2008年7月14日(月)
広島YMCAの林総主事から、私の宿舎に電話がかかってきたのは、その日の夕方だった。いつも温和な林さんの声とは違い、怒気のこもった声だった。「君は、うちの学校の学生たちをデモに参加させ、政治活動をさせたのか!」。林さんの声と言葉に、私もやっと自分の行動が「ビジネス専門学校」に与えた影響に初めて気づいた。このビジネス専門学校の学生たちは、卒業したら、広島内外の企業に就職していくべき若者たちである。その学生たちが、座り込みデモに参加する姿がテレビ・ニュースに映し出されたことで、「政治・社会意識」をもつ「過激な学生」を育てる学校という烙印を押されれば、企業は「YMCAビジネス専門学校」を敬遠し、卒業生たちの就職に支障が出る──学校の最高責任者である林さんは、私の行動に「困ったことを仕出かしてくれた」と呆れ、怒ったのだ。でも、まだ“青臭かった”当時の私は、そんな林さんと専門学校の立場がわかっていなかった。むしろ私はYMCAの学校にとって、「いいことをした」とさえ思っていた。「YMCAの基本精神であるキリスト教の教えに忠実に従えば、天安門で民主化を訴える学生たちが国家権力によって理不尽に殺されていくことに、『殺すな!』と主張する行動は当然であり、私のとった行動こそYMCAの精神を最も忠実に体現しているはずだ。そのYMCAの責任者には褒められこそすれ、非難される筋合いはない」というのが当時の私の考えだった。しかも林さんは、私の学生時代、広島市でベトナム反戦運動の先頭に立って闘ってきた人物である。その林さんが、天安門での虐殺事件に反対する私の行動を批判するのはおかしいではないか。私は電話を受けたのち、むらむらと怒りがこみ上げてきた。
その夜、私は怒りの感情に任せて、「辞表」を書いた。その中には、上記した内容を切々と書き記し、「林さんに失望した」と書き添えた。
翌朝、その辞表を林さんに提出する前に、教室で担任していた学生たちの前に立った。前日の経緯を話し、「それでも自分は間違っていたとは思わない。総主事の批判には納得がいかないから、これから辞表を提出する。君たちには一切責任はない。だから、動揺しないように」と告げた。そう言われても、学生たちにしてみれば、「自分たちが先生といっしょに座ってしまったから、テレビに出てしまい、それが原因で先生が学校を辞めさせられる」と思ったのだろう。学生たちはどうしたらいいのかオロオロするばかりだった。
私は総主事室に向かい、無言のまま、林さんに辞表を差し出した。それをじっと読んだのち、林さんはおもむろに言った。
「土井君の言い分にも一理ある。しかし企業に学生たちを就職させなければならないビジネス専門学校の立場も考えてほしい。まあ今回は、なかったことにしよう」
私の辞表も「なかったこと」になった。普通の上司なら、「私の方針に不満があるなら、とっとと辞めろ! この恩知らずめが!」と怒鳴るところだろうが、そこが林さんの“懐の深さ”だった。
そのとき、かろうじて私のクビはつながった。しかし、「それで一件落着」というわけにはいかなかった。その学年が終るころ、翌年の契約更新時期に、私は副校長室に呼ばれた。この専門学校を現場で管理・運営し、教師の人事権を持つ実質的な責任者はこの副校長だった。副校長は目の前に座った私に言った。「1年間、土井先生のお仕事を見てきましたが、やはり土井先生は、このお仕事には向いておられないのではないかと思います」。
要するに、「クビ」の宣告である。思い当たることはいくつもあった。以前、副校長から「『工業英語』を授業に取り入れたいから、その研修を受けてほしい」と要請があったとき、「自分は関心がない」と断った。社会経験の乏しかった私は、上司からの「職務命令」とはどういうものかを全く理解していかなかったのである。英語の授業中の「思想教育」の件もある。また、私の英語力では学生たちの“学力”はつかないという判断もあったのかもしれない。そして、「天安門事件」への例の座り込みデモ参加事件で、私が林さんから処分されなかったことも、現場責任者の副校長としてはおもしろくなかったにちがいない。
ともあれ、私は「正規教員」をクビになった。だがこのままでは、「アメリカ取材を本にまとめる」という当初の目的を果さないままになってしまう。毎日午前3時に起床し、朝食前の7時まで執筆する日々を1年ほど送っても、2冊の本の完成までにはまだほど遠かった。このような中途半端な状態のまま広島を去るわけにはいかなかった。私は屈辱感をかみ殺し、「非常勤講師」として専門学校に残る道を選んだ。しかし皮肉なことに、それが結果的に、私に“幸運”をもたらすことになったのである。
非常勤講師になることで、私は夏休みなど、長期休暇中は、“フリー”の身となった。1990年夏、私は夏休みを利用して、「アメリカのユダヤ人とパレスチナ人」の追加取材のために渡米した。イラクがクウェートに侵攻したのは、その直後だった。私はその大事件に対するアメリカ国内のユダヤ人組織、アラブ人組織の反応を取材し、『朝日ジャーナル』誌に次々と書き送った。
さらに冬休み、今度は『朝日ジャーナル』の特派員として湾岸危機に対するイスラエルの反応を取材するため、現地に飛んだ。だが、2週間ほどの取材を終え帰国しようとした日の前夜、湾岸戦争が勃発、エルサレムの安ホテルで、私はイラクのスカッド・ミサイルの攻撃を体験することになった。その体験ルポを含め、私の現地取材はその後、『朝日ジャーナル』に数回連載されることになった。もし私がクビにならず、専門学校の「正規教員」であり続けていたら、夏休みも冬休みも動きがとれず、現地取材など思いも及ばなかったにちがいない。つまり私は、“クビになったお陰” で、ジャーナリストとしての“スクープ記事”を発表できたのである。
それらの記事が縁で、1991年春に再び上京し、私は『朝日ジャーナル』の嘱託記者となった。一方、広島滞在の最大の目的であった『アメリカのユダヤ人』『アメリカのパレスチナ人』の本の原稿はその2年間で書き上がっていた。前者はその年の4月に岩波新書として、また後者はそれからほぼ半年後に「すずさわ書店」から単行本として出版された。処女作『占領と民衆─パレスチナ─』を含めた私の三部作の完成である。
それにしても、あの時、林さんが私を広島へ誘ってくれなかったら2冊の本を書き上げ世に出すことはできなかったかもしれない。林辰也さんは、先が見えず試行錯誤していた当時の私に手を差し伸べてくれた掛け替えのない“恩人”である。その謝辞を私は拙著『アメリカのユダヤ人』の「あとがき」に記した。
このような激動期の私を一学生として側で見ていたSにとって、私はよほど“変り種で、強烈な印象を残した教師”だったのだろう。あれから20年近く経っても忘れず、会いに来てくれるのだから。彼女は、あの座り込みデモで私といっしょに座ったときのことやその後の騒動のことを今でも鮮明に覚えているという。
Sは10年間の結婚生活の後に離婚し、その後、地元の日系企業で働きながら、大学に通い、「経理」の勉強を続けている。しかも2児を独りで育てながら、である。学生時代は、英語力も乏しかった彼女が、今や大学で他のアメリカ人学生に混じって授業を受け、会計士の資格まで取ろうとしている。人間の能力というのは、環境によって覚醒され、伸ばされていくものなのだということを、私はSの今の姿をみながら、つくづく実感する。
「日本人は、失敗したことや悪い点しか言わない」と、自分が働く日系企業の職場での日本人管理職を批判する。「アメリカ人は、褒められて、働く意欲が湧くことがわかっていないんです。失敗を責めるばかりで、しかも仕事、仕事とまるで機械みたいに働く。アメリカ人の仕事仲間はそんな日本人を馬鹿にしていますよ。嫌気がさしてどんどん辞めていくんです。アメリカに進出しているのに、アメリカ人のメンタリティーも文化も、まるでわかっていない」と辛らつだ。
「もう私は日本で暮そうとは思わない。こんなに住みにくい国で無理をして生きていくことないもの。アメリカでは私が“私”でいられる。がんばればチャンスもあるし」。
シングル・マザーとして2児を育て、生活のための仕事をしながら、やりたい勉強も続ける。異国で自立した女性として生きる、生き生きとした表情のSをみながら、「日本で生きづらいのは、その本人の欠陥ではなく、今の日本社会にこそ問題があるのかもしれない。思い切って、“自分が生きやすい場所”を捜し出せば、Sのように生き生きと人生を送れるんだ」と彼女に教えられる思いがした。
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