2009年1月8日(木)
テルアビブ空港に到着したのは1月8日午前2時半。私の誕生日である。56歳の年は、ガザが大惨事下にあるパレスチナの取材から始まる。今年は私の半生の中でも波乱万丈の年になりそうな予感がする。
空港ロビーで日記を書きながら夜明けを待つ。まだ夜中なのに到着ゲート前のロビーには到着する親族や友人、知人を待つ市民数十人ほどがいた。恋人を待つのだろうか、若い男がその様相とは不釣り合いな花束を手に待っている。イスラエル国旗の小旗、大旗、そして歓迎の言葉らしいヘブライ語を書いたプラカードを持った若者たちが、アメリカからのユダヤ人だろうか、同じ年頃の青年たちを迎えて抱き合い、並んで記念写真を撮っている。中年女性が出てくると、若い女性が駆け寄り抱きしめてキスをした。母娘だろうか。大きなイスラエル国旗を肩からまとう青年もいる。
いつもの平穏なテルアビブ空港の風景である。今まさにガザに自軍が侵攻し激しい攻撃で多くのパレスチナ人住民が殺傷されている緊急な状況であることを、この空港の空気から読み取ることはできない。まさに別世界だ。ただ、それは表面上のことだとすぐわかる。私が座り疲れて、ほんの2、3分、10数メートルほど自分の荷物を離れて歩き回った。すると、間もなくどこからとなくセキュリティー要員の若い女性がその荷物に近づき、調べようとする。私が近づき、「私の荷物です」というと、「パスポートは?」と言う。目鼻立ちの整ったモデルのような女性だったが、警戒心で表情が固くこわばっている。表面は平穏に見えても、この国はいつものとおり、「セキュリティーの厳戒態勢」下にあるのだ。
1年2ヵ月ぶりのエルサレム。大きく様変わりしたのは、西エルサレムの大通りの真ん中に地上電車の軌道が建設中で、道路は掘り起こされ、以前の風情ある街が殺伐とした光景に変わってしまったことだ。この電車は、東エルサレムにあるユダヤ人入植地と西エルサレムを結ぶ。その通路に当たる東エルサレムのパレスチナ人居住地区でも幹線道路の真ん中が掘り起こされ、すでに電車の軌道が設置させていた。この電車は入植地のイスラエル人住民のための通勤電車であり、パレスチナ人住民のためではもちろんない。しかしその建設ために、本来パレスチナ人が所有していた幹線道路の広い土地が「公共の目的」という名目でイスラエル当局に没収されたのだ。このように、東エルサレムを車で走ると、着々と、“パレスチナのイスラエル化”が進行していることが一目瞭然である。
西エルサレムの繁華街ベン・イェフダ通りを歩いた。木曜日の昼下がり、人通りも少ない。イスラエルの治安状況がそのままこの通りの通行人の数に反映する。戦争やインティファーダの勃発、自爆テロなどで国内の治安が悪化すると、途端にこの通りの人通りは激減する。そしてガザに自軍が侵攻をしている今、やはり人通りは減っている。通りの入り口には、自動小銃を肩にかけた黒装束のバイクライダーたちが、数人待機している。彼らはパレスチナ人の「テロリスト」を発見すると、狭い通りまでもバイクで追跡し射殺する治安警察官たちである。
しかし一旦通りの中に入ると、野外喫茶のテーブルで暖かい日差しを浴びながらコーヒーやデザートを楽しむ市民がいる。野外音楽家たちのバイオリンとギターの美しいメロディーが流れ、立ち止まって聞き入っている通行人もいる。のどかなこの雰囲気のなかに身を置くと、ガザの状況など別世界だ。同時間に、ガザでは人びとが水も電気も食料さえなく、空爆と砲弾、銃撃のなか恐怖におののきながら生きている一方で、ほんの100キロほどの離れたこの西エルサレムでは、陽をいっぱい浴びながら食事を楽しみ、音楽に酔いしれ、穏やかな日常を送れる人びとがいる。そして彼らは言うのだ。「もう何年もロケット弾を撃ち込んでイスラエル人の生命と安全を脅かし続けるやつらは、もう許せない。ガザの攻撃は当然よ」と。
今回のガザ攻撃を支持するイスラエル国民は90%を超えていると、新聞が世論調査の結果を伝えている。
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