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日々の雑感 151:
パレスチナ日記 3

2009年8月29日(土)ムスタファ父子との再会

 今回、ムスタファ父子との連絡、2人の入国ビザの取得、6年前にムスタファの手術を執刀した医師との連絡、さらにムスタファ父子の宿泊先など、すべての手配をしてくれたのは、JVC(日本国際ボランティアセンター)アンマン駐在員の原文次郎氏だった。2003年当時、イラク担当のJVCスタッフだった原氏は、左脚の切断の危機にあったムスタファをしばしば訪ねてくれ、私が現地を離れた後も、その後の経過を随時、報告してくれた。
 無事、イスラエル・ヨルダンの国境を越えた私は、ムスタファ父子が滞在するホテルに直行した。原氏がメールで知らせてきた大方の位置とホテルの名前、その電話番号だけが頼りだった。運転手は近くの地区に来ると、ホテル側と何度か電話でやりとりし、やっとそのホテルにたどりついた。
 支配人から呼び出されロビーまで出てきた父親のエマドが、私の姿を見ると、予定より1日早く到着した私に驚き、そして満面の笑顔を浮かべた。私たちはしっかりと抱き合った。5年半ぶりの再会である。当時30代半ばだったエマドも、今年40歳になった。以前より、ずっと太り、腹回りもずいぶん大きくなった。手術の必要はないという診断を受けたエマドは、ムスタファの新学期が始まる前に、できるだけ早く帰国したかったが、私がアンマン入りするというので、待っていてくれたらしい。ムスタファは部屋のベッドで昼寝していた。まだ小さな少年だった5年半前と違い、背丈は伸び、10代半ばの立派な少年の姿になっていた。エマドが声を掛けると、ムスタファは目覚め、私を見た。「ミスター・ドイ!」と叫ぶその声も、もう昔の甲高い声ではなく、声変わりし、低音の大人びた声になっていた。ベッドから飛び起きて、抱きついてくるムスタファ。その手にもう松葉づえはなかった。

 この5年半の間のムスタファの脚の状態については、原氏のイラク現地スタッフからのあらましの報告を伝え聞いていた。その後、脚の具合は芳しくなく、そのたびに医者通いを続けているということだった。その治療費を工面してほしいという要請は1度や2度ではない。しかしイラクの町医者の診断では埒があかず、一向に回復に向かわなかった。ムスタファが高校に進学する前に、かつての執刀医にもう一度きちんと診断しもらい、必要なら、今のうちに再手術をしようということになった。
 手術となれば、費用がかかる。そのためにアンマンの銀行にプールしていた支援金の残りを引き出さなければならない。そのためには、どうしても私自身がアンマンへ向かわざるをえなかった。
 ムスタファ父子は8月20日にアンマンに到着し、1日休養した後、早速、かつて手術をした医師の診察を受けた。その医師によれば、「垂直の脚の骨と地面で支える足の骨がつながる部分で、脚の骨を受ける足の関節部分が爆弾の破片で破損しており、成長するに従って痛みが大きくなっている。もしそれを治療するとしたら、人工骨に変える必要があるが、足と脚の骨はまだ成長過程で、完全に成長してしまうには、あと2年ほどの期間がかかる。人工関節をつけるなら、それからだ。今は手術する必要はない」ということだったらしい。
 ムスタファがズボンを脱ぎ、左脚の傷痕を見せてくれた。5年半前と同じように、爆弾が貫通した部分にふくらはぎの筋肉を移植した痕は肉が盛り上がったままだ。一方、ふくらはぎの筋肉を削ぎ取られた膝下は、こん棒のように細い。両足の大きさを比べても、左足は右足に比べ小ぶりだ。やはり負傷した左側の脚と足は、十分に成長しきれないでいる。
 それでも、6年前は左脚切断の瀬戸際だったムスタファが、今は歩けるのだ。しかも、ジーパンをはいて歩くその姿は、彼が左脚にそれほどの重傷を負っていることをまったく感じさせないほど普通だった。
 この数年、現地から送られてくる成長したムスタファの写真を見て気になっていたことがあった。大人びていくその顔の表情が妙に暗かったのだ。あの負傷の体験と、その後の不自由な生活、将来への不安が、ムスタファの心に深い影を落としているのではないか──私はそう懸念した。しかし実際に会ってみると、驚くほど明るく、そして純朴なままだった。私は彼のその“真っすぐさ”が嬉しかった。原さんから習った片言の日本語で、私たちに話しかけてくる。「オゲンキ、デスカ」「ワタシハ、ニホンジンガ、ダイスキデス」……。発音を褒めると、嬉しそうに笑う。
 ムスタファに将来の夢を訊くと、「医者になりたい」と答えた。切断の危機にあった自分の左脚を救ってくれた医師への感謝と敬意が、「医師への憧れ」に昇華されていったのだろう。

 しかしそんなムスタファと家族も、この間の混沌としたイラクの政治・社会情勢の影響をもろに受けていた。シーア派が実権を握るようになった社会で、スンニー派のエマドはさまざまな迫害を受けることになった。エマドは戦前から農業省所属の運転手だったが、戦後、シーア派が実権を握った職場で、エマドは暗殺リストに名を挙げられたという。幸い、親しいシーア派の同僚からの通報で1ヵ月ほど職場を休み、難を逃れた。家の近くでは爆弾テロが頻発した。
 一方、もう1人子どもが生まれ、6人家族となったエマドにとって、月給150ドルの収入では生活が立ち行かなくなった。同居する弟たちもタクシーの運転手で、たいした収入も望めない。食料や生活必需品を手に入れるために一家の借金がかさんでいく。そしてムスタファの脚の治療費……。ときどき、原氏を経由して送られてくるエマドからの手紙で、ムスタファの脚の治療状況と共に生活の苦しさを訴えていたその内情をエマドの口から直接、聴くことができた。

 アンマンに到着した翌日、私はムスタファへの支援金の残りをプールしていた英国系の銀行HSBCのアンマン支店に向かった。昨年暮以来、この銀行の対応には辟易させられていた。
 去年12月、突然この銀行から、「もう5年近く、あなたの口座はまったく使用されておらず、現在、凍結された状態になっている。この通知から60日以内に使用されない場合、ヨルダンの法に従って、あなたの預金はヨルダン政府財務省に没収される可能性がある」と通知されたのだ。イラク入国が危険になり、ムスタファへの直接の支援が難しくなったため、ムスタファの手術費用を引き出した2003年夏以降、たしかに、まったく口座は使用していなかった。それにしても、口座を5年近く使用しなかったからといって、預金を没収するということがあるのだろうか。しかし銀行の公式の書面で、そう通知してきたのだ。私はあわてた。私個人の金でなく、支援のために他人から預かっている貴重な金だ。それが没収されてしまうとなれば、私にとって社会的な信用にかかわる重大な問題だ。
 当時、映画『沈黙を破る』制作の最終段階で、とても口座再開のためだけにアンマンを往復する時間的・精神的な余裕はなかった。私はHSBCの横浜支店に、日本で預金口座の凍結を解除し、預金を引き出せないかと相談した。しかしその対応はひどかった。「ヨルダンの支店のことには、うちではまったく対応できない」の一点張りである。東京支店にも電話で相談したが、対応した男性行員の返事もまったく同じ冷淡な返事だった。「国際銀行」と名乗るHSBCのこの対応はいったい何なんだ! 怒りを抑えられない私の激しい抗議に押されて、ある女性行員がついにアンマン支店と接触してくれた。教えられたあるヨルダン人女性行員の連絡先に、「この預金は、戦争で負傷したイラク人少年の救援のための金であり、5年間口座を動かせなかったのは、イラクの危険な国内情勢のためだった」という趣旨のメールを送った。するとその女性行員は、私の署名が東京支店で確証されれば、凍結継続の道はあるとメールで告げてきた。それで東京支店にその趣旨を伝えると、「日本の国内法によって、あなたの署名をこちらで確証することはできない」という返事。これが「国際銀行」と宣伝するHSBC銀行の対応だった。
 行き詰った私は、ヨルダンの日本大使館に勤務するある知人に、直接、アンアン支店に出向いて事情を説明してもらい、凍結継続の交渉をしてもらった。すると、「預金は没収せず、15年凍結する。凍結解除には本人が直接、銀行に出向き、手続きしなければならない」という返事がその女性行員からメールで送られてきた。私は胸をなでおろした。
 しかし今年7月、アンアン支店からまた「このまま、口座を使用しないと、預金は没収される」という通知が送られてきた。いったい、この銀行はどうなっているんだ。「15年は凍結」と告げてきた女性行員にメールで問い合わせても、今度はまったく返事もない。仕方なく、再びアンマンの知人に銀行に出向いてもらい事情を聴いてもらうと、「15年の凍結は変わらない」という返答だったという。ではあの通知は何だったのだ!
 もうこの銀行は信用できない。1日も早く現地へ行って預金を引き出さないと、将来、また何が起こるかわからない。しかし8月下旬までは映画上映や講演などで動きがとれない。それが終わり次第、アンマンへ向かおうと決めた。幸い、ムスタファ父子が8月下旬にヨルダン入りすることが決まった。アンマンで預金を引き下ろすベストのタイミングだった。

 私と原氏は、HSBC銀行のアンマン支店へ向かった。必要なカードやパスポートを提出し、口座閉鎖の手続きに入ったが、その間も「ほんとうに預金は戻ってくるんだろうか」という不安は消えなかった。口座凍結の解除に1時間半かかった。そして、ついに預金の引き出しと口座閉鎖の手続きは終わった。しかし、いざ現金を受け取る段になって、現金を扱う行員が、「預金は引き出せるが、ドル紙幣ではなく、ヨルダンの通貨ディナー紙幣で」と言い出した。ドルで預金してなぜヨルダン通貨でしか戻ってこないのか! 私たちは激しく抗議した。すると、数ドル分だけをディナーで、残りはドル現金でという妥協案が提示され、私は受け入れた。そしてついに1万5千ドルほどのドル現金が私の手に戻った。銀行を出るとき、私は心底思った。「もう今後2度と、このHSBC銀行を利用しないし、友人、知人にも、この銀行を利用するのは危険だと警告する」と。

 原氏と同様、ムスタファ支援に尽力してくれたのは、イラクの白血病患者の子どもたちなどを支援するNGO「JIM-NET」代表、佐藤真紀氏だった。2003年当時も、私が日本に戻った後に、現地や手術直後のアンマンでムスタファを見舞い、支援し続けてくれた。今回も、たまたまアンマンに滞在中で、6年ぶりにアンマンにやってきたムスタファ父子に会うために駆けつけてくれた。またムスタファを紹介するテレビ番組の制作で得た報酬の一部を、今回のムスタファの渡航費と診察代のために拠出してくれた。さらに、たまたま調査研究のためにアンマンに滞在していた早稲田大学教員、錦田愛子氏もアラビア語通訳のために出向いてくれた。彼女は6年前も、手術後、アンマンの病院に入院中のムスタファを見舞ってくれたという。
 ムスタファ支援のために関わってきた日本人たちがそろい、ホテル近くのレストランで、ムスタファ父子と共にラマダン明けの夕食会を開いた。「ムスタファ父子と、彼らに関わった日本人が、このように一堂に集まれたことは奇跡に近いですね。もうこういうチャンスは2度とないかもしれませんけど」と原氏が言った。その「奇跡の場」に自分が居合わせられたことを、私はほんとうに幸運だと思った。プレスカード問題の衝撃やイスラエルへの再入国の不安は、私の脳裏から離れないが、それでも、今はこの幸運を素直に喜ぼう。

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