2008年12月20日(土)
東京都の音楽教員・佐藤美和子さんのことを知ったのは、野田正彰氏の著書『子どもが見ている背中 ─良心と抵抗の教育』(岩波書店)の中だった。「君が代」を弾くことを強要され「急性出血性胃潰瘍を伴う遷延性抑うつ反応」と精神科医の野田氏が診断したこの佐藤さんのことを、野田氏は200ページほどの自著のほぼ3分の1、70ページを費やして記述している。キリスト者である佐藤さんにとって、「天皇を神と仰いだ『君が代』」を弾くことは、自分の信仰と信条を裏切ることだった。「弾くことを拒否する」ことで学校現場において迫害を受け、「子どもたちといっしょにいたい」「子どもたちに音楽の楽しさを伝えたい」という強い願いとの心の葛藤の中で、出血性胃潰瘍で倒れてしまう。その過程と心情を克明に記録した文章を読み、私は衝撃を受け、「この人の声を記録したい」と思った。
佐藤さんを知る根津公子さんを通して、私はやっと佐藤さんと接触することができた。電話の向こうから聞こえてくる声は私には意外だった。こういう闘いから私が想像するイメージからあまりにもかけ離れた、柔らかい声と口調だったからだ。
先週、都内の教会での小さな集会で佐藤さんと初めて会い、話を聞いたとき、その新鮮な驚きはさらに強まった。佐藤さんは俯き加減に、卒業式で日の丸掲揚に抗議した子どもたちに共鳴するする教員たちのリボン着用に対する処分と闘う裁判、「君が代」伴奏を強要する校長への抵抗と、そのために胃から出血し救急車で病院に運ばれた体験、音楽を通して子どもとの交流を淡々と語った。ただ1時間近い話の最後に、裁判での本人陳述で述べた「学校を子どもたちに、教育をこどもの幸せを願う私たち教員に返してほしい」という言葉を語りながら、佐藤さんは初めて声を詰まらせ、涙を流した。
その2日後、佐藤さんが勤務する小学校のある東村山市で市内の小、中、高校生たちの音楽会が開かれた。佐藤さんが結成した合唱団も参加した。3、4、5年を中心に「歌いたい」と自主的に集まってきた40人近い生徒たちだ。佐藤さんによれば、子どもらの大半はいわゆる「優等生」ではなく、学校では居場所のない子どもたちだという。そんな子どもが大舞台を前に興奮し、緊張し、嬉々としている。その子らを笑顔で励まし、なだめる佐藤さん。その表情をカメラで追いながら、「この人はほんとうに子どもが好きなんだなあ」と実感した。
佐藤さんの祖父が牧師を務めた教会の初代牧師は、戦前、当局に拘束され、「天皇とキリストとどちらが偉いか」と問われた。その牧師はキリスト者としての答えを率直に述べ、拷問死する。
「自分の身体の中を流れる血が天皇制を強制、服従、抵抗を経験してきた、それを経た私なのかなあと思うんです」。自分が「君が代」を拒絶する理由を佐藤さんはそう表現した。「そういう教会が一度は『君が代』を強制される歴史を持っていたり、そこには天皇制に服従するような歴史をもってきたものだったということを考えたとき、私は漠然と『君が代』伴奏はできないと思っていたけど、やっぱり私の血が拒否していたんじゃないかなあ。それを知ればしるほど、『君が代』を受け入れたら、私が私でなくなるし、受け入れることはありれないんだなあと思うんです」
“「君が代」を弾かない音楽教員”佐藤さんに、さまざまな“報復”が始まる。校長は、「学級担任になるように」と勧めた。「君が代」を弾かないから音楽専科でいられたら困るからだ。それは「音楽を通して子どもと接していたい」という佐藤さんの願いを踏みにじろうとする行為だった。
学校を異動させるための嫌がらせも、あからさまだった。学校で荒れ、手のつけられなかったある男の子に佐藤さんはドラムを教えた。その子はドラムに夢中になって、最後にはクラス合奏でドラム奏者として参加した。クラスから孤立していたその子がドラムをたたいて合奏に加わることはクラス全体の喜びだった。そして何よりも、その子はやっと自分の居場所をみつけ、嬉々としていた。
しかし校長が佐藤さんに下した「学習指導」の業績評価は「C」。その理由を問うと、校長の答えは「ドラムの音量が大きすぎた。合奏のバランスが悪い」だった。
「特別活動」と「学校運営」の評価は、「君が代」を弾かないから「C」、「生活指導」はすぐに対応できているから「B」。そして「学習指導」は「ドラムの音量」で「C」。「異動」の名目作りのためにも、業績評価は「C」でなければならなかったのだろうと佐藤さんは推測する。果たして、秋の中間面接で校長は佐藤さんに「来年の人事構想には入っていません。異動してください」と告げた。
校長から「公務員なのだから、当然、『君が代』は弾くべきだ」と強要を繰り返されるなか、佐藤さんは「音楽の教員を続ける限り、そう言い続けられるんだ」と思い、死の誘惑に駆られたこともある。「『君が代』の無いところへ行ければいいなあ。それは学校ではなく、死んだ世界しかないのかあ、ふとそう思ったんです」
そのような思いを精神科医の野田正彰氏に手紙で書き綴っていたとき、涙がポトポトと手紙に落ちた。
国立(くにたち)市から杉並区の学校に異動を命じられたとき、佐藤さんは「両親の介護のため、遠隔通勤は困る」と訴えた。すると杉並区教育委員会(区教委)は「国立市教育委員会(市教委)から、佐藤さんは『君が代』を弾かないと聞いている。そのことが異動したとき、もっとたいへんなのではないか」と返答した。佐藤さんが市教委に確認すると、「先生はキリスト者として『君が代』の伴奏拒否を貫いていると伝えた」と言う。佐藤さんは「異動のとき、その教員がキリスト者だとか、仏教徒だといった情報は伝えるべきことなんですか」と激しく抗議した。
胃の異常が発見されたのは、その直後の胃カメラ受診の時だった。8箇所に出血、うち2箇所が動脈出血だった。「勢いよく血がピューと噴き出している」と医者が告げた。「最近、解決困難なことがあったんですか」とその医者に問われたとき、「『君が代』を弾かない自分に、校長も、市教委も区教委もいっしょになって報復を行っている」と言いたかったが、言葉にならなかった。
「 “心”はそれほどダメージを受けていないと思っていたけど、身体が『もう無理だよ』と教えてくれたんだと思います。もうこれ以上、がんばってはいけないんだ、私が私でいるために、これ以上がんばったら、身体が先に参ってしまうから、ここで休んだほうがいいと思いました」
佐藤さんは3週間入院した後、6ヵ月間の病休を取った。
その後、職場復帰し、「『君が代』を弾かない音楽専科」を貫いている。そのため、来年も異動が決った。
佐藤さんは、卒業式、入学式の「国歌斉唱」のとき、「不起立」はしない。
「立っていることで非難されれば、それは受けます。ただ子どもといたい、子どもの成長と幸せのために力を尽くす教員であり続けたい。私は数少ない『「君が代」を弾かない音楽専科』を続けるほうを大事にしたいと思っています」
佐藤さんは小学校6年とき音楽の先生をみながら、「あの人はいつも好きなことをやっていられていいなあ」と憧れた。そして今、自分がその音楽の教員を続けている。学校での自己紹介で子どもたちにその話をしたとき、ある子が「先生、夢がかなったんだね」と言った。「ほんとうにそうだなあと実感します。そして好きなのは音楽だけではない、子どもが好きだったと思うんです。その両方といっしょにいられることがありがたいなあ」と佐藤さんは心底思う。
「今、楽しくてしようがないんです。久しぶりに5,6年生に音楽を教えられて。子どもたちが飛びついてくるんです。私が知っている音楽の喜び、子どもたちもそれを受け止めて、私が伝えることができていることを見るたびに、うれしくてたまらなくて。でも結局、来年、その学校を追い出されてしまい、どこに行くかわからない。これが続けられるのかあな、と今も不安なんです」
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