2010年2月20日
『中国新聞』コラム「緑地帯」連載
(2010年1月27日〜2月5日・全8回)
元イスラエル軍将兵の加害証言ドキュメンタリー映画『沈黙を破る』が、2009年3月に完成し劇場公開が決まったとき、私は配給元のシグロに、2県だけはどうしても劇場上映したいと願い出た。1つは生まれ故郷の佐賀、もう1つは広島である。
広島は大学時代(広島大学総合科学部1期生)、そしてYMCAでの教師時代を含め、ほぼ7年間を過ごした、いわば第2の故郷だからだ。私が“パレスチナ”と出合ったのも学生時代の世界放浪の途上であったし、ジャーナリストとなって現地取材で心身共に疲れ果てたとき、また将来の展望もなく挫折しかけたとき、羽を休める場を提供してくれたのも広島の学生時代の旧友たちだった。
“ヒロシマ”からも大きな影響を受けた。学生時代から親交のあった被爆者、故・富永初子さんは、日本の加害歴史をも視野にとらえた数少ない被爆者の1人だった。彼女に導かれるようにして、私は2重の被害者である在韓被爆者や、旧日本軍「慰安婦」の韓国人女性たちを追うようになった。
ライフワークとして20数年間追い続ける“パレスチナ”、そしてもう1つのテーマとなった“日本の加害歴史”──接点がまったくないように思えたこの2つが初めて私の中で1つになったのが、『沈黙を破る』だった。自らの加害を語る元イスラエル軍将兵たちに私は、アジアを蹂躙(じゅうりん)した旧日本軍将兵たちの姿を重ね合わせたのである。
映画『沈黙を破る』は、元イスラエル軍将兵が、占領地のパレスチナ人住民への加害の実態と、それが兵士個人と社会を破壊していく現状を告白する証言ドキュメンタリーである。そのイスラエルの“加害の現実”と“日本の加害歴史”とはどこが同じで、どこが違うのか。それを観る人に喚起させるのが、遠い“パレスチナ”を“日本”に引き寄せる方法だと私は考えた。そのための要となったのは、精神科医、野田正彰氏だった。野田氏は名著『戦争と罪責』の中で、中国で残虐行為を繰り返してきた旧日本軍将兵への徹底した聞き取りで、その内面を克明に描き出した。私は元イスラエル軍将兵たちの証言原稿を野田氏に送り、旧日本軍将兵たちとの比較をお願いした。果たして、いくつか普遍的な事象が浮かび上がってきた。兵士個人の倫理観・道徳心が加害を繰り返すなかで鈍麻していく実態、また自分の良心が傷つかないために敵を差別し“非人間化”することで“心の鎧(よろい)”をまとう姿はその象徴的な1例だ。
一方、イスラエル将兵とその社会を“鏡”にして、日本社会の体質も透けて見えてくる。例えば、イスラエルには将兵たちの加害の証言を“聴き、受け止める社会”があるのに対し、日本には自国の加害歴史を語る声を受け止める下地がなく、家族など周囲がその声を押し留める圧力さえ加える日本社会の偏狭さが浮き彫りになる。映画『沈黙を破る』を観る人が、パレスチナ・イスラエル問題を超えて、私が伝えたかったそんな普遍的なテーマを読み取ってくれればうれしいし、日本人の私がこの映画を作る意義はまさにそこにある。
日本人には“パレスチナ”は遠い。地理的な距離だけではなく、心理的な距離においてもだ。だから、湾岸戦争やイラク戦争、レバノン攻撃やガザ攻撃のような、日本の政治・経済にも影を落とす中東での紛争でもない限り、パレスチナが日本のメディアの表舞台に上がることはほとんどない。その取り上げ方も、殺戮(さつりく)や破壊などセンセーショナルな事象が中心で、それが見えなくなると報道も消える。そして日本人は、あたかも中東に「平和」が戻ったかのような錯覚に陥る。
最近の例で言えば、一昨年暮れに起こったガザ攻撃だ。新聞の国際面を連日埋めたこの事件も、3週間後に戦闘が終結すると、潮が引くように紙面から消える一方、産油諸国や米国らによるガザ「復興支援」話など「明るい」話題が現れ、「ガザに平和が戻った」と多くの日本人は誤解した。しかし、ガザ住民の惨状は、1年が過ぎる今なお、ほとんど改善されないままだ。封鎖という“占領”が連綿と続いているからである。
広島市の面積の40%ほどしかないガザ地区に、150万人の住民が暮らしている。その8割が、イスラエル建国時に故郷を追われた“難民”だ。域外との出入り口を封鎖され、破壊された家々の再建に不可欠な建設資材はもちろんのこと、食料や医療品など生活物資の搬入も厳しく制限されている。また、がん患者などガザ地区内での治療が困難な患者たちも、治療のためにガザを出ることもままならない。以前と変わらない住民の窮状は今も延々と続いているのである。
広島大学生だった私が“パレスチナ”と出会うまでには紆余曲折があった。少年時代から医者への道を追い求めてきた私には、6月入試の第1期総合科学部は仮の居場所だった。だが翌年、医学部入試に4たび失敗し、私は完全に行き詰まった。大学に残る意味さえ見失いかけた私は、新たな人生の目標を探すために世界放浪の旅に出た。
目指したのは、あこがれた「アフリカの聖者」シュバイツァー博士の墓だった。さまざまな事故を乗り越えて半年後にやっとたどり着いたが、その墓の前に立っても新たな目標は全く見えてこなかった。
転機はサハラ砂漠縦断中に訪れた。1ヵ月に及ぶトラックの旅で出会ったのが、数年イスラエルで暮らす日本人青年だった。「イスラエルを知らずして世界を知ったなどと思うな」と言うこの青年は、夜ごと、砂漠に寝そべり満天の星空を見ながら、その国の素晴らしさを語ってきかせた。私の中に「理想郷」のイメージが膨らんだ。ヒッチハイクでたどり着いたパリで、旅行中の3人のイスラエル人青年と1ヵ月間、同居する偶然に、私はイスラエルへ行くべき宿命さえ感じた。
日本を出て8カ月後の1978年1月、私はイスラエルのキブツ(農村共同体)に入った。搾乳所で働きながら、キブツ住民や他国のボランティアと交流する「社会主義の理想郷」での生活の中で、「次に生まれてくる時は、ユダヤ人としてイスラエルで」と公言してはばからない親イスラエルの青年に変貌(へんぼう)していった。そんな私を180度変える転機となったのが、ボランティア仲間に誘われた“ガザへの旅”だった。
ガザで最初に訪ねた先は難民キャンプだった。すき間なく建ち並ぶトタンとブロック造りの家々、悪臭を放つ下水とごみだらけの道。緑に囲まれた美しいキブツとは対極の別世界だった。私たちは青年たちに囲まれ詰問された。「どこから来た?」「日本人だけど、今はキブツに住んでいる」と私が答えると、青年の1人が問い返した。「そのキブツがもともと、誰の土地か、君は知っているのか?」。それが、私の“パレスチナ”との出会いだった。
1953年生まれの私は、いわゆるベトナム戦争世代だ。だが佐賀の田舎で育ち、医者への道しか頭になかった私は、海外や国内の社会・政治問題にも全く関心もない「ノンポリ」青年だった。だからこそ、初めて五感で触れた国際問題“パレスチナ”に私はその後の人生を変えるほどの衝撃を受けたのだろう。
「この人たちのことを勉強したい」。それまで学ぶ目的がわからず、講義にもほとんど出なかった私が、初めて“学ぶ動機”を得た。1年半の放浪の後、復学した私は、国際関係論に専攻を変えた。当時、広島大にはパレスチナ問題の専門家はおらず、現地から新聞や研究誌などを取り寄せ、独学した。
卒業論文は「パレスチナ人の基本的人権に関する一考察」。当時、ベトナム戦争下での人権侵害を体系的に分析した広島大教授、故・芝田進午氏の手法を占領下のパレスチナに応用したものだ。その後28年間のジャーナリストとしての私の仕事は、卒論で追った問題意識と視点を、現地取材で探求し活字や映像で表現していく作業だったような気がする。
ガザの“封鎖”がもたらすのは目に見える惨状だけではない。工業の原材料の搬入も、工業製品や農産物の搬出もできず産業は崩壊した。その結果、失業率は60%を超え、若者たちは大学を出ても職はなく、一方、封鎖で留学にも出られない。八方ふさがりの若者たちは将来への“希望”を奪われるのだ。
封鎖下のガザ住民は、武器で殺戮(さつりく)されなくても、真綿で首を絞められるように生きる希望を絶たれ“殺され”ていく。私たちはガザ攻撃に象徴される目に見える暴力には気づいても、人間から生活基盤と生きる希望を奪う“占領”には気づかない。しかしガザ住民が最も恐れるのは、世界が注目し糾弾の声を上げる空爆や砲撃など可視的な“暴力”だけではない。国際社会に黙殺される中で日常的に続くこの“占領”という“構造的な暴力”こそ、彼らを圧殺する元凶なのだ。
あのガザ攻撃を約90%のユダヤ系イスラエル市民が支持した。彼らは「イスラエル南部は長年、ガザからのロケット弾攻撃にさらされながら耐えてきた。もう我慢の限界だ。ガザ住民は今、その報復を受けているんだ」と攻撃を正当化する。だが、彼らに全く見えていないことがある。「パレスチナ側のテロとイスラエル側の報復」「暴力の応酬と悪循環」という“現象”ではなく、パレスチナ側を攻撃に駆り立ててしまう“占領”というパレスチナ・イスラエル問題の“構造”だ。自分たちが“占領”によってパレスチナ人を踏みつけ続けている現実に、大多数のイスラエル市民は目を背け続けているのである。
なぜイスラエル人には加害の認識がないのだろうか。「国民は事実を知ってはいるが、“痛み”を感じないのだ」と言うのはホロコースト生存者を父に持つ、エルサレム市議会議員メイル・マーガリット氏だ。“痛み”を感じさせない“心の鎧(よろい)”が「ホロコースト・メンタリティー」だと氏は指摘する。「自分たちユダヤ人は史上最悪の残虐を受けてきた最大の犠牲者なのだという意識が、自分たちが他者に与える苦しみへの『良心の呵責(かしゃく)』を麻痺(まひ)させている」というのだ。私自身、現場で「2度とホロコーストを体験しないために、少々の犠牲は仕方ない」と、パレスチナ人への加害を正当化するイスラエル人の声を何度も聞いた。
真の被害者たちを置き去りして、「自国民が受けた被害は特別で、他の被害とは比較にならない」と主張し、自国の被害を加害の現実と歴史の“隠れみの”にする例は、何もイスラエルに限ったことではない。“ヒロシマ”もまた、日本の加害歴史を否定する勢力によって“隠れみの”として利用されてきた一面があると指摘する声は、日本の侵略で何千万人ともいわれる犠牲を強いられたアジアの人たちの中に少なからずある。また、日本の平和主義が「被害者としての自覚に支えられた」(政治学者・藤原帰一氏)という指摘もある。つまり加害の視点が加わると、その「平和主義」の基盤が揺らぐのだ。“ヒロシマ”の弱点も、まさにそこにあるような気がする。
「ヒロシマこそ世界の戦争犠牲に最も敏感に反応する」という期待を裏切られた体験が私にはある。1991年1月、湾岸戦争の勃発をイスラエルで体験し、広島に帰ってきた私は拍子抜けした。世界を揺るがす戦争が起こっているというのに、反戦デモはほとんど起こらないのだ。ある市民から「あそこでは核兵器は使われていないから」という声を聞いた。「これが平和の象徴・ヒロシマなのか」と思った。
核兵器の廃絶を「平和」の中心に据えるヒロシマ。そこにこそヒロシマの存在意義があることは分かる。しかしその平和の定義だけでは、「平和」を破壊する多種多様な要因を抱える現在の国際社会では、十分な説得力を持たない。ならば「戦争のない状態」が平和なのか。その定義にも私は納得できない。「では、今のガザはどうなのか」と問わずにはいられないのだ。たしかに戦闘はやんだ。しかし住民は“占領”という“構造的な暴力”の下、生きていくための最低限の条件さえ奪われている。
翻って自殺者が3万人を超える現在の日本はどうか。非正規労働者、「ワーキング・プア」「ハウジング・プア」と呼ばれる人たちに“平和”はあるのか。私は“パレスチナ”と長くかかわるうちに、「平和とは、人間が人間らしく、人としての尊厳を持って生きていける状況」と定義するようになった。ヒロシマが、第三世界の人たちをも納得させうる“平和のメッカ”となるには、もっとしなやかで普遍的な平和の定義を再構築する必要があるような気がする。
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