Webコラム

日々の雑感 156:
山形国際ドキュメンタリー映画祭2009 (1)

山形国際ドキュメンタリー映画祭 公式サイト

2009年10月10日(土)

 昨日、山形国際ドキュメンタリー映画祭のために山形市入りした。ドキュメンタリーを作ってきた者として、そして今後もジャーナリストとして伝える手段として映像を主要な媒体としていこうとする私にとって、世界の最高レベルと言われるドキュメンタリー映画から学ぶ絶好の機会となるはずだ。私の映画『沈黙を破る』は、結局、この映画祭では上映映画にはならなかった。ならば、なぜ上映映画に選ばれなかったのか、そして世界のレベルとはどうものか、自分の眼で確認しておかねばならないと思った。

これから数日間、そこで観た映画について書いていく。

『包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠』
Encirclement Neo-Liberalism Ensnares Democracy
(2008年/カナダ/160分)

 長年、パレスチナ・イスラエルの現場で起こる現象を通して、“占領”という構造を伝えようとしてきた私にとって、「ネオリベラリズム(新植民地主義)」という地球規模の構造的な大テーマをどう映像で見せていくのか、私はその映画を観て学びたいと思った。
 映画の紹介文にはこう記されている。

アメリカを中心に世界中を席巻し、今や地球全体の政治経済を支配しようとしている新自由主義(ネオリベラリズム)イデオロギー。装われた“自由競争主義による経済優先政策、その基盤をなすエリート主義と帝国主義支配の原理の起源と現状、さらにはそれを支えるメディア的制度を批判的に再構成するインタビュー・ドキュメンタリー。

 しかし結論から言えば、失望した。とにかく眠気との闘いだった。客席1000を超す大ホールで、入った客は2,30人。上映が始まって間もなく、私は集中力を失い、何度もあくびと睡魔に襲われた。閑散とした周囲を観ると、すでに居眠りしている人もいる。私がうとうとしている間に私の前方にいた観客はすでに席をたっていた。
 とにかく延々と経済学者や思想家たちのインタビューが続くのだ。私が知っているのは、ノーム・チョムスキーだけだったが、その語りの内容からして、超一級の知識人たちであることはわかる。語られる言語は、チョムスキーの英語を除いて、全てフランス語である。つまり、フランス語を理解できない者は、語られる言葉をずっと字幕で追わなければならない。しかも内容も語彙も専門的すぎ、観客は相当の前提知識がないと理解するのは難しく、絶え間なく現れる字幕を斜め読みして、すっと自分の中に入ってくる生易しい内容でも言葉でもないのだ。つまり専門書を映像の字幕で読まされているようなものだ。しかも本と違って、理解できなかった部分を読み返すこともできない。よくわからなかった字幕の次にまた次の難しい言葉が現れる。次第に集中力を失い、眠気が襲ってくる。しかも合間にそれぞれ1分に満たない写真と資料映像が入るだけのインタビューが2時間40分も続くのだ。
 私は怒りに似た感情が沸き起こってきた。いったいこの監督は、ほんとうに観客に見てほしいと願っての映画を制作したのか。もしそうなら、なぜもっと観客に伝わるような作り方を工夫しないのか。
 映画祭の公式カタログの中の「監督のことば」に制作したリシャール・ブリイエットはこう述べている。

 私は、すでに多くの人が手掛けた経済のグローバル化について映画ではなく、ひとつの思考システムのグローバル化についての映画を作ろうと決心した。マインドコントロール、洗脳、イデオロギーの同化についての映画、異論を許さない新しい一神教が世界を支配し、その厳しい戒律と燃え尽きることのない茂みと金の仔牛についての映画だ。
 私はこの反乱を言葉で表現することにした。完全に説明できるまでどれだけでも話す、力強く、率直で、厳密で、正しい情報にも基づく言葉だ。この言葉に制限は一切設けていない。テレビ受けするように、テンポの早い展開で人工的に盛り上げたり、嘘の客観性を装ったり、複雑な問題をわざと避けたりもしなかった。資料映像や説明映像といった「映像の潤滑油」を濫用し、映画の一貫性を犠牲にしたり、参加者のせっかくの協力を無駄にしたりしないようにも気をつけた。それらの映像は、本当に必要なときだけに使用するにとどめている。登場する傑出した思想家たちの、鋭利で、人の心をとらえる言葉がスクリーンを満たし、私がそうであったように、観客もまた聞くという行為の魅力に身を任せる。それが、この映画にとっていちばん大切だと判断した。

 なんという独りよがりの解釈か。監督の頭にある「観客」とはどういう人たちなのだろう。自分と同じレベルかそれ以上のインテリたちにちがいない。こういう事実も知識も知らないが、しかし知りたいと渇望している一般の観客に、どうしたら伝わるのかという努力のあとがまったく見えないのだ。私には、インテリ監督の自己満足と独善のように思えてならないのだ。そういうものは大学の講義用の映像ビデオにでもすればいい。「私がそうであったように、観客もまた聞くという行為の魅力に身を任せる」と平然と言い放ち、国際映画祭に応募する。彼の頭の中には、フランス語を解せない大半の世界の人びとにとって、「聞くという行為」は不可能で、「字幕を読むという行為」を強いられるという事実はまったく思い浮かばないのだ。欧米人の傲慢さと独善性の典型をみる思いがする。
 一方、このような映画をこの山形国際ドキュメンタリー映画祭での上映作品を決めた選者たちに、素朴な疑問を抱かざるをえない。1000を超える応募作品の中から選ばれた15本ほどの映画になぜこの映画が選ばれなければならなかったのか。この映画で語られている内容が現在の世界の中で本質なことで、とても重要であることは断片を観てもわかる。私はむしろこの内容が活字化された本をどうしても読みたいと思った。しかしこれは映画祭のはずだ。映画として、他の1000を超える応募作品を押しのけても、どうしても観てほしいと映画祭の担当者たちは判断したのか。いったいこの映画祭は何をめざしているのか。何を基準に上映する映画を選んでいるのか、と。
 とにかく何度も会場を抜け出したい衝動にかられたほど観続けるのが辛い映画だった。

『ナオキ』
Japan, A Story of Love and Hate
(2009年/イギリス・日本/110分)

 イギリス人ドキュメンタリストが、山形市内で暮らす50代のアルバイト男性「ナオキ」と、同棲する20代女性の愛憎の生活を密着撮影したドキュメンタリーである。監督・撮影のショーン・マカリスター氏は2004年、治安が混沌としたイラクで9ヵ月間、取材した体験を持つドキュメンタリストである。「危険なイラクに比べたら、平和な日本での撮影は簡単だろう」とタカをくくっていた監督は、日本の取材の高い壁にぶつかり、1年以上も悶々とする。そして偶然、かつて山形で英語を教えていたロンドンの知人の紹介で、以前、「外人バー」を経営していた「ナオキ」と出会う。
 この映画の最大の魅力は、日本式英語で自分を語るナオキのキャラクターと、最初は躊躇しながらも、やがて実生活も内面も赤裸々にカメラの前でさらけ出す恋人の姿、そしてそこまで2人の“素顔”“裸の姿”をさらけ出させた撮影者マカリスター氏の情熱と誠実さ、切り込みの鋭さだろうが、やはり撮影者が日本人ではなく、イギリス人だったことも大きな要因だろう。ナオキがそれほど流暢でない英語(それがかえって彼のキャラクターの魅力を際立たせているのだが)でも、外国語で自分を表現できたこと、しかも語る相手が、“日本人”のしがらみと縛りに囚われなくてもいい外国人だったことが、ナオキが自由に自己表現できる環境を生み出したにちがいない。日本人の撮影者相手だったら、照れて、または気恥しくて表現できなかった話も、このイギリス人監督の前でナオキは自由奔放に語っている。また日本人なら、相手の立場を考慮して、また日本人の慣習として自重して入り込まない場や話題にもマカリスター監督は、無遠慮なほど堂々と、しかも深く入り込んでいる。それをナオキたちに受け入れさせたのは、もちろん監督自身の誠実な人柄と情熱も欠かせない要因だろうが、はやり彼が外国人だったことも大きいだろう。
 マカリスター氏のドキュメンタリストの切り口、視点の鋭さに教えられたことが1つある。カメラがナオキのアルバイト先である郵便局の仕事場にまで入っていることだ。彼はそのために番組のスポンサーであるNHKに依頼し、郵便局の取材許可を取るのに成功している。あの郵便局の職場シーンがなければ、このドキュメンタリーは単にナオキと恋人の「貧乏」生活とその葛藤を描いただけの平面的な私生活ドキュメンタリーに終わっていただろうが、あのシーンがあることで、日本社会の現実を俯瞰して見せ、ナオキの生活の背景を描き出している。それがこのドキュメンタリーに奥行きを与えている。

 しかし私だったら、ナオキを取材対象に選ぶことに躊躇しただろう。彼の中に、現在の日本社会で貧困に苦しむ人たちの“普遍性”を見いだせないからだ。かつて事業で成功し、高級外車を乗り回していた経歴を持ち、英語で自己表現できる「インテリ」はひじょうに特殊な人物で、いま大きな社会問題となっている「貧困」で苦しむ大半の人たちと重なり合う普遍的、根源的な問題を見出しにくいからだ。
 それに照れ笑いしながらナオキが英語で語る言葉に、やはり「外国人向けの表向けの語り」の匂いを嗅いでしまう。彼が抱える根深い深層心理、心の襞(ひだ)を、ボキャブラリーが限られている英語で語らせることは難しかったはずだ。ナオキの慣れない英語での表現でも、“日本社会の貧困”の表層はわかる。しかし深層部まで描き出すには、やはり無理がある。
 もちろん、このドキュメンタリーはそれを目指したものではないだろうし、ナオキと恋人の「貧困生活の中での愛憎」をここまで赤裸々に描き出している。ドキュメンタリーとして素晴らしい作品であることには違いないだろう。しかし、この映画で「日本の貧困問題の実相がわかった」と早合点されると、それはちょっと違うような気がするのだ。

『私と運転席の男たち』
Driving Men
(2008年/アメリカ/68分)

 これまで自分が深い関係を持った男性たちを訪ね歩き、車を運転するその男たちに、かつての自分との関係を語らせる映画だ。もちろん他にも、父親や兄弟たちに自分との関係を語らせる部分もあるが、大半はかつての恋人たちに撮影者自身を語らせる映画と言っていい。長年、カメラを自分の身体の一部のように回し続けてきた映像作家の映像だけにカメラワークはうまいし、編集も洗練されてはいる。しかし、なぜ“自分史”を他人に見せるドキュメンタリー映画として発表する必要があるのか。それが、どれほど社会性と普遍性があるというのか。私には「ナルシストのドキュメンタリー」としか見えない。そんなものは、自分の日記のように引き出しにしまっておき、ときどき自分で取り出してニンマリしながら、感傷にふければいいのだ。
 なぜこんな映画が「国際ドキュメンタリー映画祭」に選ばれ公開されるのか。

『改宗』
The Convert
(2008年/タイ/83分)

 バンコクで働く仏教徒の女性が、タイ南部出身のミュージシャンの男性との結婚を機にイスラム教徒に改宗し、タイ南部で新たな生活を始める。その結婚前の経緯、結婚、改宗、そして2人の新生活の葛藤とその克服の過程を描いた映画である。
 テーマと狙いに関心を持ち、上映会場に入った。しかしこの映画も期待を裏切られた。まず何よりもカメラワークがひどすぎる。私のような素人に毛の生えた程度のカメラマンが評するのはおこがましいが、大きな画面を観ているとめまい襲われるほど、映像が忙しく動き回る。とりわけ新郎の実家での新婚生活は、イスラム社会の家族生活に第三者の取材者が入ることが憚られるという理由から、カメラを新婦に渡し撮影してもらったという。それは制作者の意図・狙いとはかけ離れた映像になってしまっている。しかも映像の質が悪すぎる。感情移入より先に観るのが辛いのだ。
 内容の深さが、映像のハンディーをカバーできているかと言えば、残念ながら、それほどの深さを感じない。異教徒のカップルがいっしょに生活すれば、その程度の軋轢はあるだろうなと予想がつく程度の葛藤に思える。長女が誕生したシーンで終わるが、それで何を言いたかったのかという消化不良の感が残る。この映画も、選ばれた基準を疑う映画だ。

『馬先生の診療所』
Doctor Ma's Country Clinic
(2008年/中国/215分)

 不作続きで、働き手は男女問わずに建設現場、農作業、炭鉱へと出稼ぎにいく山間の村にある診療所。そこで貧しい村人たちを診る東洋医学の馬先生。その質素な診療所に来る患者たちと馬先生と患者たちの会話、患者同士のおしゃべりが、延々と続く。その会話から、この村と村人の生活と人間関係が透けてみえてくる。カメラは映像よりも、むしろ会話を丁寧に拾うことに主眼を置いている。だから映像は単調だ。
 こういう手法もあるのだという新鮮さはある。しかし私はその単調さに耐えられず、前半の1時間ほどでギブアップして、劇場を出た。

『されど、レバノン』
This is Lebanon
(2008年/レバノン/58分)

 2006年8月、イスラエル軍のベイルート空爆、ハリーリ首相の暗殺、シリア軍の撤退、そして選挙など、レバノンをめぐる目まぐるしい政情と社会情勢の変化を、キリスト教マロン派の女性監督は自分の家族や知人たちも巻き込んで描いていく。
 映像の美しさと編集の巧みさにははっとさせられる。しかし、レバノンの現代史や政治情勢などについてのある程度の予備知識がなければ、次々と変わる場面に何を見せられているのか、監督は観る者に何を訴えようとしているのかさっぱりわからない。ある程度、中東について知識を持っているはずの私でさえそうなのだから、一般の観客には、よくわからない内容で、しかも早いテンポのストーリー展開についていくのは実に難しいと思う。これも制作者の独りよがりの作品のように思える。私は最後まで観続ける忍耐力を失い、劇場を出てしまった。

『稲妻の証言』
The Lightning Testimonies
(2007年/インド/113分)

 今回の映画祭で観た映画の中でも最も衝撃と感動を覚えた作品の1つだ。過去に起こった「性暴力」という微妙で重いテーマをどう映像で見せ、聴かせて、観客の心にきちんと制作者のメッセージを届けていくのか──それを、この映画は教えてくれる。
 公式カタログでこの映画はこう紹介されている。

1947年のインド・パキスタン分離独立から現在まで続く、女性への性暴力を繰り返している対立の歴史をさまざまな映像表現でたどり、暴力の残虐さと女性たちの尊厳ある強靭な精神を描く。様々な時代、社会層においてインド各地の個人や社会がいかに暴力に耐え、記憶に刻み、記録に残してきたかを入念なリサーチを通して浮かび上がらせる。作品の根底にある暴力への強い憤りとは対照的な静寂な映像が、やがて苦難の先にある静かな祈りへと導く。

 この映画を観た後に読めば、この映画を見事に言い当てた解説だと思う。
 アマル・カンワル監督自身の言葉を借りれば、こうだ。

 この映画は、政治的な対立における性的暴力の体験を通して、インド亜大陸の歴史を省察していると言える。私はこのような暴力が、個人およびコミュニティにおいて、いかに抵抗され、記憶され、記録されてきたかについて調べたかった。青い窓の内側や、織物の模様の中に秘められた物語が現れては消え、別の表現様式となって生まれ変わった。埋もれていた様々な物語が、寡黙であるが生き残った証人として、ある時は人々、イメージ、記憶の中に現れ、またある時には自然や日常生活の物の中に現れたのだ。すべての物語の中心となったのは、名誉、憎悪、屈辱、そして尊厳と抗議の場としての身体だ。
 映画を撮っている間、突然、深い苦悩の世界から、思索、復活、自尊心の空間へと移動した。

 1947年のインド・パキスタン戦争から、現在、インドからの独立運動が続くインド北東部ナガランドにおけるインド兵による住民女性へのレイプ事件にいたるまで、さまざまな性暴力の証言を、時には目撃者や親族、知人たちの語りで、時にはナレーションで、また時には字幕スーパーだけで表現していく。それを効果的に観る者の心の奥底に届けるために、それぞれの証言に最も似合っていると制作者が考え抜いて選んだに違いない、荘厳な自然の光景、当時の古ぼけた建物、織物の模倣など、さまざまなイメージ・カットがスクリーンに展開していく。“屈辱と憎悪、そして希望と尊厳”の交錯した感情が映像を通して土に水が浸み通るように観る者に伝わってくる、静かで、重く、そして心の奥底に深い余韻を残すドキュメンタリーである。

 この映画の深さは、監督の真摯な動機と、誠実な自問、探求、模索から生まれたものであることは監督自身の言葉から推察できる。

 私は、2005年に実際に撮影を開始するまで、長い間この映画の構想を温め続けてきた。2002年、インドのグジャラートで起こった反イスラム暴動時、女性に性暴力を加える事件がいくつか起こった。暴力自体は珍しいことではないが、これら性暴力には、どこか奇妙な点があった。私には理解できない祝祭の雰囲気があったのだ。それは何を意味するのだろう? 調べたかったが、どこから、そしてどうやって始めればいいのか、どのように見て、聞いて、話せばいいのかさえ分からなかった。そのうち新たな疑問がわいてきた。なぜあるイメージは、他のイメージと異なるのか? なぜイメージには多くの秘密が含まれるように見えるのか? その秘密をあらわにし、多くの無名の人生とつなげるにはどうすればいいのか?

 ドキュメンタリー映画を撮るということはどういうことなのか──私はこの作品と監督の言葉から何かしらのヒントを得た思いがする。

稲妻の証言: The Lightning Testimonies
インド/2007/英語、他/カラー、モノクロ/ビデオ/113分
監督:アマル・カンワル Amar Kanwar

『あんにょん由美香』
(2008年/日本/119分)

 若手の中でも注目されるドキュメンタリストと紹介された監督の作品ということで期待して劇場に入った。しかしまた裏切られた。テーマが「AV女優」だったからではない。その描き方があまりにも薄っぺらで、なんの感動も呼び起こされなかったからだ。

 この早逝したAV女優が生前、韓国のエロ映画に出演していたことを「発見」した監督は、その映画の登場人物、最後には韓国のスタッフたちに会いにいく。そして彼女の「人柄」「演技」がどうであったかをインタビューしていく。それと並行して、かつてこのAV女優を使ったAV映画監督たちに映画の撮影現場まで案内してもらい、また撮影当時の思い出、彼女の「人柄」「演技」を語ってもらう……。「それで何なの? 何を伝えたいの?」と問いたくなる。その女性が「AV女優」になるまでのプロセスでどういう葛藤があったのか、「AV女優」として生きることをどう彼女は考えていたのか、1人の女性として真剣に誰を愛し、「AV女優」としての自分とどう折り合いをつけてきたのか、そしてなぜ彼女は20代で、世を去ったのか……。この映画を観る者の多くが当然抱くであろう関心を、どうして監督は必死に追おうとしなかったのか。そんなことに関心もなかったのか。もちろん亡くなった本人にはインタビューはできないが、彼女の親族や彼女と深く関わった人はいたはずだ。なぜその人たちを探し出し、それを探ろうとしなかったのか。では何のために、この映画を作ったのか。自分の中で、いくらか関わりのあったこのAV女優のことを映画という形にして残しておきたかったのか。それなら、なぜ公開する必要があるのか。先に紹介した映画『私と運転席の男たち』と同様、なぜ自分用にそっと机にしまっておかないのか。そしてまた同じ疑問が沸き起こる。「なぜこの映画がこの映画祭で上映されなければならないのか」と。その直前に、打ちのめされるほど衝撃を受けた凄いドキュメンタリー映画『稲妻の証言』を観た後だっただけに、“作品の深さ”の天と地ほどのギャップを感じてしまったのかもしれない。


 私は「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に、あまりに幻想を抱きすぎていたのかもしれない。世界中から応募された1000を超える作品の中から選び抜かれた力作のドキュメンタリーが上映される国際映画祭だとばかり私は思っていた。しかし、数日、ここで映画を観ているうちに、それは自分の勝手な幻想なのだということがだんだんわかってきた。国際映画祭といっても、その程度のものなのだと思えば、腹も立たなくなる。もちろん、中には、「この映画を観るために高い金を使ってここへ来た甲斐があった」と実感させられる素晴らしい作品もある。それでよしとしなければならないのかも知れない。

山形国際ドキュメンタリー映画祭 公式サイト

つづく

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