2009年1月7日(水)
もう1年2ヵ月もパレスチナの現場から離れていた。しかしこの間、ずっとパレスチナ・イスラエルに関する著書やドキュメンタリー映画に関わっていたから、“パレスチナ”とは途切れることなく関わり続けていたことになる。しかし連れ合いの幸美は、私が長く現場から離れて、ジャーナリストとしての現場感覚を鈍らしてしまうことをずっと心配していた。「映画が完成したら、映画上映の広報や講演などでまた長く現場へ行けなくなるから、完成前に短期間でもいいからパレスチナへ行ってきたら?」と言い続けていた。私が少しのことにすぐに苛立つ姿を側で見ていて、現場へ行かないことで蓄積されているストレスを見て取っていたのだろう。私自身にもその懸念はあったが、何よりもドキュメンタリー映画4部作の完成が最優先で、それまでは動かないつもりでいた。
しかし、12月下旬に始まったイスラエル軍の空爆が、私の決心を揺るがした。私が長く関わってきたガザで100人単位の住民が日々殺されている現状に居ても立ってもいられない。しかし、電話したイスラエルの友人は「今はガザに入ることは不可能」と言う。肝心のガザへ入れず、映画制作を中断してパレスチナへ行く意味があるのか、それよりも、ガザの現状を長く取材してきた数少ないジャーナリストの1人である私は、今こそ日本で伝なければならないことがあるのではないか、もしどうしても行くのなら、映画4部作の仕上げをしてからだ。そう決めた。そのために1日も早く編集を終えようと、編集者のHさん、プロデューサーのYさんには正月早々から仕事を進めてもらった。これなら1月中旬にはパレスチナへ行けると思った。
しかし4日の朝、外出していた私に届いたSさんからの携帯メールで、イスラエル軍が地上侵攻を開始したことを知らされた。私は、肉親の死を知らされた時のような、暗澹とした気持ちに突き落とされた。ほんの2日前にガザの友人たちに電話で現地の状況を聞いていたが、「イスラエル軍の地上侵攻はないだろう。彼らにとってもあまりに危険だから」と友人の1人は楽観していた。しかしそれが現実のものとなった。すでに500人近いパレスチナ人が犠牲になっていたが、地上侵攻となれば、犠牲者の数は急増するだろう。私が長年関わってきたの友人、知人たちやその家族も犠牲になるかもしれない。
私と幸美は、空爆が始まって以来、BBCとCNNのニュースに釘付けになる毎日だった。日本のテレビ局にチャンネルを回しても、安っぽい笑いを振りまく、正月ボケのバラエティー番組ばかり。ニュースを見ても、とりわけ民放はほとんどガザ情勢は伝えない。ニュース項目は大半が国内政情、失業者問題や殺人事件など内向きのニュースが大半で、数百人が殺されている国際問題はほとんど伝えられない。
12月下旬までガザで勤務し、一時帰国していた国連職員の日本人女性は、「実家ではBBCやCNNも見られないので、日本のテレビニュースを見てみるけど、国際問題に関しては情報の谷間にいるような気になる」と漏らした。
この日本で“国際感覚”を養うことなどほとんど絶望的なような気がする。今、小学校で英語を教えることが話題になっているが、この内向きのメディアと社会の状況のなかで、たとえ小学校で英語を教えても、「国際人」が育成されるとは思えない。言葉はコミュニケーションの“手段”であり“道具”だ。その道具をどんなに磨いても、その道具で伝えようとする“中身”が養われなければ、“国際感覚”など育ちようがない。“国際感覚”とは英語や仏語が流暢にしゃべることではなく、肌の色や言語や文化が異なる“遠い”国の人びとのことを“同じ人間と感じとる感性と想像力”だと私は思っている。今の日本のメディアや社会の状況は、子どもたちがその“感性”や“想像力”を育てる環境から程遠いと思えてならないのだ。
BBCやCNNで刻々と伝えられるガザの状況を見ながら、幸美が泣いている。彼女にとっても、居ても立ってもいられない気持ちだろう。第2次インティファーダが起こった直後、彼女は教員の仕事を1年休職して、ガザ市内の聾学校でボランティア活動をしていた。当時、彼女が接していた子どもたちとその家族、学校の同僚、そして下宿していた家族の安否が心配でならないのだろう。私が寝入った後、彼女はガザの下宿の家族に国際電話をしたと、翌朝私に告げた。たとえたどたどしいアラビア語で十分に意思疎通ができなくても、家族は日本からの懐かしい声にいくらかでも励まされたにちがいない。また彼女にとっても、家族の無事が確認できただけでも、心がわずかでも軽くなったはずだ。
空爆や侵攻で苦しんでいるガザの人たちのために何かしたい、しかし教員という定職を持った彼女は自由に動けない。そのもどかしさと歯がゆさ。そんな彼女だから、自分に代わってジャーナリストの私に現地に行き、ガザの現状を伝えてほしいという強い想いがあるのだろう。私が映画編集の仕上げを中断してパレスチナ行きを決意したとき、幸美は真っ先に賛成した。出発の準備に追われる私を表に裏に甲斐甲斐しく手伝う彼女の姿を見ながら、そんな彼女の想いをひしひしと私は感じ取った。
出発の朝、私が出発前に空港で食べるおにぎりを用意しながら、彼女が涙ぐんでいるのがふと目に入った。いつも側にいた私が長くいなくなることの寂しさ、何が起こるかわからない危険な現場へ私を送り出す不安、その一方で自分に代わってガザの現場を見て伝えてほしいという願い……。彼女のなかで、いくつもの想いがもつれ合っているにちがいない。
涙ぐむ幸美に私はまともに目を向けられなかった。こちらが辛くなるし、パレスチナへ向かう足が鈍るのが怖いから。でも私は心の中で彼女に告げた。
「自分の力でできる限りのことはやってくる。そして必ず無事に帰ってくる」と。
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