2009年7月16日(木)
このインタビューは、雑誌『シネ・フロント』368号(2009年5・6月号)に掲載されたものです。
(質問)この『沈黙を破る』は、パレスチナ問題を描いているというより、人間にとって戦争とは何か、軍隊とはどういうものか、さらには人間とどういうものかということを問いかける、とても普遍的で根源的な作品だったと思います。土井さんがどうしてパレスチナとこんなに深く関わるようになったのかということについては、映画のパンフレットに詳しく書かれていましたが、ほんとうはお医者さんになりたかったんだそうですね。
(土井)小学生のころ、シュバイツアーの本を読んで以来、ずっと医者になりたいと思っていました。でも、何回も挑戦したけれども医学部に行けなかった。大学に入ったものの、何のために勉強するのかわからなくなって、ほとんど勉強しなかったんです。このまま行くと自分は潰れると思いました。要するに、自分を賭けるものが欲しかったんです。それは日本では見つけられない。じゃあ、広い世界へ出て、いろいろ見ながら新しい夢を探そう。そう思いたったのが1976年の春のことです。そして1年かけて準備し、旅に出ました。行き先は、シュバイツアーの病院と墓があるアフリカの赤道直下ガボン(共和国)です。でも、さまざまなアクシデントに遭い、シュバイツアー病院にたどり着いたのは出発から7カ月後でした。「そこに立てば、何か新しい活路が見つかる」と思って行ったのですが、病院にたどり着いても、シュバイツアーの墓の前に立っても、新しい活路は見つからなかった。しかし、そこに立ったことで、それまでの夢と決別できたんだと思います。
その年の暮れにサハラ砂漠縦断の旅に出たとき、その同行者のなかに日本人の青年がいました。彼が「君はイスラエルを知ってる?」と訊いてきたんです。「イスラエルを知らずして、世界を知ったなんて思ってはいけないよ」と言って、彼は毎夜、満天の星を仰ぎながら、「理想郷・イスラエル」の話を語って聞かせてくれました。その後、北アフリを経由してパリにたどり着いたとき、偶然、イスラエル人の青年3人と出会ったんです。1カ月、アパートを借りて共同生活をするなかで、イスラエルという国の素晴らしさを語って聞かされました。イスラエルへ行きたい、という思いがいっそう掻き立てられ、1978年1月にイスラエルに飛び、ヨルダン渓谷にあるキブツ(集団農場)にボランティアとして入りました。そこでは、「生まれ変わるとしたらイスラエル人になって生まれたい」と思うほど、私は「親イスラエルの日本人」になっていました。
そんな私に転機がやってきたのは、6カ月のキブツ体験が終わるころです。オランダ人のボランティア仲間に誘われてガザに行ったんです。最初に訪ねたのは、ガザ市に隣接するビーチ難民キャンプでした。そこはゴミがあふれ、美しい緑に囲まれたキブツとは対極の世界でした。たちまちキャンプに暮らす青年たちに囲まれ、「どこから来た?」と尋ねられました。「日本人だけど、今はキブツに住んでいる」と答えると、「そこは元々、誰の土地か知ってるのか?」と訊いてきました。その問いかけが、まさに私の“パレスチナ問題”との出会いでした。青年たちからパレスチナ人の歴史を聞かされて、まるで鉄の棒で頭を殴られたような衝撃を受けたんです。
もっとパレスチナ人のことを知りたいと思い、こんどは私一人でヨルダン川西岸にある難民キャンプを訪ねました。そこで、自分たちは貧しくても、持っている最高のものを差し出して客人をもてなすパレスチナの人びとの“豊かな文化”に触れました。難民という苦境にあっても心の豊かさを失わない“人間・パレスチナ人”に出会い、心底、この人たちのことを勉強したいと思いました。
医者という、子どものころからの夢が断たれ、何に自分の人生を賭けていくのかわからず苦しんでいるときに、パレスチナの人々と出会ったわけです。私はベトナム戦争世代だけれど、ノンポリで、まったく政治意識もなく、まっさらだったから、インパクトも大きかった。そんな私が情熱を傾けられるものに出会った。私の場合は、そういうたくさんの“人との出会い”からパレスチナにたどり着いたんです。
“パレスチナ”との出会いの仕方って、いろいろあるんです。たとえば、イデオロギーから入って行った人もいます。つまり解放闘争──帝国主義に対する闘いと位置づけてパレスチナ問題に入って行った人たちです。私の前の世代にそういう人が多いですね。ところが私は、現場と人から入っている。それが、私の特徴になっていると思います。
(質問)今回の作品を見ていても、パレスチナの人々の土井さんに対する信頼感といったものが伝わってきます。それは今おっしゃった、土井さんのパレスチナの人々との関わり方から生まれているものなんでしょうね。それにしても、これまでイスラエル軍による攻撃で無惨に人々が死んでいく、まさにその場に何度も居合わせたと思うのですが、ここから逃げ出したいと思ったことはなかったですか。
(土井)なぜ関わり続けるのかというと、繰り返しになるかもしれませんが、自分が求めていたときに自分が感動するものと出会ったからです。ものすごい人たちと出会い、その人たちに惹かれる、自分の生き方を問われる──この20数年は、その連続だったんですね。私にとっては“パレスチナ”だったけど、他の人にとっては“アフガニスタン”だったかもしれない。“南アフリカ”だったかもしれない。“水俣”かもしれない。私は、自分がいちばん求めていたときに、たまたま出会ったのが“パレスチナ” だった。しかも、人と出会ってしまった。その人たちに感動し、自分の生き方を問われた。つまりパレスチナ人の“磁力”に引きつけられるようにして通い続けたのです。それは今もなお、続いています。
(土井)映画のパンフレットにも書いたことですが、1年半の放浪の旅から戻り、大学でパレスチナのことを学ぼうとしました。しかし、教えてくれる先生がいなかった。それで、現地から新聞や研究誌を取り寄せたり、広河隆一さんらの本を読みあさり、独学で勉強していったんです。
大学生活が終わるころ、たまたま本多勝一さんの『戦場の村』というルポルタージュを読みました。ルポルタージュというのは、これほど人に衝撃を与え感動させるものだと初めて思い知り、「こんなルポルタージュを一生に一度でいいから書いてみたい」と思った。それが私のジャーナリストの道へ踏みだすきっかけです。じゃあ、そのための現場はどこかと言えば、いちばん心を揺り動かされた“占領下のパレスチナ”だと思って、ジャーナリストの立場で関わり始めたんです。関われば関わるほど、彼らの、人間としての生き方に教えられるわけです。考えさせられるわけです。あんなに大変な状況の中で、あれほど貧しい人たちが、なぜこんなに人間としての“豊かさ”を持っているのだろうと。日本には「モノの豊かさ」は実感できても、心の豊かさを実感できる場は多くはない。生きることの意味を突きつけられる機会も少ない。ああいう究極の状態にあればあるほど、人間はそのことを問われる。生きることの意味を突きつけられる。それが、私が“パレスチナ”に引きつけられる、“パレスチナ”のことにずっと関わっている理由です。
(質問)映画の最初のほうに、イスラエル軍の攻撃で3人の青年たちが殺されるところが出てきますが、その大量の血の生々しさ、家族の死を知り失神してしまうほど泣き叫ぶ遺族たちの姿があまりにも強烈で、つい「監督はこの場から逃げ出したいと思ったことはないのだろうか」と思ってしまったのですが、その一方で、パレスチナの人々の穏やかさというようなものが映画から伝わってきます。あんなに厳しい状況下にあるのに、どうしてああいうふうに穏やかにいることができるのか、不思議です。
(土井)パレスチナについてよく驚きをもって言われるのは、失業率が50パーセント近くて、あれほど深刻な人権侵害が行なわれれば、他の地域や国だったら暴動が起きたり、犯罪が蔓延することは珍しくないはずです。ところがパレスチナの難民キャンプは、夜中に歩いても何も危険も感じない。それはなぜなのかと。
その理由として、私は3つ挙げることができると思います。ひとつは、“イスラム”という精神的なバックボーンを持っていることです。イスラム教は単に宗教ではなくて、生活そのもの、生き方の規範を教えてくれるものです。そういうバックボーンを彼らは持ってるんです。彼らは、自分の運命を支配する、すごい存在が自分の上にあると実感しています。
その“神の存在”を信じることが彼らを敬虔にし謙虚にしています。日本人の傲慢さと薄っぺらさは、彼らのような精神的なバックボーンを持っていないからだと思います。だからこそ、モノで満たそうとする。それは、精神的な貧しさの裏返しですよね。
もうひとつは、アラブ社会、パレスチナ社会の持っている、コミュニティーにおける強い人間関係です。隣人との関係、家族との強い絆といった、コミュニティーの濃い人間関係があることです。誰か悪いことをすると、それは自分だけの恥ではなく、家族や一族の恥、コミュニティーの恥だと彼らは考える。だからこそ、迂闊に罪を犯せない。そういう、社会の縛りのようなものがあります。
ジャバリア難民キャンプで、とても優秀な青年に出会いました。私は彼に言ったんです。「こんなところにいたら君の将来はないだろう。アメリカに留学して、ステップアップしていったらどうだ」と。すると彼は、「自分だけ幸せになることは許されない。私の幸せは家族や隣人たちの幸せの中にある」と言うんです。こういう発想は、今の日本人はないと思います。
僕は佐賀県の田舎に生まれ育ったから、それに似た濃い人間関係を経験をしています。何か悪いことをすると近所のおじさんに叱られる。人間として何をしてはいけないのかということを周りの大人たちが教えてくれる。そういう人間関係があった。ところが、高度成長のなかでそういうものを壊しながら、日本はモノの豊かさを得てきたわけですよね。その代償として、我われはコミュニティーを壊してきた。でもそれが、今もなおパレスチナにはあるんです。
もうひとつは、「イスラエルの占領に対する闘いは正義の闘いなんだ」という自信と誇りです。自分たちは正義の闘いをしているというプライドです。それが、彼らが人間として壊れない理由のひとつだと思います。
この3つのことが、彼らの人間性が崩れない主な要因だと私は考えています。それと対照的なのが欧米社会や日本の社会です。今の若者たちは、そのような精神的な拠り所をなかなか見つけられないでいる。私はこの映画を通してそのことも問いかけてみたかったんです。
『沈黙を破る』は、ドキュメンタリーシリーズ『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人々─』4部作の第4部なのですが、第1部の中で、「家族のためだったら命を投げ出してもいい」という言葉が、ある主人公の口からスッと出てきます。私など、とてもそんなことは言えない。そう言えるのは、なぜなんですか? 人間にとって幸せとは何なんですか? どう生きることが幸せなんですか? そういうことを、パレスチナの人たちの生き方、在り方を見て考えていくこと。我われがそんなパレスチナ人を“鏡”にして自分を映し出していくこと。私にとっての“パレスチナ”というのはそういう存在なんです。自身の生き方を問われている。価値観を問われている。だから“パレスチナ”は私にとって、人生の“学校”なんですよ。
(質問)最近、ケニアとフィリピンのストリートチルドレンを扱ったドキュメンタリーを2本見たのですが、そのいずれの国よりパレスチナのほうが、親(大人)たちの子どもたちへの愛情の深さ、人間同士の絆の強さというものを感じます。イスラエル軍の攻撃で殺されたり、家が破壊されたり、“隔離政策”とも言えるような不自由な生活を余儀なくされているのに、子どもたちが路上で働いている姿は映画には登場しません。イスラエル軍に包囲され、まったく外へ出られなくなった子どもたちが、「パレスチナ人とイスラエル人ごっこ」という、いわゆる「戦争ごっこ」のような遊びをしたりはしていますが。
(土井)精神的なバックボーンを持ってるかどうかですよね。先ほど言った3つの要素が重なり合って初めて、パレスチナ人は自分たちを支えられるんじゃないでしょうか。そのどれかが崩れてくると、あの社会も壊れてくる。今、実は壊れつつあります。私たちが1987年に始まった第1次インティファーダ(民衆蜂起)以前に出会ったパレスチナ人と違って、今のパレスチナ人は荒んできています。特に子どもたちや若者たちがそうです。それは、希望を失っていくからです。これまで何度も「和平」への夢が壊され、自分たちが何のために闘っているのか、わからなくなっている。どんどん追いやられて、先が何も見えない。そういうなかで、やはり人間が荒んでいくんですよね。それは見ていてよくわかります。ああいう状況下に長くいれば、どんなに精神的なバックボーンがあっても、やがては壊れてくる。そこをどういうふうにコミュニティーの中で支えていくのかが、彼らのこれからの課題だと思います。いちど壊れ始めたら、修復するのは難しいですからね。
(質問)昨年暮れから今年にかけて、イスラエル軍によるガザ攻撃があり、たくさんのパレスチナ人が犠牲となりました。その攻撃理由にされたのが、「ハマスによるイスラエルへのロケット攻撃」でした。その理由が正当だとは思いませんが、これまでパレスチナと言えばPLOの名前があがってきましたが、最近はハマスというグループの名前をよく聞きます。ハマスというのはいつごろから活動を開始したのでしょうか。
(土井)ハマスは、「イスラム抵抗運動」のアラビア語の頭文字をとった名前で、イスラム同胞団の闘争部隊として1987年に登場します。いわゆるマスコミ用語で「原理主義」と言われるイスラム運動というのは、エジプトが支配している時代からずっとありました。
イラエルの占領との闘いにおいては、これまでアラファト(1929〜2004)が率いるPLO(パレスチナ解放機構)が強い勢力を持っていました。そこでイスラエルはイスラム勢力を使って、このPLO勢力を抑えこもうとするわけです。実は、このハマスの源流であるイスラム同胞団というのは、イスラエルから支えられていたところもあるんです。ところが第1次インティファーダ(民衆蜂起)が起こったころから変わってきます。そこから戦闘的なハマスが生まれてくる。イスラムの抵抗運動という、今までと全く違う、占領との闘いを行なっていくわけです。結局、イスラエルにとっては、対PLO対策として支援してきた組織が、自分たちに刃向う組織に変わったわけです。4部作の第1部『ガザ』を見ていただくと、どういうふうに彼らが力をつけてきたかがよくわかります。
(質問)土井さんが2007年に出された『パレスチナはどうなるのか』(岩波ブックレト)でも、今後の動向をとても心配されていますね。
(土井)長年関わってきた私たちにも、先は見えてきません。NHK・ETV特集『ガザ・なぜ悲劇は繰り返されるのか』(2009年5月10日放映)でも報告したように、絶望的な状況ですよね。あの中で人びとがどうやって生きていくのか、とても心配です。
(質問)シネ・フロントではこれまで、キプール戦争を描いた『キプールの記憶』やイスラエル人の青年の徴兵拒否を描いた作品を撮ったアモス・ギタイ監督の作品を紹介したり、最近で言えば『シリアの花嫁』を取りあげてきました。イスラエル人でありながら、イスラエルの問題点を取りあげ描いている作家がいることに、問題の解決への希望を感じたりしています。今回の『沈黙を破る』は、まさにイスラエル軍兵士がパレスチナの人々に何をしているか、どんなに自分たちが残忍なことをしてきたかを、沈黙を破って告発する青年たちの姿を追っています。こうした彼らの活動が、今の状況を切り開いていくことに繋がっていくのではないかと思うのですが、長くパレスチナと関わってきた土井さんは、どんなふうに思いますか。
(土井)この映画に対して、ある在日パレスチナ人が反発しました。「あなたは、ああいう良いイスラエル人を描くことで、あたかもイスラエル人がこういう良い人ばかりというイメージを与えてしまった」と。これは、必ず出てくる反発です。「沈黙を破る」のメンバーたちを見て、イスラエルはやはり民主主義の国だという幻想を持たせてしまう危険性があるというのです。イスラエルが「自由で民主主義の国」なのは「ユダヤ系市民に対して」という限定付きです。
(土井)この前の米アカデミー賞で、アニメーション作品でありながら外国語映画部門にノミネートされたイスラエル作品『戦場のワルツ』が、日本で秋ぐらいから公開されます。この作品は、第1次レバノン侵攻(1982年夏)で罪悪感を持った元イスラエル兵士が自分の過去を探っていくという内容で、レバノンの虐殺の実写映像が最後に出てくるんです。あれを見ると、ああ、イスラエル人にもこういう良心的な人がいるんだ、と思う。この『戦場のワルツ』の上映会にイスラエル大使館の方が、私を招待してくれました。
(質問)パレスチナの人々への思いが強い土井さんを?
(土井)私も、えっ? と思ったんです、僕は在日イスラエル大使館のブラックリストに載ってると思ってましたから。なぜ私を招待したんだろうと不思議に思ったけど、私を招待した人は、「イスラエルは自国の負の部分もちゃんと直視しているんです」ということを私に示したかったんですね。映画『沈黙を破る』や「沈黙を破る」のメンバーの活動を、それと同じように見られると、ちょっとまずいなと思っています。
つまり、どこの国にだって良心的な人はいるわけですよ。でも、全体の中でどういう位置づけなのかということを見失うといけない。一部分だけを強調して、イスラエルはこのような平和主義者でリベラルな人がいっぱいいるというふうに見ると、誤解します。映画監督にしても、いわゆるリベラルな人はもちろんいます。でも、それをあまりにも強調しすぎると全体を見誤ってしまう。彼らのような人がイスラエルの中で、どのくらいのパーセントでいるか、それがどれだけ普遍性のある作品なのかということは、ちゃんと片方で見極めておかないと幻想を持つことになってしまう。
「沈黙を破る」のメンバーも、何十万というイスラエル軍兵士のうち、数十人に過ぎません。ただ、彼らがものすごく本質的なことを訴えてるから、映画で取り上げたんです。イスラエル軍の将兵だった彼らだからこそ見えてくるものがあります。彼らが提示してる問題は、すごく普遍的なテーマなんですよ。人間が壊れていくってことはどういうことなのか。良心を失っていくことはどういうことなのか。それを彼らは問いかけている。そのことを描きたかったわけです。
私は『沈黙を破る』(岩波書店)という同名の本も出しているのですが、その最後の章で、旧日本軍兵士とイスラエル軍兵士との比較を書きました。なぜ、日本人である私が彼らのことを書くのか、なぜアメリカ人でなく日本人なのか。それは、彼らを鏡にして日本人の過去、加害責任を見ずにパレスチナ・イスラエルのことを書くわけにはいかないからです。イスラエル社会全体における彼らの位置はともかくとして、私は彼らの言葉の中に普遍性を見い出しました。だからこそ、本を出し、この映画を作ったんです。
私はいつも(映画上映にともなって行われた)トークショーで、「これをパレスチナ・イスラエル問題としてだけ見られたとしたら、この映画は失敗です」と言っています。この映画を通して、たとえば日本の社会、会社という組織と自分との関係を、ある人は死刑制度の問題を考える人もいるでしょう。アメリカの人であれば、イラクへ行ったアメリカ兵、ベトナム戦争の帰還兵のことを考えるでしょう。彼らの言葉、彼らが提示してるものは、それだけ深く、普遍性をもったものなんだと思います。
(質問)映画を見ると、そのことは充分に伝わってきます。
(土井)それは私の力ではありません。証言した元イスラエル軍将兵たちの力なんですよ。私はそれを引き出しただけです。私に特別な才能があったわけではない。そう勘違いする人がいます。それは嬉しいんだけど、やはり誤解なんです。たまたま私はそういう人々に出会って、それを形にするチャンスがあったということだけなんです。
(質問)「沈黙を破る」のメンバーが少数であっても、“沈黙を破る”ことがすすんでいることに、やはり私は希望を感じるのですが……。今、イスラエルでも徴兵拒否が起こっています。アメリカでも従軍した兵士たちが自分たちのしたことを証言しはじめていますし、イラク戦争への従軍を拒否する兵士も現われています。
(土井)もちろん、希望はあります。ただ、幻想を持ってはいけないと思います。「沈黙を破る」グループの活動は、今はまだごく少数派であり、それほど社会を変えるような力にはなっていません。「沈黙を破る」の活動の核になっているのは数人なんですが、ただ彼らは、軍務から帰ってきた兵士たちにコンタクトをとって証言を収集しています。最初、メンバーは数十人しかいなかった。それが3、4年経つと、3倍ぐらいに増えているんです。証言した人は、もう750人に達しています。つまり、今はまだ小さな粒のような彼らの行動が、周りに少しずつ広がってきています。彼らと同じように、後ろめたさ、自分たちがやってきたことに対して良心の痛みを感じ、苦しんでる青年たちが少なくないはずです。
ただ、これまではほとんど誰も公に語らなかった。語る場所がなかった。「沈黙を破る」のメンバーたちが、彼らに語る場所を与えたわけです。この活動が広がって行くと、それは確実に何かを変えていくんだと思います。今は750人でも、これからもっと増えていくでしょう。
語らざるをえない。でも語れない人たちはみんな、海外に出てストレスを解消しようとしています。「沈黙を破る」人たちは、大海の一滴のような存在だけれども、確実に何かを変えていくと思う。希望は確かにあります。
その代わり、彼らの払う代償も大きいですよ。創設者で代表のユダは、もう占領地には行けないと予備役兵の兵役を拒否したため投獄されたことがあると聞きました。ドタンはアメリカへ行き、アビハイはカナダに行ってしまった。映画に登場する4人の中で、今もイスラエルに残ってるのはノアムとユダの2人です。
(質問)ドタンさんもアビハイさんも、とても大切なことを私たちに映画のなかで語ってくれていましたが。
(土井)あれだけの闘いをしていく、社会に抗って生きて行くのは、ほんとうに大変なことなんだと思います。おそらく彼らは就職しようと思っても、難しいかもしれません。
だからこそ、彼らのやってることを我われ外の世界の者たちがサポートしていかなければいけないと思い、今この映画の英語版を作って、これから海外で発表するつもりです。これは海外で少なからぬ反響を呼ぶと思います。なぜならいうと、ひとつには、彼らが提起していることが普遍的なものだからです。
今回、「親イスラエル」の人にも見てもらいました。どんな反応があるか、怖かったですよ。徹底的に叩かれると思っていた。でも、意外にも「すごくいい映画で感動しました」というが出てきたんです。驚きました。なぜ、そういう感想が出たかというと、私はパレスチナ側に立つ人間だけども、決してイスラエル人を「悪魔」として描かなかった。ひとりの人間としてきちんと彼らと向かい合っている。彼らの内面、苦しみを伝えている。これは今回の『沈黙を破る』だけではなく、4部作の第2部、第3部を見ていただければわかるのですが、そこではパレスチナ人の自爆テロで殺されていった家族、負傷した女性を丹念に追いかけています。人の痛みを描く。ひとりの人間として描く。それをやらないと、単なる「パレスチナ支援のための映画」になってしまい、見る人は限られます。それではいけない。この人たちの問題は普遍的なものなんだから、「支援運動ための映画」にしてはいけない。人間や問題の本質に迫る映画でなければいけない。人間を丁寧に描けば、必ず私たちが抱えている問題と底流は繋がっているんだということがわかる。そこをこの映画で伝えたい。それが私の思いです。この映画だけではなく、4部作にはそういう力があると思っています。だから私自身も、もちろん希望は持っています。
(質問)4部作は、どういう構成になっているのでしょうか。
(土井)第1部の『ガザ─「和平合意」はなぜ崩壊したか─』は、パレスチナ難民キャンプの家族を1993年から6年間追いかけて、その家族と彼らを取り巻くパレスチナ社会で起こったことを通して、あれだけ世界が幻想を持った「オスロ合意」というのは何だったのか、それとともにパレスチナの民衆がほんとうに何を求めているのかを描いています。アブ・バッサムという名のお父さんが出てくるのですが、彼は「これはほんとうの平和じゃない。我々はいつか必ず、故郷に帰る」と言います。「我われの世代でなくても、次の世代、そのまた次の世代に必ず帰る」と。イスラエル人にとっては、ぞっとする恐ろしい言葉です。パレスチナの人々の思いを無視して、「平和だ、平和だ」と大騒ぎしても本当の解決にはならないということを、見る人に問いかける作品です。
第2部『侵蝕─イスラエル化されるパレスチナ─』は、占領の構造を描いています。たとえば、イスラエル政府は、エルサレムの中でイスラエル人の人口とパレスチナ人の人口のバランスを維持しようとしています。72パーセントはユダヤ人、28パーセントがパレスチナ人という比率を壊さないようにしようとしているんです。なぜかというと、パレスチナ人の人口増加率はユダヤ人より圧倒的に高く、将来、パレスチナ人が多数派の街になってしまい、「ユダヤ国家の首都・エルサレム」でなくなってしまうからです。だからエルサレムだけでなく、イスラエル全体でユダヤ人が多数派という人口バランスを維持しようと必死になっています。
どうやってバランスをとるかというと、パレスチナ人の子どもが成長し、子どもたちのために新しい家を建てようとすると、それは「違法建築物」 だと宣言して、建設を阻止し破壊する。もうひとつは、“分離壁”を作ることです。「テロリストの侵入を防ぐため」という名目ですが、それはヨルダン川西岸のパレスチナ人がイスラエルに流入することを防ぎ、イスラエル国内でパレスチナ人が増えることを防ぐことが第一の目的だと言われています。また、自分の農地に行くことも制限し、将来、その農地もイスラエルに併合していく。そういうことを描くことで、占領とは一体何なのかという構造を明らかにしています。
第3部の『2つの「平和」─自爆と対話─』では、自爆攻撃で娘を殺されながら平和を求めるイスラエル人の家族と、イスラエルに子どもを殺されたパレスチナ人の家族が、どちらも「平和」を語るんだけど、同じ概念のはずなのに、その2つ「平和」にはものすごいギャップがあるんですね。今のパレスチナ・イスラエル問題に対する両者の考えのどこにズレがあるのか、その本質的な乖離(かいり)を描いています。自爆をする側の論理、される側の論理の両方を描いていて、重層的な構造になってます。なぜ4部作なのかということをよく質問されるのですが、おそらく近い将来、第5部でもう一度、ガザを描くことになると思います。
(質問)映画の中で、ボランティアのアメリカ人女性が登場します。彼女は、無惨に破壊された建物の下に埋まった人たちを救い出そうとしている現場で、耐えられなくなって狂ったように泣き叫びます。その場の状況があまりにも残酷だからということだけでなく、自分が、こうした状況を作りだしてきたアメリカという国の国民の一人だということをよく理解していたからです。あのシーンを見ていて、「私はどうなんだろう、日本人の私は」と思いました。日本政府がどんなふうにこの問題に対処しているのかということを、日本人としてよく知らないということに気づかされたのですが。
(土井)たとえば、アジアへ行ったとき、中国の南京とか日本がかつて加害を行った場所へ行って、私は良心的な日本人だと思っていても、やはり「あなたは日本人でしょ」と言われる。個人の信条とは別に、我われは“日本人”というアイデンティティや過去の歴史を背負ってるわけです。そこから切り離して、個人であり続けることはできないし、“日本人”から離れて、アジアの人と向かい合うことはできない。
私も実は1995年から元日本軍「慰安婦」と言われる、韓国のハルモニ(おばあさん)たちを取材し、ドキュメンタリー番組を作りました。自分が日本の加害の問題に意識が高くて、いわゆるリベラルな人間だと思っていても、あの元「従軍慰安婦」のハルモニたちと向かい合うときは、私はやはり“日本人”なのです。「あなたの国がやったんですよ。あなたの国の先人たちがやったんですよ」と言われたときに、反論できないわけです。
おそらく、アメリカ人ボランティアのチビス・モーレさんも、そういう現実をはっきりと実感したんだと思います。彼女はパレスチナの大学で英語を教えている人です。事件が起きて、医療ボランティアとしてあの現場に来ました。パレスチナに住むぐらいだから、彼女はイスラエルのやっていることにすごく反発しているし、ブッシュ政権にも反対していた。では、あなただけは別だと言って切り離せるかというと、切り離せないわけです、パレスチナの人にとっては。「お前たちアメリカ人こそテロリストだ」と言われて、「私は違います」と言っても、やはり“アメリカ人”ですからね。それは私たち日本人が、アジアの国々に行ったときにそう言われるのと同じことです。
私は以前、留学生の寮で、韓国の留学生と一緒に暮らしていた時期がありました。彼は韓国の民主化運動をやってきた体験を持つ青年たちですが、彼らと毎晩のように議論していました。私が「日本政府は許せない」と言うと、彼らの1人が「あなたはまるで日本人でないみたいな言い方をしますね」と言い返されました。「あなたは日本人でしょ。日本のやったことにあなたは日本人として責任ないんですか」ということですよね。そういう問いかけを、実はあのシーンでしているわけです。欧米人がどういう立場でこの問題と向き合うのかということが突きつけられている。だからあのときの彼女の声は、“アメリカ人”という国籍と、自分の中にある良心とが引き裂かれるときの叫びだったと思うんです。
「愛国心」ということがよく言われますが、私は、加害の歴史つまり自国の“負の歴史”をも引き受ける覚悟のない人は「愛国」などという言葉を軽々しく口にしてはいけないのではないか思います。「自国の歴史のいいとこ取り」して自分の歴史を誇るなんて卑怯だと被害を受けた国の人たちは言うでしょう。負の歴史をも一切合切、日本人として引き受け背負う覚悟があるのなら、“愛国者”と胸を張れるでしょうが。アメリカ人ボランティアのあのシーンや元イスラエル軍将兵たちの告白はそういう問いかけをしていると思いまね。
(質問)パレスチナの人にとって、日本人はどういう存在なのでしょうか。
(土井)同じアジア人であるということで、日本人に対して親近感を持ってる人が多いですね。特に、過去の戦争でアメリカと戦ったこと、広島・長崎に原爆を落とされ、あれほど国土を破壊されながら、今では世界有数の経済大国に成長したことから、自分たちも学ぶべきだと考えています。ただ、1991年の湾岸戦争以降、とりわけ2003年のイラク戦争で日本がアメリカに追随する立場をとったことでずいぶん変わってきました。当時の小泉首相は真っ先にブッシュを支持した。すると、「何なんだ」という不信感を抱く。アメリカ側に立った日本に対してすごく反発したんです。ジャーナリストたちは、そのことを敏感に感じ取りました。我われジャーナリストに向かって、もろに抗議してくるわけです、「お前たちの国は我われの仲間だったはずじゃないのか。なんでアメリカの側に付くんだ」と。
彼らの反発はすごかったですよ。特にイラク戦争以降はそうでした。日本人が拉致される背景の1つには、そういう日本人に対する失望感があるんだと思います。私は彼らに、「日本はとりわけ外交面ではアメリカの属国だから、日本政府として独自の中東政策なんか持ち得ないんだ」と説明しています。すると、「えっ!」とみんな驚く。「お前たちのような経済大国が、なぜアメリカの言うことばかり聞くんだ」と。日本としては、そういう問題を抱えていますね。
(質問)この映画の最後のほうで、ドタンさんの両親が登場します。お母さんが、「沈黙を破る」の写真展で初めて息子が書いた詩を読んで、息子がこんなに苦しんでいたことを知った、というようなことを言います。それをモニターで見たドタンさんが、穏やかに彼女の考え方の問題点を指摘します。その指摘は、私たちにもあてはまることで、ドキッとしました。私は、きっとドタンさんはお母さんの言葉を聞いて喜ぶのかと思ったのですが。
(土井)あのシーンは、この映画を深いものにしているひとつのポイントだと思います。普通だったら、お母さんのインタビューで終わるんです。「ああ、お母さんはこう言って息子のことを心配してる。わかるなあ、母親の気持ち」と、見た人に思わせて終わる。でも『沈黙を破る』では、それを見た息子が、両親をポーンと突き放す。そこに、みんな衝撃を受けるんです。
あのシーンはいろんな意味を含んでいます。日本人の平和というときの概念についても問いかけている。何をもって平和と言うのか、ということをです。彼の両親は、自分は被害者だという意識から抜けられないでいます。ところがドタンは、自分は加害者だという認識を持ってる。両親たちは、「私たちはこんなに攻撃されているから、それから守らなきゃいけない。だから可哀想だけど、あなたたちが兵士となって戦わなきゃいけない。心を病むだろうけれど、そのための心理療法をしてきたつもりだ」と。それに対してドタンは、「でも僕たち兵士は、あなたたちの“拳”になっているんだ」と、きっぱりと反論する。そこの切り替えしに、見た人はショックを受けるんです。イスラエル人が持っている被害者意識に対して、彼らが沈黙を破り、チャレンジしていくことの意味が凝縮されているシーンですね。
日本でも「平和」と言うとき、多くは被害者としての体験からくる平和ですよね。広島・長崎への原爆投下、大空襲……、だから平和でなくてはいけない、と。ところが、加害のことはあまり出てこない。「南京虐殺」に象徴される加害の歴史はあまり語られない。「自分たちは酷いことをしてきた。ああいう酷いことをしちゃいけない。だから平和が必要なんだ」という発想ではない。こんな酷い目にもう遭いたくない。だから戦争は嫌だという発想ですね。そういう日本の「平和」に対する概念を、シンボリックにあの場面は見せていると思います。
あのお母さんは非常にいい人で、良心派ですよ。それを、息子が彼女の発想をおかしいと突き放すわけです。それは、日本人のナイーブな「平和」観に対する突きつけでもあるんじゃないでしょうか。
この映画を見た人は、「これはパレスチナ問題の映画じゃないんだ、自分たちの問題なんだ」というふうに見てくださる人が結構多いんですね。 ところが、どうしてもパレスチナ・イスラエルの問題を描いた作品だというふうに紹介されてしまう。それでポスターやチラシには、ああいう抽象的なデザインになったんです。イスラエル・パレスチナという言葉も入れなかった。そして、「考えるのをやめたとき僕は怪物になった」という言葉を入れたわけです。普遍性を持たせるためです。
(質問)この言葉は、戦争とか軍隊という問題だけでなく、ひとりの人間としてどう生きるのかということを問いかける言葉ですね。ほんとうに多くの人に見てほしいと思います。
(土井)『沈黙を破る』は単にパレスチナ・イスラエルの問題を描いた作品ではなく、一人ひとりの人間にかかわる、普遍的な問題をあつかった映画なんです。そういう角度から口コミが広がっていったら、多くの人に見てもらえるだろうと思います。東京・大阪・京都などの主要都市の映画館でまず公開して、夏ぐらいからその他の劇場へどんどん出していく予定です。それが一段落する秋ぐらいから、自主上映を進めていきたいと思っています。おそらく自主上映のほうが、広がりが出てくるかもしれませんね。
それと同時に、夏ぐらいから海外の国際映画祭に出していきたいと考えています。この映画を思い立ったとき、いちばん念頭に置いたのは欧米人に見てもらうことだったんです。パレスチナ・イスラエル問題を変えていくのは日本ではない、アメリカですからね。とくにアメリカのユダヤ人に見て欲しいですね。
これは、パレスチナの悲劇だけを描いたものではない。また、イスラエル人を「悪の権化」みたいに描いたものでもない。ひとりの人間としての苦悩を描いている。そういう意味では、多くの人の共感を呼ぶのではいかなと思っています。
舞台はパレスチナですけど、パレスチナ・イスラエル問題の知識がなくても見ることができる映画です。そのことが伝わっていけば、絶対に広がっていくでしょう。2、3年かけてでも多くの方に見てもらえるよう、広がって行けばいいなと思っています。
(質問)このシリーズの第5部を作りたいというお話がありましたが、今後はどんなことをしていこうと考えていらっしゃるのですか。
(土井)今、取り組んでいるのはガザです。まず、岩波ブックレットの原稿を書きました(「ガザの悲劇は終わっていない─パレスチナ・イスラエル社会に残した傷痕─」2009年7月7日 岩波ブックレット)。NHKで特集番組も放送されて、1.2%の視聴率、つまり120万人の人が見てくれたわけですが、テレビという媒体ではさまざまな制約があって十分には伝えられないんですよ。それで今、この映画にも出てくる少女がその後どうなったか、パレスチナの人たちがどうなったのかということを撮っていこうと思っています。
もうひとつは、日本の中の問題でとても気になっていることがあるんです。日本の教育の問題です。「君が代不起立」で闘っている根津公子さん、教育現場の言論の自由を封じようとする東京都教育委員会と正面から闘う三鷹高校の前校長・土肥信雄さん、公立小学校で「君が代」のピアノ伴奏を強要されたことに対して闘っている音楽教師の1人、佐藤美和子さんらのことをドキュメンタリー映像にまとめたいと思って、ずっと追いかけています。
私にとって“パレスチナ”は“鏡”なんです。“パレスチナ”のことを見ながら、じゃあ日本はどうなのか、自分の足元はどうなのかということを具体的に考えていかなければいけない。
日本人のジャーナリストとして、日本の危機的状況をきちんと伝えていかなければいけない。これは、“パレスチナ”のことをやってきたからこそ見えてきたことなんです。日本人で闘っている人たちは、「沈黙を破る」のメンバーと重なる部分がたくさんあるんです。都教委と闘っているあの3人の方々も、まさに、沈黙を破る人たちなんです。ひとりのジャーナリストとして、その存在と、彼らの闘いの意味を伝えていきたいと思っています。
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