2009年8月28日(金)ムスタファ支援の経緯
ムスタファとの出会いは偶然だった。イラク戦争終結から1ヵ月後の2003年5月、私はコーディネーター兼通訳のイラク人と共に彼の車で、戦争の犠牲者の遺族を手当たり次第、探し回っていた。そのとき、ある地区の一角で偶然、壁に張られた告示版をコーディネーターが見つけた。とにかくその遺族に会ってみようとその家を訪ねた。それがムスタファの家だった。私たちに対応した父親のエマド(当時34歳)は、自分の兄がアメリカ軍の爆撃で頭部を砕かれ即死したと告げた。その現場にいたエマドの長男ムスタファ(当時8歳)は左脚の大腿部を爆弾の破片で貫通され、切断しなければならなくなりそうだという。私は近くの病院で治療を受けているというそのムスタファを訪ねた。戦争による負傷者たちが多く入院する病院だった。35度をゆうに超える暑さの中、天井の大きな扇風機だけがゆっくりと回るだけの暑い病室の一角にあるベッドにその少年は眠っていた。私たちの来訪に気付いた少年はゆっくりと目を見開いた。見たこともない日本人に驚いた様子だった。それがムスタファとの出会いだった。爆弾の貫通によって削ぎ落とされた大腿部の肉を補うために、ふくらはぎの筋肉が移植されていた。砕かれた骨を補強するため、患部には鉄製の棒が植えつけられている。細いその脚に鉄の棒が深く食い込んでいる姿はあまりにも痛々しかった。神経も切断されているために、下の足には感覚がなかった。医者は、「このままでは切断するしかないだろう」と私たちに告げた。私は、この少年のことをどうしても伝えなければと思った。それは突き動かされるような衝動だった。その後、私は彼とその家族、負傷した現場、さらに担当医の取材を続けた。
帰国後、私の取材結果は、当時のテレビ朝日の看板番組「ニュースステーション」で放映された。反響はすさまじかった。視聴者からのメールが番組宛てに次々と送られてきた。「あなたはただ報道するだけなのですか。どうしてこの少年を救うために行動しないのですか。振込先を教えてください。支援金を送る振込先を知らせてください」「私の息子と同じ年です。これが自分の息子だったらと思うと、居ても立ってもいられません。わずかですが支援金を送ります。振込先を教えてください」
そのような内容のメールが大半だった。私はあわてて口座を作った。寄せられた支援金は数週間で200万円を超えた。
ムスタファの左脚を救うためには、戦後混乱し、医療施設も整っていないイラクでの治療では無理だと判断した。医療設備が整い、医療技術もはるかに進んでいる隣国ヨルダンで手術をするしかない。当時、私自身は結婚式を挙げたばかりだったが、新婚旅行は諦め、すぐにイラクへ戻った。
戦争終結から間もない混乱期のイラクで、ヨルダンへの渡航は困難を極めた。まず入国ビザがない。当時、イラクで野戦病院を開設していたヨルダンの病院、国連機関などに掛け合い、なんとかムスタファ父子のヨルダン入国の許可証を取得した。しかし渡航に必要なパスポートがない。混乱期で無政府状態に近い当時のイラクで正式にパスポートを取得することは不可能に近かった。残る手段は、パスポートを「買う」ことだった。
2003年8月、砂漠地帯の走行に適した四輪駆動のGMCを手配し、ムスタファ父子と共に夜明けにムスタファの家を出発することになった。車が出る直前、母親のナガムが車の中のムスタファを力いっぱい抱きしめた。
40度を超す猛暑の砂漠の中、1000キロ近い走行に、長い入院生活で体力を失っている8歳のムスタファはぐったりとなり、ずっと座席に横になったままだった。それでも12時間を超える長旅に耐えた。
翌日、ヨルダン病院で医師の診断を受けた。早速、翌日に手術をすることになった。突然の手術に、ムスタファは泣きだした。すでに8回も手術を体験し、そのたびに激痛に苦しんできたムスタファは、手術への恐怖心がトラウマになっていたのだ。翌日、移動ベッドで手術室に運ばれるときも、付き添う父親に「手術なんでしょ? ね、そうなんでしょ?」と何度も尋ねた。父親のエマドは「そうじゃないよ。ただ検査をするだけだよ」となだめすかそうとするが、いよいよ麻酔を打つ段階になると、やはり手術だとわかり、ムスタファは泣き叫んだ。それでも看護師たちが麻酔を打つと、泣き叫ぶ声がゆっくりと小さくなり、やがて眠りについた。これまで息子の前では、じっと堪えていたエマドは、その痛々しい息子の姿に初めて涙を見せた。
手術は成功した。左脚の切断を免れたのだ。その後、1ヵ月近い治療の後、ムスタファ父子はバグダッドに戻り、リハビリを続けた。
翌年の2004年2月に私がイラクを再訪したとき、ムスタファは松葉づえをついて学校へ通えるまでに回復していた。それから2ヵ月後の4月、私はアメリカ軍によるファルージャ侵攻の取材にイラクを再訪したが、それ以降、イラク内部の混乱で外国人の入国が難しくなり、私はイラクから遠ざかっていた。それからほぼ5年半、私はムスタファとその家族に会う機会はなかった。
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