2008年10月21日(火)
10月18日(土)、「ミーダーン〈パレスチナ・対話のための広場〉」主催の連続セミナー<ナクバ60年を問う>の第三回「ヨルダン渓谷問題から日本のODA援助政策を問う」に発言者として招かれていた。(主催者サイト:ミーダーン〈パレスチナ・対話のための広場〉連続セミナー・<ナクバ60年を問う>第三回「ヨルダン渓谷問題から日本のODA援助政策を問う」)
しかし退院したばかりで、夜、東京まで出向いて発表できるほど体力と気力が回復しておらず、病気が再発する恐れもあったため、私が事前に準備した写真と解説そして私見を、ボランティアの学生、鈴木啓之さん(東京外大・アラビア語科3年生)に会場で代読してもらった。
その内容を2回にわたって紹介する。第1回目はスライド写真の説明文のオリジナル原稿だが、実際の発表では、時間の制約上、割愛した部分があることをお断りしておく。
入植地経済への従属化と“占領”
─ヨルダン渓谷住民のジレンマ─
【ヨルダン渓谷の説明】
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ヨルダン渓谷はヨルダン川西岸の30%近くを占めるにも関わらず、ほとんど報道されることがない “死角”だった。
- 海抜下300mほどの大地溝帯にある。気候は冬でも温暖で、豊富な水資源と灌漑技術の発達により、野菜や果物の生産地として知られている。
- ヨルダン領だったこの地域は1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領。かつては40も超えていたパレスチナ人の村は戦中、多くの住民が難民としてヨルダンへ移住し、現在は3分の1の、13村に減少した。
- オスロ合意後も、ジェリコ市など一部を除いて実質的にイスラエルが支配する「C地区」。パレスチナ人はイスラエル当局の許可なく、家の建設も、井戸の堀削もできない。
- このヨルダン渓谷の土地の50%は数千人足らずのユダヤ人入植者たちによって所有されている。占領直後に「ヨルダン政府の元国有地」「不在地主の土地」という名目でイスラエル政府に没収された土地が入植者たちに与えられたのである。他の多くの土地も当局によって「閉鎖地区」とされ、パレスチナ人住民は締め出されている。
【ジフトゥリック村】
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ジェリコ市から北へ車で30分ほどの距離。人口は、夏場は約5000人、冬場は7000人ほどに(夏、近くの山野で羊の放牧をしながら暮らす住民が冬には村へ戻って定住するから)。
- 住民のうち2000人ほどは1948年にイスラエルに土地を追われた難民。そのうち3地区が2006年冬に、イスラエルが民生、治安などすべてを管轄する「C地区」から、パレスチナ側が民生を管轄する「B地区」に転換。それによってこれまで禁止されていた家の建設が自由にできるようになった。しかしもう1つの地区は依然C地区のままで、自分の家も自由に建てられない。
- この村の農民たちは、灌漑設備の整った農地で、キュウリ、ナス、トマト、インゲン豆、ズッキーニ、胡椒、そしてナツメヤシなどを生産している。
- 村の約50%にはまだ電気がなく、飲料水はイスラエルの水会社から買わなければならない。
【アブ・イサ一家】
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広大な農地で野菜を栽培する農家で、家長はアブ・イサ(52歳)。この村で500人ほどの住民が属するファミリーの長。この家には電気はない。50年ほど前に建てられた土壁の家で暮している。
- アブ・イサには27歳の長男を頭に8歳になる末っ子まで4人の息子がいる。またアブ・イサの弟イブラヒム(32歳)とその一家5人も、同じ敷地の、隣接する家に住んでいる。
- 「4ドナム(約4アール)の畑から上がる収益は1万シェーケル(約30万円)。しかし灌漑ポンプの燃料、ビニール代、肥料、苗、農薬、トラクターでの耕作代、灌漑用水の費用などの経費を差し引くと5000シェーケルにもならない。だから農業では生活していけないんです」とアブ・イサは言う。
- 農産物で十分な収益が上がらないもう1つの理由は、マーケット(市場)の問題。
- (野菜市場の写真)これはジフトゥリック村で生産された農産物が出荷されるナブルス市の野菜市場。ヨルダン川西岸北部の各地からこの市場に農産物が集まってくる。いわば西岸北部の“台所”。
- この市場では、イスラエル産の野菜や果物が大量に取引されている。
- 一方、パレスチナ人の農産物は、西岸各地のイスラエル軍の道路検問や通行制限によって、イスラエル国内へはもちろん、西岸内の大都市の市場に運搬することができない。
- ジフトゥリック村の農産物をここに運ぶには、多いときは2箇所、少ない時でも1箇所の検問を通過しなければならない。
- 検問で道路が封鎖されると、ヨルダン渓谷の農産物は外に持ち出せず、出荷はジェリコ市などヨルダン渓谷周辺に限られ、値は暴落し、経費さえまかなえなくなる。
- ジフトゥリック村で、農業だけで生活できる住民はほとんどいないといわれる。
【ユダヤ人入植地で働く村の男たち】
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アブ・イサの家族も、長男は同じ村で、次男(25歳)は30キロ離れたジェリコ市でそれぞれ建設の仕事をし、三男オデ(20歳)は近くのユダヤ人入植地で働いている。
- 農業だけに頼れないこの村の住民たちにとって、入植地は重要な職場になっている。
- 人口5000人ほどのジフトゥリック村から約500人が入植地で働き、ヨルダン渓谷全体では5000人を超すパレスチナ人が入植地で働いているという。
- アブ・イサと同じ敷地で暮す弟イブラヒム(32歳)も第2次インティファーダ前、テルアビブなどで壁塗りや床張りなど何でもこなす左官として重宝がられ、日当300シェーケル(約9000円)ほどを得ていた。しかしインティファーダ以後、イスラエルでの仕事はできなくなり、入植地で働くようになった。同じ仕事をしても12時間働いて得られる日当は100シェーケル、3分の1に急減した。それでも他に働き場所はないのだ。
- サイードの日当は特別で、通常、入植地でナツメヤシの収穫や加工工場での仕事は日当50(1500円)から60シェーケルが相場だという。アブ・イサの三男オデも、まだ暗い5時から12時まで働いた日当は60シェーケルである。
- アブ・イサの家によく訪ねてくる村の村議会の議員であるモハマドも、日頃は入植地で働き、日当75シェーケルを得ている。
- 村議会議員である彼が、“占領者”であるユダヤ人入植者の元で働くことにどういう感情を抱いているのか訊くと、モハマドはこう答えた。
「できることなら、入植地で働きたくないが、他に働く場所がないんです。農業も、農薬やビニール、灌漑用水などコストが高い一方、その農産物はマーケットも限られ、値段も安く、コスト分さえ補えないときだってあるんです。そんな状況の中で私たちは生活していかなければならない。だから入植地で働かざるをえないんです」
【住民の“ユダヤ人入植地”観】
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ガザ地区や他のヨルダン川西岸では、パレスチナ人住民はユダヤ人入植地と入植者たちを“占領の象徴”“闘うべき敵”として激しい怒り・敵意を抱いている。入植地で働く少数者を除いて入植者たちと接触する機会もほとんどない。
- しかしこの村の住民にユダヤ人入植者に対する感情や印象を訊いても、前者のような“敵意”は出てこない。1967年の占領当時、「不在地主」「国有地」などの名目で多くのヨルダン渓谷の土地がイスラエル政府に没収され、その後、ユダヤ人入植者たちに与えられた事実は認識していても、「今は悪い関係ではない」というのだ。生活するために、入植地に依存しなければならない住民たちの“入植地”観である。
- ヨルダン渓谷のユダヤ人入植地で働くのは、地元の住民だけではない。村の子どもたちが通う小学校の近くに、ビニールハウスが3棟ほど建ち並んでいる。しかしそれは野菜を栽培する農業用ハウスではなく、人が寝泊りする「家」だった。
- 中から2人の青年が出てきた。1人はヨルダン川西岸北部の都市ジェニン出身、もう1人はヨルダン渓谷の西方トゥバス市からやってきた青年だった。ここで寝泊りして近くのユダヤ人入植地で働いているのだという。いわゆる出稼ぎ労働者で、このビニール造りの「家」はその宿舎だった。
- 「家」の中に入ると、10畳ほどの広さ。地面にビニールの敷物が敷かれていた。その上にいくつものマットレスがあり、人が抜け出たままの毛布が無造作に置かれていた。ここで8人ほどが寝泊りしている。「壁」にはズボンやシャツがかけられ、「部屋」の隅は、プロパンガスのコンロやわずかな食器が並ぶ「台所」だ。「住居」というにはあまりにも貧弱で汚く、まるで家畜小屋だ。こんなところで何日も生活すれば、身体を蝕まれるだけではなく、精神的にも荒むに違いない。
- トゥバス出身の青年は、実家に戻るのは週に1度か、月に2,3度だけだという。
- なぜこんな生活をしているのかと訊くと、2人の青年は口をそろえるように答えた。
「ジェニンやトゥバスには仕事がないんです。入植地での仕事は日当5、60シェーケルで、確実に仕事にありつけますから」
- 彼らの話では、ここで生活する数十人の青年たちはナブルスやヘブロン、遠くはアカバ近くから仕事を求めてやってきている者もいるという。
- ヨルダン渓谷とその周辺では、パレスチナ人住民がユダヤ人入植地に依存しなければ生活できない構造がもう出来上がっている。
【ヨルダン渓谷のユダヤ人入植地・アルガマン】
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ではヨルダン渓谷のユダヤ人入植地とはどういうところなのか。アブ・イサ家の三男オデをはじめ、ジフトゥリック村の多くの住民たちが働くアルガマン入植地を訪ねた。村から東へ5キロほどの位置にある。
- 入植者たちの居住区は、広大な農地から少し離れた丘の上。パレスチナ人たちが働く農園と居住区は分離。従業員のパレスチナ人が居住区に踏み入ることはないし、できない。“セキュリティー”のためだ。
- 居住区の入り口は、イスラエル軍兵士が警備していた。敷地内に入ると舗装道路の沿道には、芝生が敷き詰められ、木々の豊かな緑に囲まれた家々が建ち並んでいる。ヨルダン渓谷の荒野とはまったくの別世界だ。
- この入植地は、イスラエル政府に没収されたパレスチナ人の土地600ドナム(約60ヘクタール)に、1973年、イスラエル軍のナハル部隊(占領地のようにセキュリティー上危険な地域でイスラエルの施設などの建設・整備などを任務とする部隊)によって建設が始められた。
- 2007年春現在、40家族、約200人が暮らす。入植者の大半は、テルアビブなどイスラエル各地から移住した市民だが、2002年には旧ソ連からの移住者2家族が加わった。
- 入植希望者はまず面接試験を受け、共同生活に適応できるかどうかを見極められる。そこで選抜された家族はまず試験期間として1年間、「準メンバー」として入植地で暮し、その後入植地の住民の投票で最終的に「正式の入植者」として受け入れるかどうかが判断される。ただ、正式の入植者となった家族は「私有地」と農業のための水が配分され、農業の研修訓練を受ける。
- 主要な農作物はナツメヤシ、細葱、ぶどうなどで、イスラエルの輸出業社「アグレスコ(Agrexco)」によって主にイギリス、デンマーク、ドイツなどヨーロッパ諸国へ輸出している。新鮮さを必要とする細葱やぶどうなどは、収穫したその日のうちに空港まで運び、2、3日後にはヨーロッパの店頭に並ぶ。一方、ナツメヤシのように、保存が効く作物は、経費の削減のため船で海外へ運ばれている。
- <細葱の加工工場>
建物の中は収穫した細葱の鮮度を保つため冷房されていた。中では、数人のタイ人、ほぼ同数のパレスチナ人が作業中だった。細葱の束を揃え、根元を包丁で切って長さを揃える。さらに不良な葱を選り分け、計量器で重さを調整して、輪ゴムで根元をしばる。いくつか束が集まると、箱に入れ、さらにもっと温度を低くした冷蔵庫の中に保管する。手先の器用さと辛抱強さが要求される仕事だ。タイ人のうち2人はまだ20代と思われる女性だった。パレスチナ人も大半が若い女性である。
- <隣接する栽培ハウス>
中はむっとする暑さだった。ハウス内は長さが数十メートル、幅も2、30メートルはあろうか。その左半分には、まだ芽吹いたばかりの細葱の苗床が何列にもわたって並んでいる。その苗床は幅十数センチほどの枕状で、ビニールで覆われたその中は自然の土ではなく人工土だ。水をたっぷりと吸収し保存する。その苗床の上には黒いビニール管がまっすぐ伸びている。20センチごとに開けられたその穴から毎日数回、肥料を含んだ水が染み出る。その量と回数によって、細葱の発育を自由に調整できるという。そして右半分にはすでに成長し、収穫を待つばかりの細葱の畑が、緑のじゅうたんを敷き詰めたように一面に広がっている。隣の芽吹いたばかりの細葱がそこまで成長するまでわずか25日間。しかも年中無休で生産できる。あと必要なのは、それを収穫し加工するための労働力だけだ。パレスチナ人やタイ人はこの入植地の農業経営にとって欠かせない存在なのである。
- <ナツメヤシのプランテーション>
100ドナム(約10ヘクタール)ほどの広大な土地でパレスチナ人の青年たちが、咲いた花の束に農薬を散布する作業をしていた。地上数メートルの高さにある花だから、クレーン車を使う。運転手と実際にクレーンの台に乗って散布する者とがペアになって仕事をする。このプランテーションも大量のパレスチナ人の労働力なしではとても管理・運営できる規模ではない。
- 入植者たちが広大な農地で農業を経営していくには、外部からの労働力は不可欠だ。建設当初から、この入植地は近隣のパレスチナ人の村の住民たちを雇ってきた。
- 雇っているのはアルガマン入植地に隣接するパレスチナ人の村の住民が大半だが、数キロ先のジフトゥリック村からも雇っている。通常、200から300人だが、収穫期には1000人近いパレスチナ人を雇う。
- 日当は技量と経験によって幅があり、70から150シェーケルだとこの入植地の代表、ハイム・ミズラヒ氏は説明した。私がジフトゥリック村で取材したとき、この入植地で働く多くの青年たちは、日当は50から60シェーケルだと答えた。たぶんその差額は、村から労働者を集めるパレスチナ人の「マネージャー」が「仕事の紹介料」分として差し引いているのだろう。
- この入植地では、ナツメヤシ栽培部門、ぶどう栽培部門など各部門で、長年働き、「忠誠心」が高く、信用できるパレスチナ人を「マネージャー」として置き、パレスチナ人労働者の召集、仕事の管理を任せている。例えばナツメヤシ部門の「マネージャー」は、その父親もこの入植地で働き、少年時代からこの入植地に通っていた。ミズラヒ代表は18年間も働いてきたこの「マネージャー」に厚い信頼を寄せ、「私の仕事のパートナー」と呼んだ。
- タイ人50人も貴重な労働力となっている。彼らには政府が定めた最低賃金以上が支払われ、現在、平均月給は3000シェーケル(約9万円)だという。ただタイ人にはパレスチナ人と違って、住居、米、衣類が入植地側から支給されるため、パレスチナ人より割高になる。しかし、できればもっとタイ人を増やしたいという。この入植地の主要な輸出作物の1つである細葱などの加工とパック詰めなどは、手先の器用さと忍耐強さが要求される。こういう仕事には、パレスチナ人よりタイ人の方がはるかに適しているという。
- ただタイ人の労働者の数は政府によって決められているために、願い通りには増やせない。だからこそ、ヨルダン渓谷のパレスチナ人住民は、ユダヤ人入植地の経営には不可欠になっている。農業では生活できない地元住民たちは、大量の“安い労働力”が不可欠な入植地の経営にがっちりと組み込まれている。
→ ヨルダン渓谷JICAプロジェクトへの私見(2)へ続く