2008年9月19日(金)
私が現在、制作中のパレスチナ・ドキュメンタリー映画『沈黙を破る』では、パレスチナ占領地での任務がイスラエル軍将兵の心理やイスラエル社会にどういう影響を及ぼすかを描いている。そういう私にとって、NHKハイビジョン特集『兵士たちの悪夢』と、その短縮版とも言えるNHKスペシャル『兵士はどう戦わされてきたか』は衝撃的で、重要な教示を与えられた番組だった。番組に登場する元兵士たちのPTSD(心的外傷後ストレス障害)と私が描く占領体験をした元イスラエル軍将兵のトラウマとの相違点と類似点を見比べることで、戦場で戦う兵士たちに共通する普遍性とイスラエル軍将兵の特殊性も浮き彫りになる。
とりわけ『兵士たちの悪夢』の内容は、「国民を戦争に駆り立てていく国家の策動」と「戦場に送られる兵士に起こるトラウマ」について考えさせる重要な要素が凝縮されていて、普遍的なテーマを提示している。
今後、この番組を素材にして、イスラエル軍将兵との比較、そして日本の教育問題にも言及していく。その前に、この番組を見逃した人にために、内容を文字化して紹介する。
BShi『兵士たちの悪夢 〜戦場心理研究の深い闇〜』
(番組紹介より)
泥沼化する米軍のイラク駐留。大規模な戦闘が終わった後も、小型爆弾による攻撃やテロ事件が続き、激しいストレスから多くの帰還兵がPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症している。
PTSDの症状が初めて「発見」されたのは、一般市民が戦場に駆り出され、大量殺戮兵器が登場した第一次世界大戦だった。それからおよそ100年、極限状況における人間心理を国家はあらゆる角度から研究し、生身の人間を「戦闘マシン」に近づける訓練や戦闘の方法を模索してきた。しかし、戦争の方法が合理化・ハイテク化しても、兵士たちは新たなストレスや罪責感などと向き合わざるを得ず、PTSDの増加に歯止めはかからない。番組では、20世紀における戦場心理研究の歴史をひもときながら、「兵士の心が壊れる」というかたちで繰り返される戦争のもうひとつの悲劇を描く。
アメリカ一の歓楽都市、ラスベガス。今から3年前の夏、繁華街の裏通りで、銃撃事件が起こる。深夜、ビールを買いに出たイラク帰還兵マシュー・セピ。帰り道、金を巻き上げようと近づいてきた2人に突然、発砲した。セピが逮捕時に持っていたAK47型自動小銃と180発の銃弾。自宅には手入れの行き届いた軍服が残されていた。
逮捕された時のセピの言葉。
「待ち伏せ攻撃を受けました。訓練で教わった手順で交戦しました」
後にセピは、戦場で心に傷を負ったPTSD(心的外傷後ストレス障害)の患者だったことが明らかになった。
(ジョナサン・シェイ/精神科医)
「帰還兵が陥る恐ろしい精神状態の典型です。彼はこちらの世界にいません。向こうの世界、つまり戦場にいます。そして2つの世界を混同しているのです」
100年前のヨーロッパ。同じような症状に苦しむ元兵士の姿が記録されている。医師が耳元で大声を出すと、突然怯え出し、ベッドの下に潜り込む。自分が戦場にいるように錯覚している帰還兵。当時は「戦争神経症」と呼ばれていた。
戦争の世紀と言われる20世紀。多くの市民が戦場に送り込まれてきた。
大量殺戮兵器が登場した第一次世界大戦。兵士たちは絶え間ない死の恐怖にさらされる。その重圧の下で心を病む兵士が続出した。
続く第二次世界大戦で、兵士たちの心の闇がさらに広がる。もっと勇敢な兵士を造れないか。国は科学的な訓練方法に磨きをかけていく。しかし兵士たちの心の問題が解決することはなかった。女性や子どもまで巻き添えにする新たな闘いの中で多くの兵士たちが心に傷を負う。
(ベトナム帰還兵)
「精神科に連れて行ってくれ。自分の中で何かが狂っちまったんだ。分からないんだよ。自分がどうなっちまったのか、分からないんだ」
兵士たちの悪夢は21世紀の今も続いている。
兵士はどのように戦わされてきたのか。100年の歴史をひもとき、考える。
(番組タイトル映像)『兵士たちの悪夢』
アメリカ海兵隊の新兵訓練所、いわゆる「ブート・キャンプ」である。アメリカ軍の中でも最も屈強といわれる海兵隊員を養成する。訓練期間は13週間。20歳前後の若者を、戦場で戦える兵士に造り替えていく。
40キロ近い装備を付けたままの立ち泳ぎの練習。あらゆる戦場を想定した訓練が、分刻みで続く。訓練所には週3回、新兵が入所してくる。
(バスの中で教官が新兵に叫ぶ)
「“こっちを見ろ”と言うまで、自分の足を見ていろ。分かったか」
「分かりました」
新兵には、まず命令への絶対服従と規律を叩き込む。私物は全て没収、外部との連絡も許されない。
(教官が並んだ新兵に命じる)
「持ち物を全部出せ!」「はい!」
「4、3、2、1。やめ!」「手に持っている物をしまえ!」
「何をやっているんだ。タオルを拾え! 早く拾って中に入れろ」
「さっさとしろ! 早く行け!」
この日、訓練所に入ったのは250人。1年でおよそ2万人の海兵隊員がここで養成されている。
普通の若者を兵士に造り替えるブート・キャンプ。
ここで訓練を受けた後、イラクへ派遣された3人の青年がいる。同じ部隊の仲間として、ファルージャ掃討作戦(2004年11月)に参加する。民間人を巻き込んだ激しい市街戦。3人はその記憶を今も引きずっている。
ジョン・ハーシュ(23歳)は、除隊後、大量のアルコールを飲むようになった。
(ハーシュの部屋へ)
この日も朝から酒をあおっていた。除隊後の悩みは悪夢。ファルージャでの作戦中、敵や民間人の命を奪った場面が繰り返し夢に出てくるという。
(ハーシュ)
「汗だくになったり、ぎょっとして目覚めるわけではないのですが、2度と思い出したくないイラクでの地獄絵を夢に見ます。とても正視できないような場面です。仕方がなかったと正当化しようとしても心につきまといます。反乱者や悪党をどれだけ殺したにせよ、戦闘と関係のない民間人も殺したことに変わりはない。その思いが夜になると私を苦しめるのです」
コレイ・ネアリー(元海兵隊員/23歳)は、夜になると、イラクの戦場に戻っている自分を感じている。
(ネアリー)
「夜、暗くなると神経質になります。外から家の中が見えるから、危ないと警戒します。ここはアメリカだから狙撃されることはないと分かっていてもです。夜、無意識のうちに忍び足で歩いている自分がいます。イラクでパトロールする時にそうしているからです」
アンドリュー・ライト(元海兵隊員/23歳)は2年前、PTSDと診断された。睡眠薬を飲んで自殺を図ったこともある。現在も治療を続けている。
(ライト)
「極端な警戒心があります。予期せぬことが起きると、飛び上がってしまいます。まったく治っていないように思います。私は大勢の人の中にいたくありません。1人でいるか、特別な人とだけ一緒にいたいのです」
ライトはイラクにいる時から心に重圧を感じていたという。
(ライト)
「歩哨に立つのが嫌で、自分を撃とうと考えたことがあります。監視ポストに立っていると悪いことばかり考えてしまい、自分の手を撃てば任務から解放されると、卑怯なことを考えたりしました」
イラクやアフガニスタンで闘い、心理的なトラブルを抱えた兵士は、推定でおよそ30万人。アメリカの深刻な社会問題となっている。
(アメリカ陸軍制作のビデオのナレーション)
「この『バトルマインド・トレーニング』は戦場で役立つだけでなく、日常生活に移行する上でもとても有用なものです」
これはアメリカ陸軍が帰還兵たちに危険な兆候を気付かせようと作成したビデオである。まず指摘されるのが、銃を持ち歩く習慣だ。そして戦場の光景が突然蘇るフラッシュ・バック。敵の攻撃を避けようと、猛スピードを出す車の運転も要注意である。ビデオは日常生活に戻った兵士に起きやすい問題点を指摘していく。
(アメリカ陸軍医療部大佐/カール・カストロ)
「思い当たる人は、すぐに支援が必要です。アルコールに頼った自己流の治療は危険です。早ければ早いほど良いのです」
日常生活とはかけ離れた戦場の現実。
軍は、これから戦場へ赴く兵士たちにあらかじめ心の準備をさせようと、実戦の訓練にも力を入れている。
屋内に設けられた海兵隊の訓練施設。映画のセットのように作られた、リアルなイラクの市場だ。総工費は日本円で、およそ2億5千万円。街並みだけでなく、人びとの服装や周囲の音、匂いまで忠実に再現されている。この日は街のパトロールの訓練である。
(爆発音と銃声)
市場の中で突然、自爆テロが発生した。爆発の煙や人の悲鳴が兵士に緊迫感を与える。ハリウッドの特殊メイクによって、負傷者までが本物そっくり。戦場の恐怖や混乱を疑似体験できるように設計されている。
兵士たちは市場の奥に逃げ込んだテロリストを追う。目の前に現われるスクリーン。テロリストなのか民間人なのか一瞬の判断が求められる。戦場での心理状態にあらかじめ慣れさせておくための訓練である。
最前線の過酷な環境に狩り出される兵士。兵士の力を最大限に引き出して戦いに勝利したい国家。そのせめぎ合いは過去1世紀、かたちを変えながら続いてきた。
ごく普通の生活を送っていた市民が、ある日、国家の要請で戦場に送られる。徴兵制度による兵士の動員が初めて大規模に行われたのが、第一次世界大戦である。
激戦地の1つフランスのベルダン。10ヵ月に及ぶ激しい戦いで、死傷者の数は70万を超えた。ヨーロッパを舞台に1914年から4年にわたって戦われた第一次世界大戦。動員された兵士たちは過酷な戦場の現実に向き合うことになった。
戦争が始まって1ヵ月の間に動員された兵士は、ヨーロッパ全体で1千万人。この時、戦争は1週間で終わると考えられていた。しかし戦争は長期化、そして次々と新たな大量殺戮兵器が登場した。当時、最大の破壊力を持つ兵器だった大砲。射程距離を延ばすために巨大化し、砲弾は大きなもので1発1トン近くになった。大きな殺傷能力を持つ新式の機関銃も次々と実戦に投入された。伝統的な突撃を行う兵士がなぎ倒された。
元イタリア軍兵士、デルフィーノ・ボッローニ。109歳になる。狙撃兵としてオーストリアの国境の戦場に動員されたのは19歳のとき。偵察に出かけ、敵兵から機関銃の掃射を受けた。
「その時、私は激しい緊迫感に襲われました。地面に伏せて限界まで低く身構え、窮地を脱しようとしました。『お母さん、僕は死ぬ』と撃たれた戦友が泣きながら叫びます。私は敵兵2人の死体を盾にして必死に身を守り、その陰で、持っていた缶詰を食べて生き延びました」
敵の機関銃や砲弾から身を守るために、兵士たちは塹壕を掘り始めた。この塹壕の登場によって、戦争の形態は大きく変わる。互いに塹壕の中に身を潜め、敵を徹底的に砲撃し、疲労させる消耗戦の始まりである。
兵士たちは身動きのとれない塹壕の中で、死の恐怖と向き合うことになった。そうした中で、塹壕の兵士に異変が現われ始める。
画面の右奥に、頭を抱えてしゃがみこんだ兵士がいる。仲間の兵士が抱きかかえ、塹壕の外へ運び出す。身体が震え、ぎこちなく歩いている。後に「シェル・ショック」「砲弾ショック」と呼ばれる症状だ。
(元イギリス軍兵士/ハリー・パッチ/110歳)
「砲弾が炸裂する音を聞いただけで理性を失い、ヒステリー状態になる兵士がいました。私も恐怖からぶるぶる震えました。シェル・ショックになりかかっていました。こんな感じです(手を震わす)」
(ふらつきながら歩く男性/立ち上がれない男性/体が震える男性)
これはイギリス本国で撮影されたシェル・ショック患者の映像。激しい身体の震えや身体の麻痺から、まともに歩けなくなった兵士が数多く記録されている。シェル・ショック患者はイギリスだけでも8万人に上ったといわれている。
(赤い帽子を見せられ、怯える男性)
同じような兵士の症状はフランスでも記録されている。
赤い帽子を見て、怯え出す兵士。大量の血や敵の赤い軍服など赤い色が戦場での体験を思い起させるのではないかと考えられている。
シェル・ショックの患者はドイツでも大量に現われた。
(痙攣する男性)
この男性は痙攣が全身に及んでいる。声帯もうまく動かなくなり、しゃべれなくなってしまった。当初、兵士のこうした症状の原因はわからないままだった。
この症状を「シェル・ショック」と名づけたのはイギリスの医師だった。砲弾の衝撃で脳や脊髄が傷ついた結果と考えたのだ。医師たちはさまざまな対処法を試みた。
(頭部を震わす男性)
イギリスで記録された、頭部が震える患者。頭を激しく揺さぶると、やがて震えが止まる。
(ロンドン大学軍事心理学史教授/エドガー・ジョーンズ)
「これはマッサージというか、筋肉を激しく動かして、疲れさせています。筋肉は極度に疲労すると、弛緩してしまい、震えることができなくなりますから。奇跡的に回復したように見えますが、1週間後にはぶり返していると思います」
当初、脳や脊髄の損傷で起きると考えられたシェル・ショック。しかし、やがて兵士の心に原因があるという考え方が現われた。
ドイツ連邦軍事アーカイブに、そのことを伝える資料が残っている。
第一次大戦期の患者の治療記録、およそ6万人分。現在、フライブルク大学の研究チームによる分析が3年がかりで進められている。
25歳の兵士の記録。爆発で塹壕が崩れ、生き埋めになった。医師はその時の心理的なショックに注目している。
(フライブルク大学医学史研究所/ペトラ・ペックル)
「この兵士には精神的な症状がはっきりと見られたため、精神科医がいる他の野戦病院に回したと書かれています。病気の原因が心因性のものだと認識されていたことがわかります」
こちらは23歳の兵士。やはり心因性と診断されている。
(フライブルク大学医学史研究所/カイ・リュディガー・プリュル)
「爆風に吹き飛ばされて脚を引きずっていたこの患者も、爆発による負傷ではなく、精神的なものが原因だと考えられていたようです」
謎の症状シェル・ショックは、物理的な脳の損傷ではなく、心に起因しているという理解が次第に広がる。そして、「戦争神経症」とも呼ばれるようになっていった。
シェル・ショック、いわゆる戦争神経症を患う兵士は、その後も減ることはなかった。長引く戦争の中で、兵力を維持したい国家にとって、患者の増加は見過ごすことのできない問題だった。
第一次大戦でイギリス陸軍の最高司令官を務めたダグラス・ヘイグ元帥。兵力不足をこう嘆いている。「陸軍全体が疲れ果てており、戦力の低下は著しい。前線で戦っている師団も兵員の増強を大至急必要としている」
兵力を維持するため、イギリス軍は患者を本土に戻さず、前線の近くで治療する方針を立てた。記録によると、テント式の病院で兵士たちは軍服を着たまま、厳しい規律の中で治療を受ける。暖かい食事と束の間の休息の後、1日も早く戦列に復帰することが求められた。
(ロンドン大学精神医学研究所教授/サイモン・ウェスリー)
「それまで軍は患者となった兵士たちをイギリス本国に送り返していたのですが、それが間違っていたことに気付きました。帰国させても、兵士たちはなかなか回復しなかったのです。軍の兵員不足はとても深刻になっていました。これはイギリスだけでなく、ドイツ、フランスでも同じでした。こうして患者となった兵士の処遇に多くの疑問の声が上がり、政策が見直されることになったんです。その中には病気のふりをして、実は兵役を逃れる言い訳に利用している者もいるのではないかという意見までありました」
イギリス軍は「兵役逃れ」に厳しい態度で臨んでいた。ヘイグ元帥が脱走兵の処遇に書いたメモである。
「兵士が敵を目の前にして臆病になるのを防ぐには、見せしめを作ることが必要である」
第一次大戦中、イギリス軍は脱走や任務放棄の罪で300人を超える兵士を処刑している。その中にシェル・ショックのケースも含まれていた。
「これがハリー・ファーのファイルです」
そのうちの1人、ハリー・ファー二等兵に関する軍法会議の書類。所属部隊の上官や戦友の証言を元に作成されている。
24歳の二等兵ハリー・ファーは、激しい塹壕戦が続く西部戦線に従軍。半年後にシェル・ショックと診断された。5ヵ月入院した後、再び前線に戻されたものの、(ぶるぶる震えるなど)症状がぶり返してしまう。症状が悪化するファーは、ある日、上官に訴えた。「もう塹壕には行けません」
激戦の最中にパニックを起し、部隊の足手まといとなったファーを上官は軍法会議にかける。ファーに付けられた罪名は「臆病罪」、わずか20分の裁判で死刑が宣告された。
26歳で帰らぬ人となったファーには妻と娘がいた。
(ファーの孫のジャネット・ブース)
「私の祖母と母です。1919年、第一次大戦が終った後のものです。母はまだ5歳ぐらいでした」
ジャネットの祖母、ガートルード。夫の死を軍からの電報で知った。夫が「臆病罪」で処刑されたため、戦没者の遺族年金さえ受け取れなくなった。
ガートルードは99歳で亡くなる直前に、歴史家のインタビューに応じていた。その中で、夫の処刑に関するこんなエピソードを語っている。
「夫が撃たれた時、その場にいた従軍牧師から手紙をもらいました。そこには、こう書いてありました。私は処刑に立ち会いました。銃殺隊がやって来た時、彼は目隠しされるのを拒みました。目を開いたまま、刑を受けました。彼は決して臆病ではありませんでした」
(ジャネット)
「祖母はいつも、夫は臆病者ではなかったと信じていました。夫の神経に異常をきたしたのは、銃や爆弾の音のせいで、ほんとうにシェル・ショックにかかっていたのだと、夫は決して臆病者ではなかったと」
銃殺されたハリー・ファーがどこに埋葬されたのか、現在もわかっていない。
シェル・ショック(戦争神経症)で戦線から離脱する兵士をどう見るべきか。開戦から2年後、ドイツで医師たちが一堂に会して討議された。ミュンヘン大学医学部で開かれた戦時学会(ドイツ精神医学会・神経医医師会による戦時学会)。
ここで大きな議論になったのは、戦争神経症が起きるメカニズムだった。会場では、その要因を戦争そのものではなく、患者本人の資質に求める意見が相次ぐ。「大半の戦争神経症の患者は発病しなかった者に比べ、客観的に見て特にひどい体験をしたというわけではない」「発病する者は、そうなりやすい遺伝的な性質も持っているのではないか」
(ボン大学医学史研究所/ハンス・ゲオルグ・ホーファー)
「戦争神経症はドイツ軍だけではなく、オーストリア、ハンガリー軍にも広がり、多くの患者が出ていました。もしこの症状が戦争によって起きた症状であると認めてしまえば、国家は患者たちに補償や恩給を支払わなければなりません。医師たちはそのことに気付いていました。そこで『防波堤』を用意したのです」
結局、学会では戦争神経症の原因について、こう結論が下された。
「この大戦で大量に発生した戦争神経症の患者たちは、戦争での消耗や心や身体の激しい動揺によって発病したのではない。患者自身の『意志』に問題があるのである」
ドイツ精神科学会の重鎮、軍事精神科医ロベルト・ガウプの言葉。
「我われ医師は、その行為すべてを一つの課題のために捧げるのだ。その課題とは我われの軍部、我われの国家に奉仕することである」
(ハイデルブルク大学医学史研究所長/ボルフガング・エッカート)
「学会に参加していた精神科医のほとんどが、兵士の意欲に問題があるのだと考えました。つまり、ドイツのために戦う、ドイツ帝国のためなら死んでもいいという意志に障害があるというのです。戦争神経症の患者たちは自分たちが生き残りたいという意志のほうが強いのだと考えられました。よって、この学会以降、戦争神経症の治療は、患者を回復させるのではなく、患者自身が持つ、生き残りたいという意志を打ち砕くことだと考えられるようになるのです」
患者の意志の弱さが戦争神経症を引き起こしている。そういう見方は他の国でも芽生えていた。
フランス軍医師クロビス・バンサン。電気による治療をさかんに行った。バンサンは自ら開発した治療法を「魚雷攻撃システム」と名づけていた。70ボルト、35ミリアンペアの電流が流れる器具を体に押し当てる。乗用車のバッテリーに感電したときほどの痛みがあるという。
電極を押し当てると逃げるようにして歩く兵士。バンサンはこの魚雷攻撃を行い、半年で300人の兵士を戦場に戻したと発表した。
(フランス軍精神科医/ルイ・クロック)
30年に渡り、フランス軍の精神科医を務めてきた。
「バンサン医師が行っているのは、痛みと嫌悪感を患者に与えて、戦争神経症を抑える治療法です。『君は麻痺していない。君の足は動く。動かせないと想像しているだけだ』と言い聞かせ、患者の足を徐々に動かさせます。すると患者は、痛みを伴う治療をまた受けるよりも、もう治ったというようになります。これは痛みと嫌悪感を伴った条件付けです。痛い思いをしたくなければ、患者たちは諦めるしかないのです」
バンサン医師の治療を受けた兵士の言葉である。
「ひどい火傷を負ったようなめまいがしました。茫然自失となり、夜も眠れず、しばらくの間、脳が働きませんでした」
患者からの抗議に対してバンサンはこう反論する。
「ベルダンを死守した兵士たちの苦痛に比べれば、取るに足らないものだ」
バンサンの活動を撮影したフランス軍の映像には、治療を終えた患者を前線に戻すための訓練も映っている。電気を使った治療は、ドイツやオーストリアでも盛んに行われるようになり、自殺者を出すまでにエスカレートしていった。
国家の要請に従い、兵士を戦場に追い立てていく医師たち。その中で戦争神経症の本質を捉えなおそうとした人物がいた。
オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイトだ。人の心の傷、トラウマを扱う精神分析学を創始したフロイト。兵士たちが戦場体験の悪夢に苦しんでいると知ったフロイトは、彼らが深刻なトラウマを負っていると考えた。このトラウマがきっかけとなり、戦おうとしても戦えないという激しい内面の葛藤が起きていると指摘したのだ。
「戦争神経症は、自我の葛藤によるトラウマ的神経症と見ることができる。戦争神経症の直接的な原因は、軍が求める危険な任務、自らの意思に反する理不尽な命令から逃れたいという無意識の心の働きである。殺されることへの恐怖、他人を殺せという命令への反発。これこそが戦争から逃れたいという気持ちを助長した最大の要因であった」
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