Webコラム

日々の雑感 113:
自分の“居場所”を見つけた若者たち

2008年9月8日(月)

 先月下旬、アフガニスタンで「ペシャワール会」の日本人スタッフ、伊藤和也さんが誘拐され殺害された。誘拐報道の直後、「解放」のニュースが流れたこともあり、その後、一転して遺体発見の報道に多くの日本人が衝撃を受けたに違いない。何よりもご両親の悲しみと無念さはいかばかりだったろう。「発見された遺体は日本人らしい」という報道後も、父親の正之さんは「100万分の1でも生きている可能性がある」と生存のわずかな可能性に賭けた。そして伊藤さんの遺体と確認された後は、「今は家族で静かに待っています。しっかり和也の遺体を迎えたい。和也は家族の誇りだと、胸を張って言えます」と毅然と報道陣に語った。そして「ペシャワール会」に対しては、両親は「遺志を継ぐために、作業を継続して下さい。畑に作物がとれて、子どもたちがひもじい思いをしなくなるのが私たちの願いです」と伝えた。
 そして葬儀の後、母親の順子さんは、「母親より1日でも長く生きてほしかった。親より早く死ぬなんて親不孝者と言いたい」と涙をこらえて語った。
 母親への気遣いからだろうか、報道陣の取材には、家から離れた広場で応じた。涙も見せず、誠実に答える父親、正之さんの姿は痛々しかったが、毅然として立派だった。「和也は家族の誇り」という言葉は、志半ばで命を絶たれ無念だったろう伊藤和也さんにとって、最高の褒め言葉だったに違いない。

 その伊藤さんは、アフガニスタン派遣を希望する理由を、「ペシャワール会」に次のように書き送っている。

 私がなぜアフガニスタンに関心を持つようになったのか。それは、アフガニスタンの復興に関係するニュースが流れている時に見た農業支援という言葉からです。
 このこと以降、アフガニスタンに対しての興味を持ち、(略)ペシャワール会の会報とその活動をテーマにしたマンガ、それらを通して現地に行きたい気持ちが、強くなりました。
 私は、関心がないことには、まったくと言っていいほど反応しない性格です。反応したとしても、すぐに、忘れてしまうか、流してしまいます。その反面、関心を持ったことはとことんやってみたい、やらなければ気がすまないという面があり、今回は、後者です。
 現在の私の力量を判断すると、語学は、はっきりいってダメです。農業の分野に関しても、経験・知識とも不足していることは否定できません。ただ私は、現地の人たちと一緒に成長していきたいと考えています。
 私が目指していることは、アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に、戻すことをお手伝いしたいということです。これは2年や3年でできることではありません。
 子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になれればと考えています。
 甘い考えかもしれないし、行ったとしても現地の厳しい環境に耐えられるのかどうかもわかりません。
 しかし、現地に行かなければ、何も始まらない。
 そう考えて、今回、日本人ワーカーを希望しました。

 そして伊藤さんは4年8ヵ月、アフガニスタンの大地に農業を根付かせるために、現地で活動を続けた。もしこの事件がなければ、伊藤和也さんの名前も、そしてその活動も世に広く知られることはなかったろう。そして彼は「ペシャワール会」関係者以外にはほとんど知られることなく、現地住民のために農業指導を黙々と続けていたことだろう。

 海外取材の現場では、伊藤さんのような若い日本人と出会うことは珍しくない。その多くは現地で活動するNGOのスタッフ、国連の職員の方々だ。彼らに共通しているのは、自分のやっていることが大好きで、その仕事に夢中になっていて、誇りを持ち生き生きと活動していることだ。そういう青年たちに日本ではあまり出会う機会がないせいか、私にはとても新鮮で、深い感動を覚える。
 かつてNHKの番組で、タイのエイズ孤児の施設で働く日本人たちを紹介するドキュメンタリーを作ったことがある。その登場人物の1人がOさんという女性だった。高校時代、学校の人間関係になじまず中退。大学入学資格検定試験をパスし、大学でロシア語を学んだ。「今後はロシア(旧ソ連)との経済面での関係がいっそう深まり、ロシア語の需要は大きくなる」という学校教員の父親のアドバイスに従った選択だった。しかしどうもしっくりこない。そこでOさんは、大学在学中に、以前から関心のあったデザインを学ぼうと専門学校に通い、卒業後、デザイン事務所に就職する。しかしこれも、“自分のライフワーク”だと確信できない。そんな中、気分転換にと、初めての海外旅行にタイを選んだ。その途上、訪ねたタイ北部の街、チェンマイの街にOさんはすっかり魅せられてしまう。「ここが自分の居場所だ」と決めたOさんは、帰国後、タイ語を学び始める。1年後、勤め先のデザイン事務所を退職し、Oさんはタイへ渡り、チェンマイでタイ語の学校に通った。
 その後、チェンマイに設立された日本人運営のエイズ孤児施設で通訳と総務の仕事を担当するスタッフになった。その後も決して順風満帆ではなかった。タイ人スタッフとの軋轢など人間関係につまずき、代表に「この仕事は向かないのでは」と告げられ、一時は退職も考えた。一時帰国して今後の生き方を熟考した後、行き着いた結論は、「やっぱりあの子どもたちの中で働きたい」だった。再び、施設に戻ったOさんは、次々と幼い命が目の前で消えていく現実と直面しながら、“生きる”ことの意味、ここでの“自分が生きる意味”を深く考え続ける。試行錯誤の模索のなかで、Oさんはこの施設でなくてはならない存在へと成長していく。

 海外の現場で活躍する日本の若者たちに共通しているのは、“自分に正直に生きよう”と、生き方に迷い、模索しながら行動し、そしてやっとその“居場所”を見つけ、水に戻った魚のように、生き生きと活動している姿だ。だから、その個性が伸び伸びとしていて、それが強烈に光っている。そういう若者と話しているとこちらも楽しいし、元気になってくる。

 日本の中で生き方に迷い、また本来、生きたいわけでもない道に迷い込み、かといってそこから抜け出し先の見えない暗中模索の冒険をする勇気もなく、悶々と生きている若者も少なくないはずだ。
 55歳になる今まで、自ら暗中模索してきた、また現在もしている自分の体験から、またジャーナリストとして現場でさまざまな人たちの生き方を目撃した経験から、そういう人たちにもし私に何か言えることがあるとしたら、こういうことだろうか。
 「自分らしく生きる場を探すのに、何も狭い日本に限定しなくてもいいのではないか。薄っぺらな価値観に硬直し、閉塞感を強いるこの狭い日本ではたとえ“負け組”であり、“落ちこぼれ”であっても、あなたを必要としている場は、この広い世界のどこかに必ずあるはずだ。狭い日本の中で、劣等感に打ちひしがれて、何もせず悶々と日々を送るぐらいだったら、その“自分の居場所”を求めて行動し、もがいてみてはどうだろうか。もう繰り返すことができない、一度きりの人生なのだから」

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