2008年7月9 日(水)
アメリカから突然、国際電話が入ったのは1ヵ月ほど前だった。「土井先生ですか。Sです」という歯切れのいい声。20年ほど前、私が広島YMCAビジネス専門学校で英語教師をしていた時の「教え子」だった。当時18歳だった彼女も、もう30代後半、2児の母親となり、インディアナ州のインディアナポリスで暮している。久しぶりに一時帰国するから、会いたいという電話だった。毎年、現地から送られてくるクリスマス・カードに添えられた短い手紙で、彼女の様子と大きくなっていく子どもの成長ぶりは幾分つかめてはいた。でももう19年も会ってはいない。私の連れ合いにも会ってみたいというから、私の自宅へ招待する約束をした。
そのSが6日の朝、2人の子どもと2つの大きなスーツケースを引いて我が家にやってきた。子どもは15歳の娘と10歳の息子で、上の子はもう立派な大人の女性の体つきである。もう3年もすれば、私が出会ったときのSの年齢になる。母親が2人の子を日本語で育ててきたので、日本語で会話できる。ちょっとホッとした。母親のかつての「英語の先生」がこの程度の英語しかできないのかと失望されるのも悔しいから。
19年ぶりに会うSの面影は、広島時代と大きくは変わってはいなかったが、結婚、渡米、出産、育児、そして離婚と様々な人生体験を乗り越えてきた彼女の表情は、まだ幼かった当時とは違い、きりっと引き締まった大人の顔だちになっていた。
1985年から1年半のパレスチナ滞在の取材結果をやっと拙著『占領と民衆─パレスチナ─』(晩聲社・1988年出版)にまとめ上げた後、私はアメリカへ渡った。在米のパレスチナ人、そしてパレスチナ・イスラエル問題に大きな影響力を持つ在米ユダヤ人を取材するためだった。だが、現地を断続的にほぼ9ヵ月間取材したのち帰国したものの、その取材結果をどう形にしたらいいのかと途方に暮れていた。執筆に専念すれば生活費も稼げない、生活費稼ぎにアルバイトを続ける生活では執筆に専念できない。ジレンマだった。
そんな時、大学時代からお世話になっていた広島YMCAの総主事(当時)の林辰也さんが、「うちの専門学校で教えないか。本を書く時間も作れるぞ」と誘ってくれた。と言われても、私が専門学校で教えられる科目など思いつかない。「英語はどうだ。いろいろ海外で取材しているんだから、英語ならできるだろう」と林さんは言う。確かに現地では英語で取材し、英字紙や英語の資料は、仕事柄、読めるには読める。しかし、他人に教えられるほどの“英語力”ではない(その後、教師時代にアメリカで追加取材中、あるアメリカ人が、私が「英語教師」だと聞いて、唖然としたような表情をしたことを今でも鮮明に覚えている。その表情は「そんな英語力で先生が務まるのか。それほど日本では英語教師に不自由しているのか」といわんばかりの呆れ顔だった)。「大丈夫だよ。それほど高度な英語ではなく、基礎英語を教えてくれればいいから」と林さんは私の背中を押した。「それに土井君は、いろいろ世界を見てきたんだから、そういう話ができる特別な科目を作ろう。『国際事情』というのはどうだ?」と言われ、私もだんだんその気になった。その「国際事情」の授業が、その後、林さん自身に災いをもたらすことになろうとはその時、林さんも私も予想もしなかったが。
1989年4月、私は広島YMCA専門学校英語科の教員となり、半年間のハワイ留学がカリキュラムに組まれた「国際科」クラスの担任となった。学生は7人、高校を卒業したばかりの18歳の女性たちである。その1人がSだった。
専門学校の学生たちは、試験の偏差値が高い、いわゆる「優等生」は少なかった。英語力も高くなかったため、授業も基礎的な英語を教えることになる。林さんの言葉どおり、私の英語力でも教えることができ、ホッとした反面、基礎的な文法から教える授業は教える側にとっておもしろいとは言えない。教えられる側にとっては、もっとつまらなかったにちがいない。退屈そうな学生たちに、私はよく雑談をした。世界放浪時代のエピソード、アジアや中東、アメリカなど様々な取材現場の体験話、ときには「過激なテーマ」も取り上げた。南京虐殺の資料写真を使った日本の加害歴史の講義もその一例だった。さすがにその時は同僚の教員たちから批判の声があがった。「土井先生は、英語の授業で“思想教育”をしている」というのである(こういう体験をした私は、根津公子さんが家庭科の授業で“従軍慰安婦”の話をして非難されたという話に少しも驚かないし、逆に親近感さえ抱いてしまう)。
私の“過激さ”は、「国際事情」の授業でいかんなく発揮された。この授業はオープンクラスで、どの科の学生でも自由に参加できた。90分の授業の半分は、世界のドキュメンタリー番組や映画を見せ、後の半分でその背景を私が解説し、最後に学生たちにその感想を書いてもらう授業である。例えば、南アフリカのアパルトヘイトを描いた映画『遠い夜明け』を見せ、アパルトヘイトとは何か、主人公の黒人解放活動家スティーヴ・ビコはどういう存在だったのかを私が説明する、といった内容である。これまで学校の世界史や地理の教科書で描かれる狭い「世界」しか知らなかった彼女たちにとって、同時代に実世界で起きているさまざまな出来事の映像と話が新鮮だったのか、単位にはつながらないその授業にたくさんの学生たちがやってきた。
中国で天安門事件が起こったのは、私が教師となって2ヵ月後の1989年6月だった。民主化を求めて立ち上がり、北京の天安門広場に集まった学生たちを、中国政府が武力で弾圧、多数の学生たちが殺害されたこの事件は、広島市で学ぶ多くの中国人留学生たちの間にも強い衝撃を与えた。事件が報道されたその日、広島市在住の100人を超える中国人留学生たちが平和公園に集結し、天安門広場での弾圧に抗議するため座り込みデモをした。私は学生たちが現在進行形の「国際事情」を知る絶好の機会だと思った。その日の英語の授業を「野外実習」に切り替え、私が担任をするクラスの学生たちを平和公園へ連れていった。平和記念碑の前に座り込み、すすり泣く留学生たちを前に、私は学生たちに「あの中国人留学生たちの姿をちゃんと目に焼き付けておくように」と言った。やがて私は、泣く留学生たちの姿にいたたまれなくなり、同行した7人の学生たちに「私は彼らと共に座る。君たちは自分たちでどうするか判断してください」と告げ、留学生たちの列の後方に座った。すると学生たちは次々と私についてきて、いっしょに座った。この座り込みに加わった日本人は、私と学生たちだけだった。
座り込みに加わった制服姿の女子学生たちの姿は、このデモを取材していた地元のテレビ局にとって、願ってもない格好の“取材対象”となった。テレビカメラと記者たちが学生たちに群がった。「どうしてこの座り込みに参加しようと思ったのですか?」と記者に問われ、学生の1人が戸惑いながら答えた。「先生が座ったから……」。その映像はこの日の夕方、地元テレビ局のニュースとして放映された。それがどんな結果を及ぼすのか、そのとき私は、まったく思いも及ばなかった。
(つづく)
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