2010年5月5日(水)
『沈黙を破る』が劇場公開されて1年と3日が経った今日、『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』4部作の残りの3部作DVDが発売された。第1部『ガザ─「和平合意」はなぜ崩壊したのか─』、第2部『侵蝕─イスラエル化されるパレスチナ─』、第3部『二つの“平和”─自爆と対話─』である。『沈黙を破る』のDVDはすでに3月初旬にDVD化されている。
このパレスチナ・ドキュメンタリー映画シリーズ4部作の制作を思い立ったのは2006年夏だった。当時すでに、綿井健陽氏の『リトルバード』や古居みずえ氏の『ガーダ』など、周囲のジャーナリストたちが次々とドキュメンタリー映画を制作し劇場公開していた。彼らに大きな刺激を受けたし、これまで遠い存在だと思い込んでいた映画制作がとても身近に感じられるようになった。
パレスチナ・イスラエルで十数年にわたって取材し撮影してきた映像は、それまで断片を数多くのテレビ・ドキュメンタリー番組として発表してきたが、それらは所詮、テレビ局の番組であり、自分の作品とは言い難い。活字ではこれまで何冊かの書籍で自分の作品を残してきたが、映像では「自分の作品」として残るものは、初めて自分で編集した『ファルージャ 2004年4月』以外になかった。とりわけ十数年、撮りためてきたパレスチナ・イスラエルは、このままでは他人の目に触れることなく引き出しの中で眠ってしまうことになる。それではあまりにも悔しいし、もったいない。もし、それまでの十数年の映像を映画にまとめられれば、映像も自分の作品として残せるし、その映画制作の過程そのものが、自分の“パレスチナ・イスラエル”との関わりの歴史と、自分にとってその意味あいを辿り反芻する絶好の機会となると思った。
あれからほぼ3年にわたり、編集用に買ったパソコンの前で、4本の映画の孤独な編集作業が続いた。幸い私には、10数本のNHK・ETV特集の番組制作で長年、優れたディクターや編集者の方々から厳しい指導を受けながら自作の編集に関わってきた経験があった。それがなければ、全作品を自分で編集するという冒険は敢えてやらなかっただろう。
またパソコン音痴の私が、若い編集者から1週間ほどパソコンによる編集技術を、文字通り「50の手習い」で学び、『ファルージャ 2004年4月』を試行錯誤しながら独りで完成させた自信もこの冒険を踏み出す支えになった。
それにしても、「ADHD(注意欠陥多動性障害)の傾向が強い」と発達障害に詳しい妻から指摘されるくらい、部屋の中にじっとしていられない私が、よくもまあ、3年あまり独り部屋にこもって編集作業が続けられたものである。
それは、「編集」という作業がおもしろかったからだ。妻によれば、先のADHDには「自分がつまらないと判断したものにはまったく我慢できないが、興味・関心があるものには集中できる」という症状があるそうだ。私の場合、その典型ともいえる。編集作業は、細かいパズル片を試行錯誤しながら並べ変えながら、1つの絵を完成させていくジグゾーパズルの遊びのようにおもしろく、私は夢中になった。しかも編集作業の完成作品は1つの決まった絵ではなく、その構成次第で無限に絵ができる。そのパズル片の1つ1つが、自分自身で撮影した映像であれば、そのおもしろさはなおさらである。
一方、「映画の編集に没頭する」ということはつまり、すぐに収入につながる仕事ができないことを意味する。収入を度外視して3年にわたって編集に没頭できたのは、経済的に自立している妻に負うところが大きい。ただ私自身の名誉のために、誤解のないように明記しておかなければならないのは、私はこの間、決して妻に養われていたわけではない。これまでの自分の貯金を食いつぶしていたのだ。ただ正直に白状すれば、映画制作の期間が延びて貯金を食いつぶしてしまったら、その時は「九州男児の意地」もさらりと捨てて、彼女に頼るしかないと腹を決めていた。「私はあなたに“夢”をあげます。だからお金ください」と。
ただこの“セーフティー・ネット”が私に長期の映画制作に踏み出す決意をさせる重要な要因の1つとなったことは間違いない。私が独身だったら、臆病な私は怖くてできなかったろうと思う。そして孤独で、先行きの見えない不安に悩まされ続けるなか、何の根拠もないのに「この人なら、できる!」と無邪気に、そして無謀に信じ込み、励まし、精神的に支えてくれた妻にどれほど救われてきたことか。
莫大な資金を必要とする映画制作の費用を支えてくれたのは、300人を超す方々からの「土井敏邦 パレスチナ記録の会」への支援金だった。その支援金だけではもちろん4部作制作と『沈黙を破る』の劇場公開の全費用を賄うことはできなかったが、これがなければ自己資金のほとんどなかった私は踏み出す勇気はなかっただろう。費用の面だけではない。それほど多くの方々から期待と支援を寄せていただいたことは精神的に大きな励みであり、また同時に「頓挫したら、支援してくれた人たちに対し自分は“詐欺師”になってしまう。どうしても失敗は許されない」という、いい意味でのプレッシャーともなった。
編集中、映像のプロたち、中東問題に詳しいジャーナリストや研究者たちなど、たくさんの方々からアドバイスをいただいた。とりわけ七沢潔氏、東野真氏、山口智也氏などNHKの友人たちには、何度も試写に付き合ってもらった。パレスチナ・イスラエル問題に詳しい臼杵陽氏にも貴重なアドバイスをいただいた。
具体的に映画を制作する段階でも、素晴らしいスタッフに恵まれた。とりわけ半年間の仕上げの編集段階で、若い編集者・秦岳志氏は 私の“伴走者”として重要な役割を担ってくれた。私の荒削りの編集を映画に値する編集にまで練り上げ仕上げてくれたのは彼である。秦氏はまた、DVD化の最後の複雑な調整や英語版作成のためにテロップ作成など、最後の最後まで献身的に作業を続けてDVD映像を完成してくれた。
そして製作者の山上徹二郎氏。彼との出会いがなければ、『届かぬ声』の4部作が世に出ることはなかったろう。2006年暮れだったろうか、「シグロ」を探し当て、初めて会った山上氏に私は「4本の映画を作りたい」と単刀直入に伝えた。半信半疑の彼はそのとき即答を避けた。ただそのとき、彼は私に自分の経歴やドキュメンタリー映画観を語った。私とほぼ同年齢の山上氏の話を聴きながら、私が半生を賭けてやってきたこの仕事の映画化を、この人になら委ねてもいいと直感した。そうさせる“志”と“誠実さ”を観てとったからだろう。ドキュメンタリー映画製作の長年の経験から、「パレスチナ問題を知らなくても伝わる、普遍性を持った4部『沈黙を破る』は映画として劇場公開に、パレスチナ・イスラエル問題を知らないと取っつきにくい他の3部はDVD化に」という、今思えば的確な判断を下したのも山上氏である。
山上氏の他もう1人、4本の粗編集版を最初から全部観て、1本ごと的確な批評とアドバイスをしてくれたのは、ドキュメンタリー映画監督ジャン・ユンカーマン氏である。『届かぬ声』4部作全作の英語版制作も、ユンカーマン氏の力なしでは不可能だった。
DVD化の最終段階まで、監督の私と、編集者の秦さん、そして英訳を担当したユンカーマン氏の間の修正に継ぐ修正と調整のために尽力してくれたのは、シグロの西晶子氏だった。
彼女は映画『沈黙を破る』の宣伝・広報も担当し、その劇場公開、自主上映アレンジのすべてを一手に引き受けてくれた。いわば『沈黙を破る』を日本中に広げていく原動力となった人だ。
5月1日、『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』3部作BOXの見本が初めて私の元に届いた。佐野佳子さんがデザインした美しく品のあるBOXと各DVDのジャケットがまぶしかった。それを手にするとすぐ、私は3本のDVDが並ぶBOXの隙間に仮に入れてあるスポンジを、すでに3月にDVD化されていた『沈黙を破る』と入れ替えた。それでBOXの中にぎっしりと第1部から第4部までDVDが並んだ。
私は感無量だった。これが4年間にやってきた仕事、いや1993年秋以来やってきた仕事の集大成なのだと思うと、そのBOXと、その中に行儀よく並んだ4本のDVDが言いようもなく愛おしかった。
DVD-BOX『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』
DVD『沈黙を破る』
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