2009年1月23日(金)
日本のメディアが最初にガザ入りしたのは1月19日だった。しかしそれは私たちが待機していたイスラエル側のエレズ検問所からではなく、エジプト側からラファの国境を通って入ったのだ。「えっ、エジプト側から?」。私のように長くイスラエル側からガザ入りするために待機していたジャーナリストたちは驚き、衝撃を受けた。NHKや全国紙3社、それに共同通信の記者たちが続々とガザ入りし、すでに映像や記事を送っているという報に、正直、地団駄を踏んだ。私は2週間だが、エレズ検問所から1日も早くガザ入りしようともっと長く待機していた各国のジャーナリストたちは少なくなかったはずだ。彼らは私とは違って、大半が1分1秒でも早く現場から報道することを使命とするテレビ局、新聞社、通信社のジャーナリストたちだろうから、その悔しさは私の比ではないだろう。
私はイスラエル政府のプレス・オフィスに駆け込んで、「エジプト側のラファが開いたのに、どうしてエレズ検問所は開けないんだ!」と訴えた。するとプレスカードの発行を担当するスタッフがむっとした表情で、言い放った。「それなら、エジプト側からラファへ行ったらどうだ?」。
その直後、再びエジプト側のラファ国境が閉鎖された。イスラエル側からの要請があったからと報道された。しかしその2日後の21日夜、再びラファが開いた。出遅れていた民放各社の特派員たちが一斉にガザ入りした。一方、イスラエル側のエレズ検問所は、外国人ジャーナリスト協会に所属している各国の特派員たちにわずかずつ通過の許可が下りていると情報が入った。毎日新聞、共同通信のエルサレム特派員たちが次々とガザ入りした。遅れて登録した、しかも私たちフリーランスのジャーナリストに、いつ通過許可が下りるかはわからない。「このままでは、いつガザ入りできるかわからない。もうエジプトへ飛んでラファからガザ入りする方が早いのでは」との、ある友人のジャーナリストからの助言もあり、私と、1週間前からエルサレム入りしている古居みずえさん(同じくフリーランスのジャーナリスト)は、エジプトへ飛ぶ決心をした。まずどういう手続きが必要なのか、カイロの日本大使館の担当者に古居さんが電話し、必要な書類を訊いた。これからカイロまでの航空券の手配に出かけようとしていたときだった。先の友人から「明日、エレズが開くそうですよ」という電話が入った。間一髪だった。もう1時間も遅れていたら、片道2、300ドルはかかるだろうチケット代を無駄にするところだった。エジプトへ飛び、日本大使館で書類をもらい、さらにエジプトの情報省から許可をもらい、シナイ半島を陸路で越えてラファにたどり着くまでの時間と費用を考えると気が重かったから、車で1時間半ほどしかかからないエレズ検問所からガザ入りできるという知らせに、私は思わず「やった!」と叫んだ。
待機していたジャーナリストたちが一斉にエレズに押し寄せるに違いないだろうから、検問所が開く午前8時前に着いていないと、順番待ちでずっと待たされることになりかねない。私と古居さんは、この日の午前6時にはタクシーでエルサレムを出る手配をした。私が前回ガザへ入った2007年10月には片道200シェーケル(約5000円)だったタクシー代は、ガザ攻撃前ごろには300シェーケル(約7500円)になり、「休戦」後は350シェーケルに跳ね上がった。
エレズに到着したのは午前7時半ごろだったが、すでにジャーナリストたち2、30人が列を作っていた。まず検問所の建物のある敷地内に入るゲート前でプレスカードとパスポートのチェックを受け、建物の中では、空港で海外へ出るときの審査以上に、パスポートとプレスカードの厳しいチェックを受ける。1人ブースで若い女性兵士と防弾ガラス越しに向かいあい尋問を受けるときは、いつものことだが、やはり緊張する。無事審査が終り、パスポートとプレスカードを返却しながら女性兵士が「Have a nice trip!(よい旅を)」と言った。「やった! ガザに入ったぞ!」と私は心の中で叫んだ。時計を見ると午前8時40分だった。
エレズからガザ市内への幹線道路や街中を走るタクシーから眺める限り、前回訪れた13ヵ月前の光景と大差はないように見えた。私はガザ市郊外にある難民キャンプの知人の家に荷物を降ろすと、コーディネーター兼通訳のアブ・モハマドと共にガザ地区北部へ向かった。今回の侵攻で最も被害の大きかった地域だ。
私たちを車で案内したサラハ・エルゴール(43)は、イスラエルとの境界から700メートルほどのところで酪農と農業を営み、さらに副業としてガザ市内で輸入品を取り扱うビジネスやレンターカー業の仕事もしていた。サラハはガザ市の北部にある建設中の高層ビルの前に車を止めた。このビルの1階にサラハは自身のビジネスのオフィスを置いていた。そのオフィスのあった1、2階は戦車の砲撃によるものか、破壊され壁が黒くずんでいる。裏手に回ったとき、その被害の甚大さを思い知らさせた。15階ほどの高層ビルの海側の面が、最上階まで爆撃で半壊しているのだ。同行したパレスチナ人権センター(PCHR)のスタッフによれば、イスラエル軍はまず空爆でこのビルを半壊させ、中にいた住民を殺害し、また生存者をこの建物から追い出した。その後イスラエル軍は、周辺の視界が効くこの高層ビルを占拠し、階上から標的を砲撃や狙撃するための基地として使用したというのだ。
車はベイトラヒヤ町を通り、さらに北部へ向かった。北上するに従って破壊の凄まじさが、いっそう明らかになっていく。道路は戦車の通過によって穴だらけになり、沿道の家屋はまるで台風か大地震の跡のようになぎ倒されている。住民が瓦礫の中から生活用品を探し出し、瓦礫の後片付けにかかっていた。破壊され、いまや壁の1面しか残っていない「家」の中で、呆然となって座り込む老婆の姿が車窓から見えた。畑だった場所は、戦車の轍が生々しく残っている。もちろん野菜やオリーブの木々はなぎ倒され、土の中に埋もれていた。でこぼこになった道を進む車は、何度も足止めされた。寸断された水道や電線を修復するために、周辺の住民が道の両側を掘り起こしているからだ。
サラハの家に近づくと、イスラエル側の街、アシュケロンの火力発電所の煙突が真近に見えた。ここは、国境から700メートルしかないのだ。立派な門もなぎ倒されていた。その門前から見渡すかつて家のあった場所は文字通り廃墟だった。家のあった場所まで続く回廊から想像するに、おそらく立派な家だったに違いない。瓦礫の中に大きな穴が見えた。F16から落とされたミサイルが造った穴だった。直径数メートルはあろうか、その穴の大きさと周辺の瓦礫の山から、それが凄まじい破壊力を持った大型の爆弾だったことが推測できる。
この家はガザ地区で最もイスラエル側に近い家だという。イスラエル側の監視塔からいつも望遠カメラなどで監視されていて、家族の一挙手一投足を軍は把握していたはずだとサラハは言う。だからここに武装勢力がいなかったことは軍にはわかっていたはずなのだ。この村のムフタール(村長)は、いつも国境のイスラエル軍と電話連絡を取り合っていて、ガザ攻撃が始まったのち、軍の責任者が「この地区は破壊されない。だからこの地区には誰も入れないようにし、問題を起さず、平穏にしているように」とムフタールに告げていた。なのに、なぜこの家がミサイル攻撃されたのかサラハはわからない。国境近くからパレスチナ人住民を追い払うためだったのだろうとPCHRのスタッフは言う。
侵攻が始まった1月3日午後4時ごろ、家の中には17歳の次男と従兄弟がいた。サラハ自身は10メートルほど離れた牛舎で乳牛に餌をやっていた。そのとき突然、この家がミサイル攻撃されたのだ。長男の話では、この家が破壊される瞬間の上空からの映像がイスラエルのテレビで放映され、それを親戚の者が見たと伝えてきたという。その映像には、外で牛の世話をしていたサラハが家の破壊と息子たち死に泣き叫び、走って逃げる姿まで映しだされていたという。
瓦礫の上を歩いていると、死臭がした。サラハが指さす方を見ると、家屋から10メートルほど離れた牛舎に白黒まだらの乳牛が倒れているのが目に入った。近づくと5頭の乳牛だった。強烈な死臭を放っている。死後2週間が経ち、すでに体内は腐乱し膨張している。臀部のあたりはすでに空洞になっている。また近くに1頭のラクダの死体も見えた。これは腐乱してもう元の形をなしていない。
牛舎の一角に搾乳するための器械が数台並んでいたが、全部壊され、搾った牛乳を溜める大きなビンも割れている。もう使いものにならないだろう。
サラハは次男と共に、自動車販売店も、酪農の家畜の一部も、そして住居も失ってしまった。彼や息子たちがハマスの武装勢力だったわけではない。ただ国境に最も近いガザ地区内に住んでいただけのために攻撃されたのだ。
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