2009年8月30日(日)ヨルダン・イスラエル国境の通過
8月26日早朝午前4時ごろ、ムスタファ父子は、チャーターした4輪駆動車GMCでイラクへ向かった。砂漠の猛暑の中12時間を超える長旅である。
支援金を銀行から引き出し、ムスタファたちを見送った今、私はもうアンマンに留まる理由はなくなった。私もこの日の朝、エルサレムへ戻ることにした。しかし「国境を超え、エルサレムに無事戻れるだろうか」という不安が頭の中に広がる。またベッドに戻ったが、なかなか寝付かれない。周囲の人たちからの情報だと、アレンビー検問所では、この5月ごろから全ての入国者のパスポートの入国印が押されるようになったという。ただそれは、帰国後にパスポートを更新すれば済む問題だ。最悪の事態は入国拒否である。しかし、私はすでにほんの3日前にベングリオン空港で得た3ヵ月の滞在ビザがある。しかも9月末の帰国フライトのEチケットもある。イスラエル政府発行のプレスカードがあれば万全だったはずだが、少なくともJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会)のプレスカードはあるし、「シグロ」からのアサイメント・レターもある。いくらなんでも追い返されることはないだろう。ただ3ヵ月の滞在ビザは無理かもしれない。そうなれば、もしガザへ入れるようになった場合、長期滞在は難しくなる。何よりも、犯罪者扱いのような、イスラエル入管の係官による執拗な尋問を想像するだけで、気が重くなる。
ほとんど眠れないまま、朝7時にベッドから出て、旅支度を始めた。ムスタファ父子を見送るため、私の部屋に泊まった原文次郎氏と共に軽い朝食を作った。ラマダンで昼間は食べられるかどうかわからないから、いくらかでもおなかに食べ物を入れておかなければと思った。しかし不安で食欲はなく、押し込めるように、腹に詰め込んだ。
午前9時、チャーターしたタクシーで国境へ向かった。行きは3人の乗り合いだったから1人8JD(ヨルダン・ディナー)、帰りは1人で25JDだ。アンマンから空港までが20JDが相場だから決して高くない。
アンマンから車は徐々に海面下のヨルダン渓谷まで駆け下った。小1時間で着いたヨルダン側の国境で車を降りると、そこは海面下の高度、猛暑の中だった。
ヨルダン側国境の建物には、私のようにイスラエル側へ向かう旅行客が10人ほどいた。アメリカ在住のパレスチナ人だろうか、アメリカ訛りの英語を話す、へジャーブを被った女性たち3人とその幼児たち数人も混じっていた。日本人のバックパッカーの青年も1人いた。
ヨルダン側国境は、「税金」5ディナーを払うだけで、いとも簡単に通過できた。大型バスに乗り込み、アレンビー橋を越え、イスラエル側国境検問所に近づくと、私の不安は頂点に達していた。バスを降りると、スーツケースのような大きな荷物はエチオピア系かパレスチナ系の男性従業員が取り上げ、検査室に送った。私たちは入国審査室へ導かれた。その入り口で、手荷物のX線検査と、空港と同じように金属探知装置の中を通過されられた。私はカメラ類やパソコンはバックで背負っていた。だが、その中まで調べられることはなかった。10数年前にここを通過したとき、本物のカメラかどうかチェックするために、シャッターを押せと命じられたことを思い出す。
持ち物や身体のセキュリティー・チェックを終えると、広い空間に審査のためのブースが10ほども並んでいるが、その入り口で、係官が旅行者たちにどのブースに行くべきかを指示する。日本のパスポートを示した私は、「1番へ」と告げられた。そのブースには「VIP」と記されている。「特別待遇」のブースらしい。私の前にそこに並ばされていたのは、同じバスでここまで来たあのアメリカ国籍のパレスチナ人女性と子どもたち、それに日本人のバックパッカー青年だった。その青年の尋問はすでに始まっていた。3人の若い女性係官が彼のパスポートを見ながら、ねほりはほり質問する。後方の少し離れたところにいる私の耳にも、「どういう目的なのか」「どこへ行くのか」「ホテルの予約は?」「いつまでいるのか」などの質問が途切れ途切れに聞こえてくる。青年はたどたどしい英語で答えるのだが、そのたびに女性係官たちがひそひそ相談し、時には笑いあっている。まるで青年を弄び、苛め抜くかように、尋問はネチネチと続く。それでも青年は声を荒げることもせず、じっと耐えている。入国したいのなら、ここで耐えるしかないのだ。2、30分は続いたろうか。ついに彼のパスポートに入国印を押す「ガシャッ!」という音が響いた。耐え抜いた青年はやっと入国を果たした。それにしても、まだ20歳そこそこの若い娘たちが、入国の許可・不許可を決める絶対的な“権力”を手にし、旅行者たちを見下すように傲慢に振る舞う様は、占領地の若い兵士たちの姿を彷彿とさせる。「沈黙を破る」のユダやノアムがかつて私に語ったように、絶大な権力をふるう“快感”に、彼ら・彼女らは麻痺し、中毒になっていくのだ。しかも「セキュリティーのため」という大義名分を掲げ、傷つかない“心の鎧”をまとい、いくからでも残っているはずの“良心の痛み”と“相手の痛みに対する想像力”から目をそらし、呵責から逃げるのだ。このようにして「相手の痛みに無感覚で、傲慢なイスラエル人」が再生産されていく。
私の前に並んだアメリカ市民権を持つパレスチナ人女性たちへの尋問も、「なぜイスラエルへ?」「どこへ?」「誰と会う?」「どういう関係?」「そこで何をする?」「何日間、滞在するのか?」「帰りの飛行機は?」……、と続く。白人のアメリカ市民にもこういう聴き方をするのだろうか。それでも、女性であること、子連れであること、そしてアメリカ市民権を持っていることで、そうでない旅行者より短時間の尋問だった。
私の番が来た。私は空港で発行された別紙の入国証明書を示し、9月下旬、ベングリオン空港発の予定表が書かれたEチケット、JVJAのプレスカード、それに「シグロ」からのアサイメント・レターなど、有効と思われる手持ちの資料を全部、女性係官に提示しながら、「私はジャーナリストで空港から入国したが、急用でアンマンへ出かけ、エルサレムへ戻るところです」と告げた。係官はまず私のプレスカードをいぶかった。ブースを出て、別室の上司に私のプレスカードを見せ、判断を仰いだ。ブースに戻ると、尋問が始まった。「どこで、どういう取材をするんですか」と訊かれ、「主にイスラエルやヨルダン川西岸で取材をします」と答えた。さすがに「ガザ」という名を出すのはためらった。「何を取材するんですか」「私は今年1月にも取材したので、その後、どう変化したのか、最近のイスラエル・パレスチナ情勢を取材するつもりです」と答えた。係官はそれでも判断がつかないらしく、近くの上官を呼んだ。係官の言葉を聞きながら、その上官は私のパスポートや提出した資料の一部にさっと目を通した。私はとっさに「シグロ」からのアサイメント・レターを上官に突き出した。上官はそれを手に取り、さっと目を通した。やがて短い言葉を部下の係官に告げると立ち去った。係官は入国印を押す準備にかかった。やっと入国許可が下りたのだ。私は「別紙に印を押してほしい」と告げた。空港での入国印が別紙になっていたからだろう、係官はすんなりと別紙に、前の入国ビザ証の用紙の内容を自ら書き写し、そこに入国印を押した。受け取ると、滞在期間は空港と同じく「3ヵ月」になっていた。
「やった!」。ブースを離れるとき、私は心の中でそう叫んでいた。
エルサレムの宿舎に戻ったのは、午後1時半になろうとしていたときだった。アンマンのホテルを出て、4時間が過ぎていた。
宿舎のロビーでくつろいでいると、携帯電話が鳴った。プレスオフィスからだった。「以前にも警告したはずだが、プレスカードは報道機関の関係者に出すもので、ドキュメンタリー制作には基本的には出せない。だから現段階では、あなたへのプレスカード発行は難しい」
それは、今回、もしかすると将来も、私はガザ地区には入れないということを意味していた。無事、再入国に果たせたとほっとしたのも束の間、私は再び、谷底へ突き落とされた。切った電話を手にしたまま、私は呆然自失した。
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