2008年7月3日(木)
「君が代不起立」の象徴として知られる根津公子さんのドキュメンタリー映像『“私”を生きる──東京都教員・根津公子──』(仮題)の粗編がつながった。全編1時間30分。これからさらに、不足部分の追加撮影、使用する写真の差し替えや修正、全体構成の再点検、テロップ入れなど、完成までにまだまだ細かい作業が続く。しかし、大きな流れは決った。企画を立てたのが昨年の1月、撮影開始は2月だったから、16ヵ月後の粗編完成だ。ただ、この間、ずっと根津さんの取材に係りっきりだったわけではない。2度にわたるパレスチナの現地取材、パレスチナ・ドキュメンタリー映画・粗編の編集作業、拙著『沈黙を破る』の執筆など本来の仕事をやりながらの取材だった。しかも、どこで、どういう形で発表するのか、まったく当てのない取材・撮影だったから、はたして形になるのかずっと不安を抱え続けてきた。それでも取材を続けてこられたのは、やはり根津公子という人物の行動と言葉が放つ“磁力”だった。
私が根津さんを追ってみたいと思ったのは、教育問題、とりわけ「君が代不起立」問題に特別の関心があったからではない。偶然、根津さんの講演記録を読んで、“現在の社会や教育現場での空気・大きな流れ”に独り抗い、それに対する激しい攻撃にも屈せず、凛として生きるその“生き方”が気になったからだ。
昨年2月14日、町田市鶴川のある民家で、私は根津さんと向かい合い、ほぼ3時間、根津さんが教員になる経緯、学校現場での攻撃と闘い、挫折と蘇生など半生の歩み、さらに人生観、価値観など根津さんの内面にまで踏み込んで話をじっくり聞かせてもらった。そして私は改めて、「根津公子さんを描くなら、『君が代不起立』運動の“シンボル”としてではなく、その“生きる姿勢”そのものを浮き彫りにしていくべきだ」と確信した。根津さんの生き方は、教育問題や「君が代不起立」問題に限定されない、普遍的なテーマを提示しているからだ。
この16ヵ月間、鶴川第二中学校や南大沢学園養護学校の卒業式、両校への“門前通勤”、教員たちを対象にした家庭科の“模擬授業”、東京都庁前での抗議デモ、都教育委員会への抗議、さらにご自宅での生活の様子など、パレスチナの取材や映画作りの合間を縫って取材を続けてきた。撮影テープはこの3月には30時間を超えていた。その中でも圧巻なのは、3月31日、南大沢学園での「処分言い渡し」の日の出来事だった。根津さんを解雇させないためにこの1年間、地道に運動を支えてきた一般市民の支援者たちが歓喜するシーンは、私のドキュメンタリー映像の山場となっている。遠く大分から支援にやってきた84歳の老婆、根津さんの闘いに感化され、「不起立」の闘いを始める中で精神疾患の病から立ち直った広島の青年教師、鶴川の中学校の“門前出勤”を続ける根津さんを当初、「危険思想を持った過激な教員」といぶかっていたが、対話のなかでその人格と生き方に感銘し、自主的に支援運動を始めた地元のお母さんたちのグループ……。根津さんの周囲に集まる人たちが魅力的だ。ほぼ確実と思われていた根津さんの解雇を阻止したのは、彼ら一般市民の「なぜ?」「この処分はおかしい」という素朴な疑問と怒りから発した自主的な運動だった。マスコミが動いた大きな要因の1つも、根津さんの闘いの“正当性”と共に、これを支えた一般市民の動きへの共感だったと思う。
私は教育問題に関してはまったくの素人だ。今、製作中のこのドキュメンタリー映像も、根津さんを初めとする勇気ある一部教員たちの「君が代不起立」の運動、現在の日本の教育問題そのものを描くことを目指してはいない。「自分が納得できない社会の大きな潮流に抗って生きるとはどういうことなのか」、もっと言えば、「1人の人間が“自分らしく生きる”とはどういうことなのか」を根津公子という人物の生き方を通して問いかけたいと願っている。そしてこのドキュメンタリー映像を観る人たち1人ひとりがその“鏡”に映し出される自分自身の姿と生き方を見つめなおす、そういうきっかけになる作品になれば、と思う。
「国家主義化」「合理化」という現在の日本の大きな潮流に、疑問を抱きながらも押し流され、その激しい競争社会の中で「勝ち組」になれないのは「自己責任」なのだと思い込まされ、押しつぶされていく人たち。そんなふうに「負け組」に分類され、社会の隅に追いやられていく人たちも、「自分らしく“私”を生きる」道はあるのだという希望をみつける手掛かり、かすかな“光”になれば、たとえ稚拙なドキュメンタリー映像であっても創る意味はある。私の“伝え手”としての乏しい力量をはるかに超えて、“根津公子”とその生き方には、それだけの“力”はある。
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