2008年9月10日(水)
【第3章】道義的根拠も消えていく
キャンプ・デービッドの神話
- オスロ和平プロセスを完遂させようとするクリントン政権の働きかけは失敗した。この失敗に対する標準的な解釈が、次のような見方を強める。つまり「イスラエル側は和平の受け入れ準備はできているのに、パレスチナ側は戦争に執着している」という見方だ。筋書きはこうだ。
「バラク首相は2000年7月のキャンプ・デービッドで、パレスチナ側が望むほとんどすべてのことを申し出た。しかしアラファトは依然として和平プロセスを失敗させ、最終的にイスラエルを滅ぼすことを決めていた。そしてイスラエルからのこの寛大な申し出を拒否し、かわりに2000年9月下旬に第二次インティファーダを開始した。クリントン大統領は12月23日に、“クリントン方針(パラメーター)”と呼ばれる提案をした。このさらに譲歩した寛大な提案をイスラエルは受け入れたが、アラファトは拒否した。これはアラファトが和平に関心をもっていなかったさらなる証拠である」
この説明では和平プロセスの失敗はほとんどアラファトの責任ということになる。(p.189)
- しかしバラクがキャンプ・デービッドでパレスチナ側に申し出た条件は“寛大”とはほど遠い。バラクの最善の提案が、「ガザの支配については直ちに、西岸地区については最終的に91%の支配をパレスチナに譲ることを約束するものだった」ことは明らかだ。しかしパレスチナ側の視点からすると、大きな問題があった。イスラエルは西岸地区のおよそ10%にあたるヨルダン渓谷の支配権を、以後6年から21年間握り続ける計画だった。この年数は様々な交渉の記録により異なっている。これは「パレスチナ側が直ちに与えられることになる支配権は、西岸の81%であって91%ではない」ことを意味していた。もちろんパレスチナ側は「イスラエルがヨルダン渓谷の支配権を本当に手放すか否か」確信が持てなかった。これに加えて、パレスチナ側はイスラエルよりも西岸地区を広く定義していた。この差は、係争領域のおよそ5%に達した。ということはパレスチナ側にとっては、直ちに手にすることができるのは西岸地区の76%という意味になる。(p.190)
- パレスチナ側はすでに93年のオスロ合意で「もともとの英国委任統治領の78%に対してイスラエルの主権を認めること」に同意してしまっていた。パレスチナの視点からすると、彼らは今もう1回大きな譲歩をして、元の英国委任統治領の残りの22%の土地に対して、最大でも86%で受忍するように求められていたわけだ。(p.190)
- バラク自身は、「イスラエルはエルサレムからヨルダン渓谷までつながる“剃刀のように細い”領土の、“くさびの支配”を続けることになったはず」と認めている。ヨルダン渓谷の支配権を握っておこうとするイスラエルの計画にとって、西岸地区を完全に2分するこのくさびは不可欠のものだった。こうしてキャンプ・デービッドで提案されたパレスチナ国家は、西岸地区の2つか3つに分断された郡と、ガザ地区から構成されることになっただろう。(p.190)
- バラクの提案はまたイスラエルが新パレスチナ国家の国境、領空、水資源の支配権を持ち続けるものとなっていた。そしてパレスチナ側が、自衛のための軍隊を創設することを恒久的に阻むものであった。このような条件を受け入れる指導者を想像するのは困難だ。世界でこれほど制約された主権を持つ国家がないことは確かだ。あるいは現実の経済、社会を創るにあたって、これほどの障害に直面している国家も他にはない。キャンプ・デービッドの主要な参加者でバラク政権の元外相だったシュロモ・ベンアミが後に、あるインタビューでこう語っている。
「もし私がパレスチナ人だったら、私もまたキャンプ・デービッドの提案を拒否していただろう」(p.191)
- イスラエルの治安組織「シン・ベト」の元長官アミ・アヤロンは、「アラファトは第二次インティファーダを準備したり、実施指令を出したりしていない」と発言している。(p.191)
- シャロンの挑発的な訪問は、暴動の引き金ではあっても基本的な原因ではなかった。問題はシャロンの訪問以前からパレスチナ人の間でくすぶり続けていた。
- パレスチナ人はアラファトに不満を募らせていた。アラファトの腐敗した指導部たちは自分たちパレスチナ人の生活をほとんどよくしてくれないし、ましてや国家をもたらしてはくれなかった。暴動の遠因はそこにあった。だが暴動の主たる原因は、イスラエルの占領地政策に対する怒りだった。これに、シャロンの訪問直後の抗議デモに対する、イスラエルの厳しい対応が加わった。
シュロモ・ベンアミは次のように書いている。
「第二次インティファーダは単に戦術的な動きとして始まったのではない。それはパレスチナ大衆の蓄積した怒りと失望が噴出したものだ。怒りと失望は、オスロ合意の初期段階からの和平プロセスが、彼らに尊厳のある健やかな暮らしをもたらすことに大きく失敗した、その事実に向けられていた。また自分たちのパレスチナ自治政府の指導者の無能や腐敗に対するものだった」(p.192)
- パレスチナ人の憤懣は理解できる。93年のオスロの和平プロセスのスタートから7年後の第二次インティファーダの勃発まで、イスラエルは4万エーカーのパレスチナの土地を没収した。また250マイルのバイパス道路と保安道路を建設し、30の入植地を建設した。そして西岸地区とガザ地区への入植者人口を約10万人増やして、これを倍増させた。イスラエルはまた、占領地をパレスチナ人に返還する約束を反古にし、検問システムを設置した。この検問システムはパレスチナ人の移動の自由を著しく低下させ、彼らの経済に大打撃を与えた。2000年までにはパレスチナ人が爆発する下地ができあがっていた。そして暴動が起こったとき、イスラエルは躊躇することなく、自分たちが持つ優位な火器を撃ち放った。すでに記したようにIDFは暴動の最初の数日で100万発以上の弾丸を撃ち込んだ。(p.193)
- アラファトが第二次インティファーダを始めたわけではなかった。だが起こった暴動を利用し、自分の交渉の立場を強化しようと馬鹿げた試みを行った。(p.193)
- よく繰り返される主張、「キャップ・デービッドでの、バラクの最終提案を改善した2000年12月の“クリントン指針”を拒否したのはアラファトだ」というのは誤りだ。(p.194)
- 「アラファトとパレスチナ側が和平への最後のチャンスを拒否し、和解より暴力を選んだのだ」という非難は誤りである。(p.195)
「イスラエル支援は神の御意志に適う」
- ある福音派キリスト教徒、とくにいわゆるキリスト教シオニストは、ユダヤ人国家の建国を聖書の成就であると見ている。創世記は「神はアブラハムの子孫たちにイスラエルの地を与えた」としている。「ヨルダン川西岸地区への入植によって、ユダヤ人たちは単に神が与えてくれたものを取り返しているにすぎない」というのだ。またあるキリスト教徒は、「大イスラエルを創ることは、新約聖書の黙示録が描く終末の“最後の戦い”にいたる重要な出来事である」と見なしている。(p.195)
- 米国とイスラエルの間にはある程度の文化的な親和感がある。それは一部にはユダヤ・キリスト教の伝統を共有しているためだ。また多くの米国民がイスラエルに好意的なのは、イスラエルが民主国家だからだ。また反ユダヤ主義の歴史のためだ。そしてイスラエルがパレスチナ人のテロと戦っていることに共感するからだ。これについては疑いの余地もない。しかしユダヤ教とキリスト教が同根であることが、ユダヤ教徒とキリスト教徒の友好関係の確かな拠り所であったことは過去にはほとんどない。キリスト教徒は互いに野蛮な戦争を行ってきただけではなく、過去何世紀かにわたって暴力的な反ユダヤ主義の第一の実行者だった。そして何人かのキリスト教シオニストを含めたキリスト教原理主義者は、ユダヤ教からの改宗を重要な福音伝達の目的であると考えている。(p.197)
- 米国の対イスラエル支援の結果に関して、05年11月に実施されたピュー・リサーチ・センターの調査は次のように報告している。「39%の米国民は、それが世界に不満を作り出す主な要因になっている」と。オピニオン・リーダーの間ではこの数字はもっと高い。現に「イスラエルを擁護することは世界中で米国のイメージを損なっている」と考えている者は、ニュース報道関係者の間で78%、軍の指導者で72%、安全保障専門家で72%、そして外交専門家では69%だった。9.11の数週間後に発表された『ニューズウィーク』誌の世論調査は、「回答者の58%は『米国のイスラエル支援はオサマ・ビン・ラディンが米国攻撃を決定した要因になっている』と考えている」ことを報告している。(p.198)
- 03年春に行われたある調査では、次のことが明らかになった。「60%の米国民は、パレスチナ人との紛争解決を目指す米国の圧力にイスラエルが抵抗するなら、援助を止めることも厭わない。73%が米国はこの紛争でどちら側にも肩入れすべきではないと言っている」(p.199)
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