2009年2月20日(金) アムステルダム空港にて
深夜12時半、空港に向かった。いつもなら、50シェーケル(約750円)で済む乗り合いタクシーを使うところだが、今回は、深夜、人通りのない危険な通りをカメラなど取材道具一切、今回撮影した50本近いテープなど所持品全てを抱えて独り200メートルほど先の待合場所まで歩き、タクシーを待つ危険を冒す気にはなれなかった。この撮影テープを盗まれたら、この1ヵ月半の仕事は全て無駄になってしまう。しかも貴重な証言の数々が詰まったこのテープはもう再撮は不可能だし、金銭で補償できないものだ。いつもなら絶対に使わない、5倍の料金がかかる個人タクシーを使って空港へ向かったのはそういう恐怖心のためだった。
今回の滞在中、この撮影テープを没収されるのではないかと戦慄した一瞬があった。3週間のガザ取材を終え、エレズ検問所(ガザとイスラエルの境界)を通過するときだった。持ち物一切をいくつもの大型プラスティック箱に並べ、X線検査と係官による検査を受ける。カメラバックのポケットに入っていた小さな裁縫用具をいぶかった係官が何度もX線検査のやり直しを命じた。ベルトコンベアに乗せられて検査室に入って行った私の手荷物の入った箱の多くは10分ほど経って検査室の出口から出てきた。しかし、いくら待っても、撮影テープの入ったバッグが出てこないのだ。私は全身から血が引くような戦慄を覚えた。イスラエル政府のプレスオフィスが発行したプレスカードを所持し、正式なルートでガザ地区に入った。そして3週間、“合法的に”取材・撮影したテープだ。たとえ信じがたいようなイスラエル軍による虐殺の証言やハマスの武装組織の司令官やハマス幹部へのインタビューなどイスラエル側に都合の悪い情報があるからといって没収する理由にはならないはずだ。それがジャーナリストの仕事なのだから。しかし今回のガザ攻撃の場合、それもありうるかもと、待つ時間が長引くにつれ、その不安は私の中でどんどん大きくなった。
ただ1つだけ救いがあった。今回の証言テープの主要部分は、コピーをとって、ある場所に託していたのだ。没収という最悪の場合は、そのテープを再コピーする手が残っている。そう気付いたとき、少し気が楽になった。30分ほど経ったろうか。検査室の外から警備員が声をかけた。出て来いというのだ。いちばん大事な撮影テープが出て来るまではここを離れないと私が言うと、その係官は、検査室の外の机の方を指さした。そこには私のカバンが置かれていた。私は残りの荷物を抱えてあわてて外に出た。撮影テープの入った箱が開けられてはいたが、テープは1本も没収されることなく、そこにあった。私は「やった!」と心の中で叫んだ。
私がこれまで以上に、撮影テープの盗難や紛失に神経質になっていたのは、そういう体験があったからだった。
無事タクシーに乗ったものの、空港に近づくにつれ、私の気持ちはどんどん重くなった。最後の関門、空港での検査が間近に迫っていたからだ。尋問する係官に「ガザで3週間取材していた」と告げれば、取材ノートなど持ち物一切が細部にわかって検査されるに違いない。2002年春のジェニン取材のときがそうだった。当時、「軍管理地区」に指定されていたジェニンの取材をしたと告げたとたん、電子手帳の住所録はもちろんのこと、財布の中の紙切れ1枚まで調べられた苦い体験があった。そのための心の準備をしておかなければ、こちらが平常心を失い、感情的に怒りを爆発させ、彼らをますます挑発し、嫌がらせの調査は延々と続くことになる。へたをすれば取材ノートも撮影テープも、没収されかねない。「こう質問されたら、こう答える」と、自分の中で何度も復唱し、尋問する係官の前に立った。パスポート、Eチケットの書類、それにプレスカード、プロダクションからのアサイメントレターのコピーを私は係官に手渡した。そのレターには私がドキュメンタリー制作のためにイスラエル入りすることが明記されていた。「どんなドキュメンタリーを作るんですか」と男性の係官は私に訊いた。「ガザです」。私は率直に答えた。コンピューターで調べればすぐにわかることだから、へたに隠すとかえって疑われると腹をくくった。「ほほー、ガザですか。おもしろそうですね」。係官は別に驚く様子もなかった。今回のガザ攻撃取材のために世界中から数多くのジャーナリストがイスラエル入りし、この空港から出国していったろうから、別に「ジャーナリストがガザで取材した」ことは驚くことでもないのだろう。彼はそれ以上、ガザ取材について質問はしなかった。後はいつものように「持ち物は全部自分のものですか?」「どこで荷造りしましたか?」「誰かから贈り物や届け物を受け取りましたか?」といったマニュアル通りの質問をすると、尋問は終った。チェックインするスーツケースを特殊なX線検査の機械のベルトコンベアに乗せた。少し時間はかかったが、私のスーツケースはその機械から勢いよく飛び出してきた。それで検査は終った。「ガザでの宿泊先は?」「ガザではどういう人物と接触したのか?」といった微妙な質問への答えをあらかじめ準備し頭の中で何度も練習していた私は、「えっ? これで終わりなの?」と一瞬、気が抜けたが、次の瞬間、「やった! これで取材結果を全て持ち出せる」と狂喜した。帰国の日が近づくに従って私の胸の中に重く沈殿していた不安が一瞬にして吹き飛んだ。「やった! やった!」と私は心の中で叫んでいた。
この国に足を踏み入れてからこの空港検査を終えるまで、私はずっと心の中に、見えない牢獄の中で絶えず監視されているような閉塞感、重圧感を抱えている。それは何が原因なのか、自分でもうまく言えない。ただイメージとして浮かぶのは、バスセンターでの荷物検査と尋問現場であり、エレズ検問所での屈辱的な検査であり、そして犯罪人を尋問するかのような傲慢な検査官たちの口調だ。そしてこの国を出た飛行機が、日本への乗り継ぎ空港(今、そのアムステルダム空港でこのコラムを書いているのだが)に降り立った途端、刑務所から娑婆に戻ったような(私自身はその体験はないので、想像なのだが)、解放感を感じる。あのような重圧感のない“普通の国”にやっと戻ってきたという解放感だ。やはりイスラエルという国は、特殊な国だ。あの国に生まれ、育ち、兵役を体験する若者たちが、除隊後、一斉に世界へ旅立っていく理由がわかるような気がする。ずっとあの国にいると、息がつまりそうになるにちがいない。“セキュリティー”のためにいつも神経をピリピリさせ、被害妄想とも思える恐怖心にいつも苛立っている国民。それとは別世界にいる私たち外国人は、すでにそれが空気の一部、身体の一部になっているイスラエル国民以上に敏感にこの国の“異様さ”に気付かされる。パレスチナ人から故郷を奪い、占領し、力で抵抗を抑え込むことに成功しているように見えるこの国は、はっきりと目に見えないところで、間違いなく病んでいる。そして症状は年月を重ねるごとに深刻になっているように思える。ガザへ侵攻した兵士たちの残虐性、それを直視できず、“セキュリティー”のためと94%のユダヤ系市民がこのガザ攻撃を支持する実態を目の当たりにするとき、その思いは私の中で確信になっていく。
「この国は外部からの力によってではなく、内部から崩壊していく」。私のドキュメンタリー映画の中で「沈黙を破る」代表のユダ・シャウルが語る言葉が現実味をおびた言葉として私の中に蘇ってきた。
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