Webコラム

日々の雑感 149:
パレスチナ日記 1

2009年8月27日(木)パレスチナからヨルダンへ

 旧エルサレムのダマスカス門は、ライトブルーのイルミネーションで飾られ、午後9時近くなった今も、群衆が門の中に吸い込まれていく。アルアクサ・モスクでの祈りに向かう人びとである。雑踏と喧騒、いつになく華やいだ空気は、ラマダン(断食月)最初の週末だからだろう。
 ラマダン、とりわけ真夏のラマダンは辛い。夜明けは早く、日没は遅い。つまり食物や水を断つ時間が冬場よりもずっと長くなるということだ。しかも昼間はゆうに30度を超す暑さである。ヨルダンでアラブ人と同じ職場で働くある現地の日本人女性が、「ラマダン中は彼らの目は朝からトロンとしていて、こちらが質問してもトンチンカンな返事が返ってくる。集中力を失っているからです。そういう状態だから、ラマダン中の日中はほとんど仕事にならない。だからラマダン中は仕事が終わるのは午後2時半なんです」ともらしていた。無理もないだろう。「仕事の能率」という視点から見れば、ラマダンはまったく非効率的だ。ジャーナリストにとっても取材の時期としては最悪の期間である。空腹と渇き、それに眠気にじっと耐えている人たちはジャーナリストの取材に苛立ち、うっとうしく感じることだろう。一方、ジャーナリスト自身にとっても楽ではない。ラマダン中の人びとの前で、日中、堂々と飲食できないし、またその場所もない。日中はレストランも閉まってしまうからだ。陽が昇ってからの朝食、昼食を取る場所をみつけるのはたいへんだ。だからこちらは進んで断食するわけではないが、ときどき昼間、食事をとる機会を逃してしまう。そんな不規則な食事に体調を崩しかねない。

 そんな最悪の時期にパレスチナに来なければならなかったのには事情があった。
 8月の下旬まで映画『沈黙を破る』の劇場上映での舞台挨拶、講演、トークショーなどの予定が入っていて動けなかった。また10月以降、『沈黙を破る』の地方上映が再開され、その舞台挨拶に回らなければならなくなる。講演の予定も入っている。だから10月以降、またしばらく日本を離れられなくなる。その間隙を縫うように、8月下旬から9月下旬までパレスチナ、とりわけガザを再取材したいと考えた。
 もう1つの大きな理由は、イラク戦争直後から報道し支援してきたイラク人少年ムスタファ(現在15歳)が、脚の再治療のために6年ぶりにヨルダンのアンマンにやってくるため、その治療代のために、アンマンの銀行にプールしていた支援金を引き出さなければならないという緊急の事情があったためだ。
 さらにもう1つの重要な目的は、ガザ取材から帰国した2月下旬以来、募金を呼びかけてきたガザの少女、アマルに集まった支援金を届けることだった。
 もちろん、ガザ攻撃から8ヵ月を経たガザの現地と住民たちが、今どうなっているのかを取材するのも重要な目的だったことは言うまでもない。

 まずアンマンへ飛んで、ムスタファとの再会、銀行の用件を済ませ、その後、キング・フセイン検問所(イスラエル側は「アレンビー検問所」)経由の陸路でパレスチナ入りするという方法もあった。しかし、重い取材機材や重要な資料を抱えて、入国審査が一段と厳しくなったと言われるアレンビー検問所を通るのは気が重かった。この検問所で何人もの日本人が入国拒否の憂き目に会っていることも聞き知っていたからだ。それより、空港から入国し、3ヵ月の滞在ビザを得て、イスラエル政府発行のプレスカードを取得した後、必要最低限の軽い荷物や機材を持って出れば、再入国も容易だろうと考えたのである。
 しかし、プレスカード取得でつまずいた。一方、アンマンからは、予定よりも早い20日、現地にムスタファ父子が到着し、6年前に手術をした医者から、「現時点での再手術は必要ない」と診断されたので、ムスタファの新学期が始まる前に1日も早く帰国したいと言っているという知らせが入った。
 プレスカードの取得を待っていたら、6年ぶりのムスタファとの再会、それに支援金を渡す機会を失ってしまう。再入国に不安があったが、とにかくアンマンへ向かうしかなかった。エルサレムに到着した翌日の8月24日、私はアンマンへ向かった。

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