2009年1月9日(金)
イスラエル軍の地上侵攻が開始され、しかも3日前に起きた、ガザ北部で住民が避難していた国連の学校をイスラエル軍が砲撃し40人の住民が虐殺された事件後初めての金曜日。東エルサレムやヨルダン川西岸で大きな抗議デモが起こるに違いない。私が8日までに現地入りしたいと考えたのはこのデモの取材に間に合わせるためだった。
夜明け前から、ダマスカス門前のナブルス通りは数十人の武装したイスラエルの警察官が警備する検問所によって遮断された。その先のダマスカス門への入り口でも警察官が検問している。通れるのは、女性と子ども、そして旧市街の住民だけだ。旧市街に仕事があると訴えても、男たちの大半は追い返される。アルアクサ・モスクのある旧市街への道はすべての同じ状況だろう。「空爆が始まって初めての金曜日だった先週の2倍以上の警官が配備されている」。旧市街に住むある女性は、その異常なほど厳重な警備をそう形容した。
私はその検問所へ向かい、検問する警察官たちにカメラを向けた。ジャーナリストは私ひとりだった。しかし胸にプレスカードを下げた私の撮影に気を止める様子もなく、撮影を制止しようともしない。「どこから来たんだ?」と1人の警官が訊く。「日本から」。「カラテ知ってるか?」と屈託ない。彼らには、「自分たちの行動は当然の任務であり、何も後ろめたいことではない、だからメディアに隠し立てすることではない」という「自信」があるからだろう。
警察官の1人が英語で私に訊いた。「日本では、今のガザの状況をどうみているんだい?」。私は正直に「イスラエル軍に多くの住民が殺されていることに怒っているよ」。すると警官はこう反論した。「いいかい。イスラエルは8年間もハマスが撃ち込んでくるロケット弾にじっと我慢していたんだ。もし他の国で同じことが起こったら、その指導者はイスラエルのようにすぐに反撃しているよ。自国民が攻撃されたら、どこの国でも当然同じことをやるさ」。
イスラエル軍のガザ攻撃を支持している90%以上の国民の言い分は、まさにこの警察官の「論理」なのだろう。しかし彼らには、“占領”、とりわけ“封鎖”のなかで生きる住民の苦難と怒りにはまったく想像も及ばない。ましてやパレスチナ人から奪った土地に自分たちの国が存在しているという歴史の事実など論外である。彼らの頭をいっぱいにしているのは「自国民の被害」だけなのだ。
午前10時過ぎ、ラマラへ向かった。いつも満席になるはずの小型バスは私を含めて3人ほどしかいない。金曜日だからだろうか。それともこの緊急事態だからか。カランディア検問所のバス停には、国境警備兵たちが待機している。以前にここでこんな光景を目にしたことはない。パレスチナ人の人影も少なく、検問所は閑散としている。
東エルサレムからラマラへ直行する18番バスの終点は、以前のバス停と違った場所に移動し、かつてのバス停跡には新しく巨大なモスクがそびえ建っていた。その巨大な新モスクは、かつてキリスト教徒が大半を占めたラマラの街に、確実にイスラムの勢力が浸透し増大していることを象徴しているように思える。
ラマラの街の中心地点、ライオン像のあるロータリーでは、パレスチナ警察が三々五々、警備についている。礼拝の後のデモに備えているのだろう。街の男たちにデモはどこから始まるのかと尋ねると、ある者はモスクからだと言い、ある者はパレスチナ自治政府のある「ムカタ」からだと答える。結局、それはどちらも正しかった。つまり自治政府のアッバッス議長の支持者たちは「ムカタ」から、そしてハマス支持者たちとPFLPや共産党支持者ら左派はモスクから出発するということだったのだ。
礼拝の直前、私は先の新モスクの中に入った。「礼拝を撮影してもいいですか」と入り口の責任者らしい男性に訊くと大丈夫だという答えが返ってきた。私はモスクの隅に座り、目立たないようにカメラを下に構えた。と、私の横に座った中年男性が流暢な英語で話しかけてきた。アメリカのニューヨークで30年暮したが、家族と暮らすために2年前にラマラの故郷に戻ったという。住民には金がなく購買力がないため、ここでの商売は月に200から300ドル程度の収入にしかならないとその男性は嘆いた。それでも家族の事情でここで暮すことにしたというのだ。ガザの情勢をどう感じているのかと問うと、男性はこう答えた。
「同じパレスチナ人としてとても辛いし、なんとか支援しなければと思っているよ。ここに来ている人たち、そして多くの西岸の住民はハマスを支持している。しかしそれを公に言うはできないんだ。それを口にしたら自治政府から弾圧されるからだよ。ハマスを支持するなんて言ったら、すぐに逮捕されてしまうよ」
ほんとうに西岸の多くの住民がハマス支持なのか、そしてハマス支持者への弾圧がそれほど厳しいものなのか、私自身が取材してみないとこの男性の言葉の真偽は判断できず、そのまま鵜呑みするわけにはいかないが、そういう声があることはわかった。
礼拝時間が近づくと、広大なモスクの礼拝場は男たちで埋まった。1メートルほどの間隔をおいて男たちの列が隅から隅まで連なる。モスクの階段にも礼拝者が並び、入り切れない男たちはモスクの外の地面に並んで礼拝している。
私は礼拝する男たちをカメラに収め、さらにイマム(イスラム聖職者)の祈り前の説教を録音した。イマムがガザ情勢にしてどう礼拝者たちに伝えるのかを知ることができれば、それは西岸の世論の動きを知る手がかりになると思ったからだ。アラビア語をほとんど理解できない私でも、ガザで700人を超える死者、3000人ほどの負傷者が出ている現状について言及していることはわかった。
礼拝が終ると、モスクを出た礼拝者たちがデモ行進に移った。そのデモを先導する車の前に何枚ものアラファトのポスターが飾られている。ハマス支持者が大半のはずなのに、なぜ暗殺されたハマスの精神的指導者「アハマド・ヤシン」ではなく「アラファト」なのか。もしヤシンのポスターを前面に掲げたら、警察当局の弾圧の対象になってしまうからかもしれない。アラファトのポスターなら“パレスチナの象徴”としてハマス側も容認できるのだろう。「なぜアラファトなのか」ではなく、「なぜアッバス議長ではないのか」にこそ注目しその意味を読み取るべきなのだ。
私はラマラの中心地のライオン像前に急いだ。このロータリーには5本の道路が集結している。つまりそこは「ムカタ」からやってくるアッバス支持派のデモ参加者と、モスクからやってくるデモ参加者が交差する地点となる。私はライオン像の台までよじ登り、やってくる両方のデモの群集を俯瞰できる場所に立った。先に到着したアッバス支持派デモの群集は、モスク側からのデモ群衆がやってくる道路に方向を変えた。つまりやってくるモスク側デモと対峙するかたちになった。衝突するのかと懸念したが、やがて「ムカタ」側は方向転換して引き返し、モスク側の前を先導するかたちでライオン像前に向かってきた。そこには私を含めたくさんの外国人ジャーナリストたちがカメラで待ち構えている。デモのグループはその前で気勢を上げることで自分たちのグループの存在と主張を顕示しようとする。
アッバス支持派の群集が過ぎ去ったあとから、医療NGOの代表で4年前の大統領選挙の候補となった左派のムスタファ・バルグーティが肩車されてやってきた。スローガンを叫び周囲の左派支持者たちが唱和する。次はハマス支持者だが、ライオン像前に到着する前に前進できなくなり、やがてそのデモ群集の最前線で小競り合いが起こった。1人の男が何人もの男たちに追われ袋叩きにされている。ハマス支持者とアッバス支持者との衝突らしい。そんな小競り合いがあちこちで散発した。意識を失った男が他の男の肩に担がれて運ばれていく。頭から血を流している男もいる。ハマス支持者たちのグループ近くで催涙ガスが投げ込まれたようだ。群集が走り去り、その後を自治政府の警官たちが追ってきた。
ロータリー前ではアッバス支持派たちがスローガンを唱和し、そこから少し離れて、バルグーティたちのグループが気勢を上げる。さらに遠く離れてハマス支持者たちもスローガンを大声で叫んでいる。3者がメディアの前で「我われこそがこの抗議デモを主導しているんだ」とばかり、自己の存在をアピールしようとする。まさにこれがヨルダン川西岸のパレスチナ人の縮図なのかもしれない。ガザの同胞たちが日々殺されている緊急事態のなかでも、彼らは一致団結できず、分裂し互いに争っている。
小競り合い続き、アッバス支持派の青年たちがパレスチナの旗をつけていたプラスティック棒を抜き取り振り回して、対立するグループの男たちを追いかけ回っている。棒を手に息巻くその青年たちの姿はまるで暴力団のチンピラ風だ。そこには第1次インティファーダ時代、占領の終結を目指して、イスラエル軍の銃に向かって一団となって投石し抵抗していたパレスチナ人青年たちのあの凛々しさはどこにもない。ただ日ごろのうっぷんを、棒を振り回し粋がることで晴らそうとする暴徒のように私には見える。
デモの群集のなかに、偶然イスラエルの『ハアレツ』紙記者アミラ・ハスの姿をみつけた。私は高台から飛び降り彼女の元へ駆け寄った。アミラは周囲を見渡し、「ほんとうに愚かだわ!」と怒っている。こんな緊急時にパレスチナ人同士で争っている現場を目の当たりにして、彼女は失望し怒っているのだ。「アミラ、あなたの記事はずっと読んでいるよ。素晴らしい記事に感動しているよ。日本ではあなたの記事を日本語に翻訳してネットで流している人もいるよ」と告げると、彼女は笑顔を見せた。「あれは全部、ガザに電話取材して書いた記事よ。3週間ほどガザにいたんだけど、ハマスに追い出されたの。ハマスはほんとに愚かなことをしたと思うわ。追い出さなければこの緊急事態に私が内部から報道したのに」とアミラは言った。
空爆が始まる1ヵ月ほど前、内外のジャーナリストがガザ入りを禁じられた後、アミラはガザ支援団体の船でガザ入りした。その後、ガザ内部から、喫茶店業界でハマス関係者が経営を独占している現状を記事にしたためだろうか、アミラはハマスの反発を買い、ガザ地区退去命令を受け、しぶしぶガザから出た。空爆が起こったのはその直後だった。
私は空爆が始まって以来、日本で『ハアレツ』英語版のサイトのガザ攻撃の関連記事を追っていた。その記事の中で突出していたのがアミラの記事だった。しかも矢継ぎ早に記事が掲載される。長くガザで暮らし多くの友人、知人を持つアミラをこの緊急事態に書かずにはいられなかったのだろう。彼女の記事が他の数ある記事と違うのは、彼女の記事は、現地住民の被害の状況が手に取るように等身大で、しかも固有名詞で克明に記述されていることだ。私はてっきり、またアミラがガザに舞い戻り、現地から書き送っているものとばかり思っていた。しかしあれは、すべてラマラからの電話取材だったのだ。被害の状況を伝えるだけではない。彼女に救助を求めるガザの家族のためにイスラエルの医療NGOを動かし、イスラエル当局を動かし、重傷を負いながら治療も受けられないでいる家族のために奔走している。それをまた記事にして、その実情をイスラエル国民と世界に向けて発信する。
「私のジャーナリストとしての原動力は“怒り”よ」と以前、アミラが私に語ったことがある。10年近くガザに住み着き、ラマラに移ってからもしばしばガザの取材を続けるなかでできた多くの人間関係をアミラは今フル回転させて記事を書きまくっている。その記事がこれほど説得力を持つのは、彼女の電話での聞き取り取材の能力が突出しているからだけではない。これまで15年に渡ってアミラが築いてきた現地住民との人間関係、信頼関係を生かして、臨場感あふれる記事を次々と発信し続けている。凄いジャーナリストである。アミラの記事を読むたびに感動し、こういう記事が書ければ、これに匹敵する映像取材のできるジャーナリストになれればと心底思う。
「あとで電話して!」と言い残して、アミラはまたデモの群集の中に消えた。
→ 次の記事へ
ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。