年に提案した分割案と、国連が47年に提案した分割案の両方に同意した。しかし提案の受け入れは「彼らがパレスチナの一部だけを恒久的に受け入れるつもりだった」ということを意味しない。あるいは彼らがパレスチナ国家建設を支持しようと思っていた、という意味ではない。最近の学術研究が十分に立証しているように、シオニストの指導部は時には、第一段階として分割案を受け入れようとしたことがあった。しかしこれは戦術上の策であって、彼らの真の目的ではなかった。彼らは自立したパレスチナ国家とこの先ずっと共存していくつもりはなかった。なぜなら、共存はユダヤ人国家をパレスチナ全土に建国するという彼らの夢と直接対立するものだったからだ。
シオニストの間にはピール委員会の分割案に対する激しい反応があった。シオニストの指導者ベングリオンは、同僚たちに分割案の受け入れを認めさせることはほとんどできなかった。だが、彼らはつに提案に同意した。というのも、彼らはベングリオンが最終的にはパレスチナ全土を奪取するつもりであることを知ったからだ。ベングリオンはこの点をはっきりと示して、37年夏のシオニスト幹部会でこう語っている。
「建国に続いて大軍隊を創設したら、われわれは分割案を破棄してパレスチナ全土に進行しよう」
同様に、この年、彼は息子のアモスにこう告げている。
「この土地全土に及ばなくてもよいから、直ちにユダヤ国家を立ち上げよう。残りは追々われわれのものになる。われわれのものになるに違いないのだ」
イスラエルの学者ウリ・ベンエリエゼルはこう記している。
「47年5月13日に米国で行われた“ユダヤ機関”の幹部の集まりでベングリオンはこう語った。「われわれはイスラエルの地を全部ほしい、それこそ、そもそも目指したものだから」と。1週間後に、エルサレムの代表議会向けの演説で、イシュヴ(ユダヤ人入植者社会)の指導者でもあるベングリオンは、このように問うている。「バルフォア宣言や委任統治が目指したものはそもそも何であったか。何代ものユダヤの民が抱いてきた希望が目指したものはそもそも何であったか。それは最終的に“イスラエルの地”全体にユダヤ人国家を創設することだ。このことに同意しない者がわれわれのうちにいるだろうか」と。6月のイスラエル労働党(マパイ)書記局での演説ではこう語っている。「パレスチナの土地のいかなる部分だろうと、あきらめることは間違っているのではないか。われわれはそうする権利はないし必要もない」と。(P.171−172)
- 47年11月に国連は、シオニストとパレスチナのアラブ人との間の、新しいパレスチナ分割案を提案した。シオニスト側は公式にはこの案も受け入れた。しかし実際には、ベングリオンはトランスヨルダン国王のアブドッラー1世との間ですでに取引交渉を行っていた。それはイスラエルとトランスヨルダンの間でパレスチナを分割し、パレスチナ人には国家を与えることを拒否するというものだった。この秘密協定はトランスヨルダンがヨルダン川西岸地区を確保し、イスラエルが残りのパレスチナを可能な限り取ってもよいという内容で、英国もそれを承認していた。この取引は結局、48年の第1次中東戦争期間中に、部分的にではあったが実行された。(P.172)
- ベングリオンは、パレスチナ人との“相互の合意”によって排除を行うことを好んだようだ。これは疑いない。しかしその可能性がほとんどないことも理解していた。また自分たちの目的を達成するために、シオニストには強い軍隊が必要なことも理解していた。モリスはこの展を簡潔にこう述べている。
「もちろん、ベングリオンはアラブ人移送推進派だった。内部に人口が多く敵対的なアラブ人を抱えていては、ユダヤ人国家の実現はできないことを彼は理解していた。ベングリオンは正しかったのだ。もし“彼がやったこと”が実際に行われていなければ、国家は誕生することはなかっただろう。このことははっきりさせておかなければならない。このことを避けて通るのは不可能だ。パレスチナ人を追い払わなければ、ユダヤ人国家はここに出現しなかっただろう」(P.174)
- イスラエルの元国防相モシェ・ダヤンは、イスラエル国家建国のためにシオニストがパレスチナ人に加えたこの惨劇を、こう描写している。
「ユダヤ人の村はアラブ人の村だった場所に建設された。誰も、これらのアラブの村々の名前を知りはしない。それも仕方のないことだと思っている。なぜなら地図がもう存在しないからだ。地図が存在しないだけではない。アラブの村も、もうそこにはない。この国で以前アラブ人の住人がいなかった場所など1つもないのだ」(P.175)
- ベングリオンは56年、世界ユダヤ人会議(WJC)議長であるナフム・ゴールドマンにこう語っている。
「もし私がアラブ人指導者なら、イスラエルとは決して仲直りしないだろう。それは当然だ。われわれが彼らの国を奪ったのだ。確かに神がわれわれに約束した。しかしアラブ人にとってそれはどうでもいいことではないか。われわれの神は彼らの神ではないのだ。われわれはイスラエルの民だ。それは確かなことだが、もう2000年前の話だ。彼らにとってそれが何だというのか。ユダヤ人排斥思想はずっと存在し続けている。ナチス、ヒトラー、アウシュヴィッツ。だがそれはアラブ人の罪だったのだろうか。彼らアラブ人が見たのは、“イスラエル人がここにやってきて、自分たちの土地を盗んでしまった”その事実だけだ。それを受け入れろといっても無理なことだ」(P.176)
- 2000年までには、ついに米国の政治家が「パレスチナ国家の妥当性」を堂々と口にしても大丈夫になった。同時に過激派の暴力とパレスチナ人の人口増加に伴う圧力のため、イスラエルの指導者は、ガザ地区の入植地停止とヨルダン川西岸地区を含めた領土上の譲歩を探らざるを得なくなった。それでもなおイスラエルのどの政権も、パレスチナ人に独自の自立的な国家を与えるつもりはなかった。エフード・バラク首相が2000年7月にキャンプデービッドで提案した“気前よい”と言われた提案ですら、イスラエルの支配下で実質的な武力を持たない、細切れにされた国家をパレスチナ人に与えようというだけのことだった。02年にイツハク・シャミール元首相は、「パレスチナ人にいかなる国家を与えることにも反対である」と繰り返し主張した。一方、ビンヤミン・ネタニヤフ元首相はその翌年、「自分は半主権のパレスチナ国家なら好ましいと思う」とはっきり延べた。(P.178)
- イランのアフマディネジャド大統領が「イスラエルは歴史のページから消えるべきである」と発言しているにせよ、イスラエルの存在が危ぶまれているわけではないのだ。さらに重要なことは、過去にユダヤ人が苦難を味わったということは、イスラエルが何をしても必ず助けるという義務を、今日米国に負わせる理由にはならないということだ。(P.178)
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