2008年8月11日(月)
4日前から八ヶ岳の麓にある、標高1300メートルの山荘(ペンション)にこもっている。パレスチナ・ドキュメンタリー映画の編集作業のためである。編集のHさんのご両親が、私が滞在する山荘から車で10分ほどのところに住んでおられる。Hさんのお父さんは都内での仕事を定年退職された後、奥さんと2人でこの八ヶ岳の麓に5年ほど前に引っ越してこられた。長男のHさんと奥さん、2人の幼児たちはそのご両親の家に滞在しながら、Hさんが“仕事場”のこの山荘へ通ってきて、私と2人で朝から夕方まで編集作業をする毎日だ。
私は横浜、Hさんは東京の国分寺、いずれの家に通うにも片道1時間半から2時間近くかかる。往復すれば3時間から4時間。7月、連日この通勤を繰り返す時間と労力の無駄にうんざりしていたとき、Hさんが提案したのが、八ヶ岳での合宿だった。
「朝夕は冷えるから長袖を用意するように」と言われて準備はしたものの、予想していたほどの寒さでもない。昼間は横浜などより5度ほど気温が低いが、半袖のTシャツで十分しのげる。このペンションは現在、滞在者は私1人。玄関のドアには鍵がないので不安だったが、まあ人里離れたこんな山腹まで盗みにくる物好きな泥棒はいないだろう。周囲には他に10軒を超えるペンションがあるが、大半は扉を閉じたままだ。8月の今の時期が一番客が多い時期のはずだが、ほとんど休業状態だった(週末になって、盆休みでペンションにやってくる客が増えてはきたが)。ここまでは車がないと来られないし、食事代を入れたら、1日1万円はかかるから、家族連れで滞在すれば1日数万円。ならば海外へ、ということになるのは当然だろう。
幸い、このペンションの主人はHさんの奥さんの知人で、半月の素泊まりということで格安の料金で貸してもらえることになった。朝食と昼食は自炊。初日に、10キロほど下った大型スーパーで食料と酒を買いだめした。
早朝6時過ぎ、ペンションの近くに続く森林の中の道、「八ヶ岳自然文化園」という広大な公園の中を小1時間歩く。早朝の森の新鮮でヒンヤリする空気、森の中から流れ出る渓流、白樺の林、季節はずれのうぐいすなど鳥の鳴き声、蝉の音が林の中から響き渡る。真っ白なアジサイ、コスモスなど、この真夏に山麓でないと見られない花々とも出会える。
家に帰る頃には、出かける前にスイッチを入れた炊飯器で、ご飯が出来上がっている。炊きたてのご飯に生卵をかけ、冷奴、レタスのサラダ、それに味噌汁をつくる。
9時前にHさんがやってくる。1500mの標高にあるログハウスの両親の家から数キロの坂道を自転車で下ってくるのだ。広い食堂を仕事場にして、編集作業にかかる。昼食はHさんと焼きそばやカレー、焼き飯などを作って食べ、午後の仕事にかかる。仕事を終えると、6時過ぎに迎えに来てくれる奥さんの車の後ろに自転車を乗せ、標高差200mの道を登る。
ご両親のログハウスでHさんの奥さんと2人のお子さん、そしてご両親たちと食卓を囲む。外の白樺の林を窓越しに見ながら、お母さんの手作りのおいしい季節の料理をご馳走になる。
八ヶ岳の山麓で悠々自適の隠退生活を送るHさんのご両親の話を聞くのも楽しみだ。
当時20代半ばのお母さんが故郷の岡山から東京の親戚を訪ねるために乗った列車の中で、偶然、向かいの席に座ったのが、休暇で旅行中の今の夫、Hさんのお父さんである。その青年が別れ際に手渡した名前と電話番号の紙切れが、結局、2人を結びつけることになった。「どうせ暇だから」と母親は、手渡された紙切れの番号に電話した。青年は東京見物の案内を買って出た。それから間もなく、青年は車の免許を取得し、その直後、友人から借りた車で、岡山に帰った女性に会うために東京からおぼつかない運転でひたすら車を走らす……。恋愛小説を地で行くような2人のなれ染め話に私は聞き入ってしまう。
9時近く山荘に帰ると、シャワーを浴び、他に誰もいない広い居間で、焼酎をロックで飲みながら本の文字を目で追っていると、10分もしないうちに睡魔が襲う。
山荘での実生活は、このような恵まれた自然環境に囲まれた平穏な日々だが、いったん編集の仕事にかかると、そこはもう、2002年4月、イスラエル軍に包囲されたバラータ難民キャンプや、2週間近く包囲攻撃され大地震の跡のように破壊し尽くされたジェニン難民キャンプの現場だ。もう6年以上も前の映像だが、画面に映し出される映像に、あの当時に引き戻され、記憶が鮮明に蘇ってくる。イスラエル軍の鳴り響く砲弾や銃声、アパッチのミサイル攻撃で肢体を砕かれた青年たち、その遺体を目の当たりにして半狂乱で泣き叫ぶ遺族たち、ウジが湧いた遺体から放たれる死臭、瓦礫の中のむき出しになった鉄筋に引っ掛かった足の一部、瓦礫の中から掘り出される、もう土塊になった遺体の一部……。
この山荘の周囲の平穏で美しい自然環境と、画面に映し出されるパレスチナの現場の惨状との強烈なコントラスト。これこそ、「スポーツ新聞」と見間違うほどオリンピックと高校野球などスポーツで紙面の多くを埋め尽くす新聞が「日本を代表する新聞」と呼ばれる日本の「能天気」な状況と、「世界の祭典」オリンピックに、世界、とりわけ先進諸国のメディアと人びとが踊らされ、はしゃぐなか、もうメディアにほとんど注目されることもなく、イスラエルの厳しい封鎖による兵糧攻めで、真綿で絞め殺されるようにじわじわと死に追いやられていくガザ地区住民の状況とのコントラストに似ている。
山荘ではほとんどテレビを観ないが、オリンピックの開会式だけはちょっと気になり、テレビのスイッチを入れた。チャン・イーモウ演出による壮大なスペクタクルに世界中が圧倒され、息を飲んだに違いない。かけた金は天文学的な額になるだろう。あの圧倒される豪華さに私は、中国政府の人権問題への対応に抗議するため、開会式演出の総監督を降りたスピルバーグ監督(映画『シンドラーのリスト』で見せた同胞ユダヤ人に対する“人権意識”や、中国政府の人権問題に対する抗議に見せた“人権感覚”は、不思議なことに、イスラエルによって蹂躙されるパレスチナ人の人権に対してはまったく発揮されないのだが)に対する、中国の威信を賭けた“見返し”の意地を見る思いがした。オリッピック前に世界から非難されたチベットでの抗議デモに対する容赦ない武力弾圧という“負のイメージ”を一気にかき消すための“禊(みそぎ)の儀式”にも見えた。
チベット問題と、それから派生した聖火リレーをめぐるトラブル報道でプライドを傷つけられた中国国民に、改めて“中国人としての誇り”を取り戻させる国威高揚の効果を考えれば、あの天文学的な費用と膨大な労力は、十分に元が取れ、お釣りがくるくらいの効果はあったのかもしれない。
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