Webコラム

日々の雑感 157:
山形国際ドキュメンタリー映画祭2009 (2)

山形国際ドキュメンタリー映画祭2009 (1) からのつづき)

山形国際ドキュメンタリー映画祭 公式サイト

2009年10月11日(日)

『要塞』
The Fortress
(2008年/スイス/104分)

 スイスの難民受け入れ施設での日常を描いたドキュメンタリーである。ここに送られて来るアフリカ、南米、中東出身の難民申請者たちの施設での生活、過去と思い、一方、彼らを難民としてスイスに受け入れるかどうかを“選別”しなければならない職員たちの葛藤などが「観察映画」の手法で克明に、そして静かに描かれている。
 難民申請者たちも、職員たちも、まるでカメラなど見えないかのように動き、つぶやき、語りあう。観ている自分がその現場に立っているような臨場感がある。中でも圧巻は、「難民」かどうかを審査するため職員が申請者にインタビューするシーンだ。訥々と絞り出すように語られる言葉から、その申請者たちの重い過去が浮かび上がってくる。時には、言葉が詰まり、長い沈黙が流れる。アップで映し出される審問者の職員の顔に、“感情を持った人間”の深い同情と、その言葉の真偽を見極めようとするプロの冷徹さが交錯する。観る私たちは、その悲惨な内容に打ちのめされ深く同情し、当然、難民として受け入れられるものと期待する。しかしその直後、スタッフ会議で担当職員が証言の矛盾を鋭く突き、「虚偽の証言」と判断するシーンを見せられる。私たちは自分が難民申請者に乗り移ったかのように、失望し混乱してしまう。

 公の難民申請者受け入れ施設で、なぜこれだけ微妙なシーンを撮影できたのか。撮るカメラが見えているはずなのに、難民申請者たちも、施設の職員たちも、なぜこれほど“自然体”なのか。私は監督自身にどうしても訊きたかった。上映後、劇場のロビーで私は直接、監督に質問した。
 自分と家族もスペインからの密入国者だったフェルナン・メルガル監督は、撮影にいたるまでのプロセスをこう語った。
 連邦政府の施設であるこの収容所に取材を申し込んだら、予想通り、断わられた。そこで監督は知人の優秀な弁護士を通して連邦政府の担当当局と粘り強く交渉し説得した。その結果、連邦政府はついに取材を許可したというのだ。それでも、彼は撮影を急がなかった。まず6ヵ月間、自ら研修生となって施設で準職員として働き、施設内のあらゆる仕事を体験し、施設運営の仕組みと実態を把握した。またその仕事を通して、職員たちとの人間関係を作り、国ごとに分かれた難民申請者たちのグループとそのリーダーとも親しくなった。もちろん申請者たちは次々と入れ替わるために、親しくなった個人や家族がそのまま、6ヵ月後の撮影時期まで留まっていたわけではないが、その関係と人物評は新しく入ってくる申請者たちに話題、評判として引き継がれていった。彼が監督としてカメラマンなどスタッフを連れて施設にいても、職員、申請者たちはほとんど違和感を覚えなかったというのである。
 同じくドキュメンタリーを撮る者として、私はメルガル監督に技術面でもどうしても聞きたかったことがあった。いったい何機のカメラで、何人のスタッフを伴って撮影したのかということだった。職員が申請者にインタビューするとき、語る両サイドが交互に映し出される。私はてっきり1機のカメラは職員側を、もう1機は申請者をずっと撮り続けているのだとばかり思い込んでいた。しかし監督は「1機だけだ」と答えた。双方をほぼ同時に映し出せるように鏡を使い、その双方を撮ったというのだ。「えっ? その手法を知らないの?」とまで言われてしまった。ある被写体と鏡の被写体がほぼ同時に撮れる特殊なカメラもあるという。

 「観察映画」とは、まさにこの映画のような作品のことを言うのだろう。撮影する側から相手に質問したりすることは一切ない。被写体の人物の視線がカメラ側に向けられることもない。とにかく撮影する側の気配が映像からはまったく感じられないのだ。だから、観ている自分が現場に立っているような錯覚を抱くのである。
 カメラワークがまた素晴らしい。合間、合間に現れる周辺の山や森の遠望映像の構図も文句のつけようがないほど決まっていて、うっとりするほど美しい。そして観る者をまったく飽きさせない素晴らしい編集もこの映画を一段と引き立てている。
 ドキュメンタリー制作を修行中の私にとって、その取材プロセス、撮影、そして編集にいたるまで、まさに“教科書”となる作品である。

『要塞』 The Fortress 予告編(1分42秒)

YouTubeで再生: http://www.youtube.com/v/c8QtZar9EAA

『要塞』La forteresse / The Fortress
スイス/2008/フランス語/カラー/35mm/104分
監督:フェルナン・メルガル Fernand Melgar
『要塞』The Fortress: 公式サイト

『生まれたのだから』
Because We Were Born
(2008年/フランス・ブラジル/90分)

 ドキュメンタリーの成否を決める決定的な要因の1つは、どんな“主人公”と出会うかだと私は思う。観客たちが “主人公”の魅力に引き付けられるかどうかで、最後まで観てもらえるかどうかが決まる。どんなにテーマが重要であっても、それを体現する人物が魅力に欠けていれば、そのテーマも観客に届かない。
 魅力ある“主人公”に出会えるかどうかは、もちろん運不運が大きく左右する。同時に、こちら側がどれほど必死にそれを探すか、その努力の程度にも比例してくるだろう。そして何よりも、巷にたくさんいるはずの“魅力ある主人公”を、そうだと見極めるこちら側の嗅覚、感性、審美眼が大きく問われる。この映画のジャン=ピエール・デュレ、アンドレア・サンタナ両監督が主人公となる10代半ばの2人の少年に出会ったのは「偶然だった」という。ブラジルの地方を旅していたとき、たまたま立ち寄ったガソリンスタンドにいたこの2人の少年に話しかけたのがきっかけだったとデュレ監督は上映後のインタビューで説明した。この少年たちの話に引かれ、その家族を訪ねて彼らを主人公にしたドキュメンタリー映画の制作を決めたというのだ。
 極貧の家庭の少年はその日の食べ物を得るためにガソリンスタンドで露天商の手伝いや荷物運びをしながら糊口をしのいでいる。家に帰れば、9人の幼子たちであふれる、父親のいない家庭で、弟妹の世話、家事の仕事に追われる。まったく未来が見えてこない絶望的な環境に置かれた2人の少年が、この生活から抜け出し夢を求めて生きることを語りあう。そんな映画である。起承転結の劇的なストーリー展開があるわけでも、ハッピー・エンドのラストがあるわけでもない。ただその少年の家族や隣人たちの絶望的な貧困の実態と、その中で必死に生きる少年たちの日常の生活を映画は淡々と映し出していく。
 驚かされるのは、この映画でも、登場する人たちがほとんどカメラを意識していないように見えることだ。とりわけ2人の少年がこれからの生活、将来の夢について語り合うシーンは、まるで観ている私たちが透明人間となって、少年たちの息が届くほどの距離で聞き耳を立てているような錯覚さえ起こるほど自然だ。その内容も、「人はなぜ生きるのか」「人の幸せとは何か」といった人生の根源的な問題に関わる会話なのである。上映後、観客から、「この2人の会話は、監督が誘導したものか」という質問が出た。それに対しデュレ監督は、「いっさい干渉していない。少年たちのありのままの会話を撮影しただけだ」と答えた。なぜそれが可能だったのか。監督は「6ヵ月間かけて少年たち、そしてその家族との信頼関係を作っていったからだ」と言う。少年たちやその家族からすれば、これまでブラジル社会からまったく見放され無視され続けてきた自分たちに、初めて同じ人間としてきちんと向かいあってくれた私たちに好意を抱いたのだろうと監督は言う。肝心な点は、監督が「取材対象としての極貧のブラジル人」としてではなく、「対等の人間として、同じ目線で」彼らと接したことだ。公式カタログの中で監督は、こう語っている。

この作品には、ブラジルにおける貧困や暴力を描いて大袈裟な同情を買おうとか、それらをことさら美化しようといった視点はない。ただ大人の世界に居場所を見つけようともがく2人の少年を描いた普遍的な物語というだけである。2人は自分たちが生まれた場所に未来がないことを知っている。映画が描くのはブラジル北東部であるが、実際はどの国が舞台になってもおかしくない話なのだ。

ネーゴとコカーダの2人の素晴らしさはなんといっても、運命に抗うために燃やしている熱意の強さだ。自らの運命を何とかしようともがく2人。彼らの言葉はそれ自体が彼らを結びつけるものの象徴だ。

経済格差のひどいブラジル社会において、この2人の少年は、否定された人生を生きる、目に見えない人々の象徴である。

 それにしても少年たちの暮らす村と家族の貧困、その中で生きる子どもたちの姿はあまりにも絶望的で、観ていて辛くなる。ドキュメンタリーの役割の1つは、観る者に映し出される現場のその現実を突き付けることかもしれない。しかし、そこから何の希望の光も見えてこない。監督が言う「(2人の少年の)運命に抗うために燃やしている熱意の強さ」を打ち消し見えなくしてしまうほどの過酷な貧困の現実だけが私の脳裏に残ってしまうのだ。だから見終っても“感動”が沸き起こってこない。“感動”にはほんの一抹でも希望や人の表情の笑顔、明るさが必要なのかもしれない。それがこの作品には見えてこないのだ。

『アメリカ通り』
American Alley
(2008年/韓国/90分)

 韓国の米軍基地の街で、米兵相手の仕事をするロシア、フィリピンの女性の日常とその葛藤を描いたドキュメンタリーである。監督は基地で働く女性たちを救済する女性団体で働いていた体験を持つ韓国人女性だ。NGO活動を通して、彼女たちとの信頼関係をすでに作り上げているために、そのカメラ前では女性たちはほとんど警戒心を解いているように見える。それでも監督は、公式カタログの「監督のことば」の中で「ロシア人女性をドキュメンタリーにする作業は簡単なことではないと自覚させられる」と告白している。それは映像の中に端的に表れている。複数のロシア人女性が登場するが、こちらが感情移入ができるほど生活や内面の葛藤が深く描かれていないように私には思えるのだ。唯一、自分の孤独を涙ながらにカメラの前で語り、後に米兵のボーイフレンドの子を出産する女性の内面は表現されてはいるが、なぜだろう、観ているこちら側はそれほど感情移入できないのだ。
 米兵と結婚し子どもを産んだフィリピン女性は、その後離婚したが、子どもを引き取ろうと追ってくる米兵を逃れて祖国の家族の元へ帰る。そこでの母子の生活と女性の内面は、ロシア人女性の場合よりはるかに深く描かれてはいる。しかし私は彼女にもそれほど深く感情移入できなかった。おそらく監督が彼女たちを通して何を描きたいのかが見えてこないからかもしれない。なぜ彼女たちの生活を見せられているのかという疑問がずっと最後まで続くのだ。
 もう1人、かつてこの基地の街で米兵相手に働いていた、独り暮らしの老婆が登場する。女性団体で働いていたときに出会い気に入られ、監督が頻繁に出入りするようになったというこの老婆の、孤独で荒んだ生活を監督は丁寧に描いている。ただ、そのシーンが、脈略もなくロシア人女性やフィリピン人女性の映像の合間、合間に挿入されているがために、監督がこの作品で表現したかったテーマをいっそう拡散し、見えにくくしている。老婆と他の外国人女性との接点がまったく見えてこないのだ。かつての韓国人女性で占められていたこの街の米兵相手の仕事が、なぜロシア人やフィリピン人ら外国人女性にとって代わられたのかという時代の趨勢を伝える役割を担って登場する老婆かと思うと、そうでもなさそうだ。
 つまり、撮影に成功した女性たちが脈略なく並べられ、紹介されているだけのように見えてしまう。「現実はわかった。それで?」という疑問が私の中にどうしても残ってしまうのである。それが私にとって、この作品を“消化不良”のドキュメンタリーと感じさせるのかもしれない。

『モンキーマンの街角』
Chronicle of an Amnesiac
(2007年/日本/30分)

 NHKハイビジョン「シリーズ ドキュメンタリー 熱インド」の番組として制作されたこの作品は、かつての古いコルカタ(カルカッタ)の建物や風物を訪ねる紀行ドキュメンタリーだが、まったくなんの感動も呼び起こされなかった。また「なぜこんな作品が山形映画祭で?」という疑問が湧き起った。

『サーミア』
Samia
(2008年/シリア/40分)

 パレスチナ人画家サーミアの抽象画を題材に、ヨルダン川西岸の街ラマラのオリーブ畑や庭の映像が映し出される。「パレスチナ」という言葉に引かれて劇場に入ったが、何を見せたいのかわからない、ひどい素人映像に気持ち悪くなって、すぐに出た。

『馬鹿は風邪ひかない』
The Fool Doesn't Catch a Cold
(2008年/韓国/18分)

 2007年の韓国大統領選挙のテレビ実況中継を見ながら酒を飲む2人の青年の会話に、過去の大統領選挙、民主化運動の資料が次々とオーバーラップされる。20分程度のこの作品も、まったく何を伝えたいのか私には意味不明。「実験的、新しい手法のドキュメンタリー」として選ばれたのだろうか。私にはまったくの駄作に見えた。

つづく

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