2009年2月2日(月)
ガザ市の東部、イスラエルとの境界から1キロ足らずの村アベドラボの入り口で車を降りた。村の通りを境界に向けて東に進むと、沿道に破壊された家々が続いた。さらに歩くと、両側の数階建ての家屋がペシャンコになり、辺り一面が廃虚となっていた。昨年中国で起こった大地震の跡に似ていた。
幼い娘2人を目の前で射殺され、もう1人の娘と母親も銃撃され重傷を負わされたハーレド・アベドラボ(30歳)の一家の家屋はその奥にあった。ハーレドの家もまたマッチ箱を押しつぶしたように完全に破壊されている。
事件が起きたのは、イスラエル軍の地上侵攻から4日目の1月7日、午後1時ごろだった。この村はその前夜から戦闘機による爆撃と戦車による砲撃を受け、多くの家々が破壊されていた。ハーレドの家も破壊されたが、外に出るのはもっと危険だったため、崩れた家の階段の下に避難していた。
やがてイスラエル軍が村の中に侵攻してきて、残っている住民にマイクで外に避難するように告げた。ハーレドの家でも母親と7歳、4歳、2歳の娘が白旗を掲げて外に出た。その後に起こったことを父親のハーレドはこう証言した。
イスラエル軍の戦車が私の家の前に止まっていました。家から10メートルから20メートルほど離れたところでした。午後1時ごろでした。マイクで家を出てくるようにと告げられたので、私たちは家を出ることにしました。白旗を掲げ、娘たちと母、その後ろから私と妻が続いて外に出ました。日中だったから娘たちの姿や白旗ははっきり見えていたはずです。
2人の兵士が戦車から出て、チョコレートのようなものを食べていました。5分後、もう1人の兵士が戦車から降りてきました。そしてその兵士が突然、私たちに向けて撃ち始めたんです。3人の娘と母が撃たれました。4人は身長も年齢もそれぞれ違っていたのですが、4人全員が真っ直ぐに胸を撃たれていました。7歳のサアドは12発撃たれ、2歳のアマルは5発、4歳の娘は3発撃たれました。母も3発撃たれました。
2歳の娘の傷口から内臓が飛び出していた。ハーレドと妻は泣き叫びながら、娘たちを引きずって家の中に入れた。さらにハーレドは母親を引きずって家に運びこんだ。まだ生存していた4歳の娘が「助けて!」と泣き、水がほしいと父親に訴えた。しかしその水もなく、与えることができなかった。
ハーレドは耐えられなくて、娘を抱えて外に出て、戦車の上にいる兵士に「この子を救うことを許可してほしい。病院に連れていくことを許可してほしい」と嘆願した。戦車の上にいた兵士は応えなかった。10分後、兵士はハーレドに「家の中に戻れ!」と命じた。
「私たちは救助を求めて泣き叫びました。救急車を求めて2時間も泣きながらそこに留まっていたんです」とハーレドは言う。
救急車はやって来ましたが、イスラエル兵たちは立ち去るように命じ、救急車を攻撃しました。
その後のことをハーレドの妻カウタル(29歳)は、こう語った。
2歳の娘は出血していました。結局、救急車は来ず、娘は息を引き取りました。近所の老女たちが泣き叫びながら兵士たちに「救急車が来るのを許可してほしい」と嘆願しました。「世界のどこでも、救急車は自由にやって来て、負傷者はきちんと治療を受けられるのに」と。しかし兵士たちは何も応えませんでした。私たちは携帯電話で救助を求めるテキスト・メッセージも送ってみましたが、誰からも返事はありませんでした。
ラジオのニュースで「3時間の休戦」を知りました。そのとき私たちは階段の下に隠れていたのですが、休戦時間が始まると、外に出ることにしました。私と夫が娘を1人ずつ運び、夫の兄弟がもう1人を運びました。負傷した娘を救うために歩きました。近所に住む私の親戚が私たちを見つけて、負傷者した義母を運んでくれました。長いこと歩きましたが、まったく救急車は現われませんでした。私たちが歩いているとき、娘の内臓が飛び出してきました。
そこで事は終らなかった。以下はハーレドの証言である。
2キロほど歩きました。私たちが幹線道路に出るとイスラエル兵たちがいました。兵士たちは、私たちが先へ進むことを望まず、私たちに向けて銃を撃ってきました。足元や頭上に向けて撃ってきたんです。ゾンモ広場に来ると、馬車に乗った男性に出会いました。彼は私たちを助けようとしました。すると、イスラエル兵はその男性と馬を撃ち殺したんです。
私たちは歩き続けました。途中、助けてくれる人がいて、負傷した娘と死んだ娘たちを病院に運んでくれました。私たちは疲れ果て、道路に座り込んでしまいました。30分後、負傷した娘を追ってカマルアドワン病院へ行きました。病院で2人の娘の死が宣告されました。もう1人の娘と母も重傷でした。
カウタルが訴えた。
娘たちは、撃たれなければならないようなどんな悪いことをしたと言うんですか。重傷を負った4歳の娘は、病院で泣きながら「兵士はなぜ私を撃ったの? 私が何をしたの?」と言い続けていました。
あれ以来、娘は車に乗ることさえ怖がり、嫌がるようになりました。病院ではずっと悪夢にうなされていました。そして、目が覚めると泣きます。イスラエル兵がやってきてまた撃たれるのではと怖がっているのです。とくに暗くなるとそうです。
九死に一生を得た4歳の娘は、現在ベルギーで治療を受けているが、全身麻痺状態である。その娘に父親は付き添えなかった。家が破壊されたとき、ハーレドは身分証明書のすべてを失ったからだ。そのためパスポートを持っていたハーレドの兄弟が娘の治療に付き添っている。
カウタルが言葉を継いだ。
最も辛かったのは自分の娘が目の前で死んでいくのに、何もできなかったことです。瀕死の娘が「助けて! 救急車を呼んで!」と嘆願しているのに、です。
今は、夜になってもなかなか眠れません。ときどき頭痛がして眠ることができないんです。眠るために薬を飲んでいます。死んだ娘の友だちを見かけると、娘を思い出して泣いてしまいます。その子らは娘の従姉妹たちです。
「なぜあなたの家が狙われたのか?」と訊くと、ハーレドは「どうして私の娘たちを撃ったのかは、イスラエル軍に訊いてほしい」と答えた。
破壊されたこの地区はイスラエルとの境界からほんの1キロのところで、ここからはロケット弾など発射されてはいません。ここには抵抗勢力はいないのです。イスラエルはハマスを攻撃していると言うけれど、攻撃されたのは民間人の家屋や子どもたちだったのです。
ハーレドは破壊された家の瓦礫の上に置かれた人形をとり上げて私に見せた。クビがなかった。
殺された2歳の娘はこの人形を抱えていました。この人形も娘と共に処刑されたんです。
そしてこう付け加えた。
今でもここに建っていた家や、娘たちが元気に遊んでいる姿が目に浮かびます。自分がそのすべてを失ったことがまだ信じられないんです。
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