2008年8月2日(土)
来春の劇場公開をめざし、7月からパレスチナのドキュメンタリー映画の本格的な編集作業にかかった。プロの編集者と二人三脚の作業である。この3年ほどの間に私が単独ですでに粗編を作り上げているので、それをたたき台にして、年末までに4部作の映画の完成をめざす。
その映画編集の合間を縫って、新たなプロジェクトを開始した。2001年末からの懸案であったガザ在住のパレスチナ人人権活動家、ラジ・スラーニ弁護士への十数年にもおよぶ膨大なインタビューを著書にまとめる作業と、そのインタビューを中心に彼の半生を描いたドキュメンタリー映像を作り上げる作業である。
私にとってラジ・スラーニは、1985年以来の友人であり、パレスチナ問題の“師”でもある。私が本質と潮流をそれほど大きく見誤らずに20年以上も“パレスチナ”を伝え続けることができたのは、ラジに負うところが大きい。
ラジ・スラーニと出会ったのは、私が1985年から1年半、当時イスラエル占領当局の統治下にあったパレスチナに滞在し、取材を続けているときだった。ラジは1979年に、PFLPメンバーだったことから政治犯として3年間投獄され、その間「耐えられず自殺さえ考えたことがある」と告白するほど過酷な拷問を受けてきた。釈放後も、「危険人物」とみなされたラジは、被疑事実なく予防的に逮捕できる「行政拘留」で何度も刑務所へ送られた。私がラジに出会ったのは、その長い「行政拘留」からやっと釈放された直後だった。度重なる獄中生活に心身共に疲労困憊していた当時のラジの表情は暗かった。
あれから23年、第1次インティファーダ、湾岸戦争、オスロ合意、パレスチナ自治政府の設立、第2次インティファーダ、ガザの封鎖、ユダヤ人入植地のガザ撤退、選挙でのハマスの勝利、ファタハとハマスの内紛、ハマスのガザ制圧……と、パレスチナをめぐる情勢は大きく揺れ動いた。その節目節目に私は、それらの出来事の意味と問題、その後の方向性を、インタビューを通してラジから教示されてきた。とりわけオスロ合意以後のインタビューは、映像として記録し続けてきた。それらの映像テープはおそらく100時間を下るまい。その一部は、これまで数多く放映してきたテレビ・ドキュメンタリー番組の中で使い、また雑誌記事や拙著の中で紹介してきた。
ラジはこれまでアメリカのロバート・ケネディ人権賞やフランス人権賞など世界の数々の賞を受賞し、今や世界的に知られる著名人となった。国際的な人権弁護士団体の副代表も務めている。しかしガザ住民にとって彼は決して「雲の上の人」ではない。オフィスには、いつも市井の人たちがラジとそのスタッフに相談するために自由に出入りし、また彼自身が民衆の中に飛び込んでいく。彼と会う人たちは、自分を丸ごと抱擁してくれるような満面の笑顔と優しい言葉にすっかり魅せられてしまう。その包容力とカリスマ性はもちろん天性のものだろうが、彼の長い獄中生活の中で磨かれ深められていった人間性に因るところは大きいと思う。
1953年生まれ、私と同年齢である。ガザ地区での名門スラーニ家に御曹司として生まれ、経済的にも何不自由なく育ったラジが、なぜ、底辺で生きる民衆の人権擁護のために人生をかけるまでになったのか。私はそれをどうしても彼自身から聞いてみたかった。
2002年1月、私は彼の半生の歩みをインタビューし、それを元に人物ドキュメンタリー映像をまとめようと考えた。ラジは私の意図を聞いて快諾した。
多忙なラジの仕事の合間のわずかな時間、また仕事を終えた夜、そして滅多にない休日を利用して、オフィスや自宅、そして母親や兄弟が暮らす実家で、私は彼と向き会い、カメラを回し続けた。それまで20年近い付き合いの中で断片的に聞いていた彼の足跡を、ラジは淡々と語り始めた。その中でも、ラジが長い時間をかけて語ったのは獄中体験だった。投獄生活とりわけ尋問時の激しい拷問、獄中での他の政治犯たちとの交流を細部にわたって語った。長い獄中生活の中で醸成され深化されていったラジ自身の人生観、世界観、人間観をこれほどじっくりと聞かせてもらったのも初めてだった。少年時代から始まったラジの話が2002年当時まで行き着くころには、私が撮影したテープはすでに12時間近くに達していた。
もう6年半も前に撮影したラジの半生の語りを、なぜ今まとめようとするのかと問われれば、6年半かかってやっとまとめる環境が整ったからと言うしかない。
まず当時、それを発表する場がなかった。NHKをはじめテレビ局が、今以上に日本ではほとんど知られていなかったラジ・スラーニの人物ドキュメンタリーに関心を示すはずもなかった。かと言って、当時の私は、撮影はできたものの、それを編集しまとめる手段も技量もなかった。ドキュメンタリー映像にするというラジとの約束をなかなか果せない後ろめたさをかかえたまま、年月だけが過ぎていった。もう実現できないかも知れないとさえ思ったほどだ。しかしそのまま放置するわけにはいかない。ラジ自身が将来、自伝を書こうとするときの貴重な資料になるだろうし、またラジの周辺に映像をまとめる力のある人が現われ、私のプロジェクトを引き継いでくれるかもしれないと思い、全映像をDVD化してラジに贈った。
しかし、状況は少し変わってきた。2005年春に『ファルージャ2004年4月』と題したドキュメンタリー映像の制作のために編集用のパソコンを購入し、若い「映像の先輩」に数日、パソコンでの編集技術のイロハを伝授してもらい、私は試行錯誤で映像をパソコンでつなぎ始めた。そしてほぼ1ヵ月をかけ、この1時間近いドキュメンタリーを私自身で編集しきった。もちろん編集という作業が初めてだったわけではない。これまでもテレビ局に企画を持ち込むために、アナログの編集器材を使って粗編を何本も作ってきた。また10本近い自作のNHK『ETV特集』を一緒に編集するプロ編集マンの作業を見続けてきた。後は、パソコン編集という新たな技術を身につければよかったのだ。
『ファルージャ2004年4月』の制作でいくらか自信を得た私は、93年秋以来、撮り貯めてきた数百時間のパレスチナ・イスラエルの映像を映画としてまとめる作業にとりかかった。2005年の秋だった。最初からプロの編集者と組んでやるのが通常の映画作りだろうが、どこに、どういう映像があるのか、またどういう目的で撮り、その映像で何を伝えようと思ったのかは私でないとわからないし、何よりも、つないだ映像全体で何を主張したいのかは、他人に干渉されることではなく、私自身が決めることだ。たとえ稚拙でも粗編だけは自分でつなぐしかないと私は思った。結局、3年近い年月をかけ、パレスチナ・イスラエルのドキュメンタリー映像4本(各2時間40分ほど)の粗編をまとめた。それがさらに私の自信となったことは間違いない。
4本をまとめ上げた後、私は立て続けに2本のドキュメンタリー映像をまとめた。1つは、右派から和平派に変わった、アルゼンチン出身、ホロコースト生存者2世のイスラエル人、メール・マーガレットの人物ドキュメンタリー、そしてもう1本は7月初旬の本コラムで紹介した根津公子さんのドキュメンタリー映像である。
そして今度は? と思ったときに、私は6年半前からの“宿題”を思い出した。当時の私にはなかった環境が整ってきた。今ならやれると思った。
今、ラジ・スラーニを伝えることは、私の事情だけの理由ではないとも思う。今の混沌としたパレスチナ情勢の中で、もう一度パレスチナ問題の原点と歴史に立ち戻ってみる必要がある。しかし教科書的な「お勉強」では、もう誰も振りむかない。ならば、ラジ・スラーニという魅力あふれるパレスチナ人に自らを語らせることで、等身大の“パレスチナの歴史と問題の本質”があぶり出せないか。
ラジ・スラーニという人物にはそれだけの“力”がある。パレスチナで最も敬愛された政治指導者の1人、ハイデル・アブドゥルシャーフィーが死去した後、パレスチナを代表する“顔”と“声”として、ラジ・スラーニは今後、“パレスチナ”を担うべきカリスマ性をもった稀な人物となっていくだろう。今は日本では知名度が薄く、注目はされないかもしれないが、ラジは近い将来、日本でも“パレスチナ”を語るうえで欠かせない存在になる。
まず12時間に及ぶ英語によるインタビューを一語一句、日本語に翻訳する作業から始めている。気が遠くなるほど時間のかかる作業だ。それだけではない。他にも、93年以来の数え切れないほどのインタビュー映像の全翻訳が必要だ。最近のパレスチナ情勢、とりわけガザ情勢に対するラジの最新の分析も必要となり、追加取材は欠かせまい。
とにかく1歩、1歩、歩き始めるしかない。
参考サイト:PCHR(パレスチナ人権センター)
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