Webコラム

日々の雑感 162:
映画『ミツバチの羽音と地球の回転』を観て

2010年5月7日(金)

ポスター
拡大

 『ミツバチの羽音と地球の回転』というタイトルに、私はてっきり「ミツバチの生息を観察したり、土の中にマイクを埋め込み『地球の回転』の音を聞かせたりするドキュメンタリーなのか」と思っていた。しかし最後まで「ミツバチ」は登場しないし、「地球の回転」の音も聞かせてもらえなかった。
 「脱石油・脱原発」を決め、自然と共生しながら「持続可能な社会」を求めて生きようとする山口県の島、祝島とスウェーデンの町の住民たちの姿を丁寧を追った映画である。
 石油や原発に頼り経済を「発展」させ「豊か」になることが、人の幸せだと信じて疑わない大多数の人たち、とりわけ私たち都会人たちの“生き方”を静かに、しかし強烈に問い、「で、あなたはどういう生き方を選びますか」とこの映画は観る私たちに問いかける。

 「反原発」「基地反対」などの運動を伝えるドキュメンタリー映像や写真で真っ先に浮かんでくるイメージは、「反対」の横断幕、幟(のぼり)の前で、鉢巻き姿の住民たちが「建設反対!」「原発は出て行け!」とシュプレヒコールを叫び、拳を突き上げる、いつもニュースで観るあの光景だ。しかも多くがおばさんや老婆たちだ。今までそのような映像や写真を見慣れすぎているせいか、風景として見過ごし、心に残ることはあまりなかった。
 しかしこの映画で、私は初めて、あのおばさんや老婆たちの思いを感じ取ることができた。なぜか。それはあの抗議行動の前に、そう駆り立てられていくあの住民たちの生活と生き様がきちんと描かれているからだろう。あの人たちの気持ちにこちらが寄り添うことができるまでに、生活、生き様を観てしまったからだ。「おばさんや老婆たち」だけではない。ひたすら農地と海に張り付いて生きる年老いた男たち、そして若い「タカシ」君とその家族の生きる姿に、「食っていくのはたいへんだろうなあ」「でもいいなあ、ああいう生活と生き方」……といった思いが湧き起こる。そして「それで、お前はどうなんだ? 都会の便利さと『豊か』の恩恵にどっぷりつかって、金のかかる生活を維持するために汲々とした日々の仕事と雑事に追われる今の生き方のままでいいのか?」という問いを投げかけられるのだ。
 住民たちの生活や生き様を見せられ、共感と憧憬、そして反省と後悔など複雑な気持ちを味わった直後に、あの抗議行動の光景を見せられると、まるで自分もあの座り込みに加わっている気持ちになってしまう。そして埋め立て工事の準備のためにやってきた大型作業船に、客席にいる私も住民といっしょに「帰れ!」と心の中で叫んでしまうのだ。

 高所から俯瞰するように「問題」を描くのではなく、そこで生きる人間を、その生活と生き様、内面をきちんと描くこと、その等身大の視点から問題の“構造”を透かして見せていくこと――地理的にも心理的にも日本人に遠い“パレスチナ・イスラエル問題”を映像で伝えるときに私自身も最も留意し努力していることだが、その“お手本”をこの映画で見せてもらった。

 鎌仲ひとみ監督は、こう書いている。

「『持続可能』という言葉は実は多様な意味を含んでいます。その中でも私が最も大切だと考えるのは自然に逆らわないということです。今回の作品で表現し、伝えたいと思っているのは普段私たちが見過ごしている自然環境の大きな力です。それを敵にするのではなく、共に生きるという感覚です」

 イラク、六ヶ所村の現場で多くの当事者たちと出会い、怒り、感動する体験を通して鎌仲氏の中で醸成されてきた“人生哲学”なのだろう。この映画に描かれている祝島、スウェーデンの町の住民たちの等身大の“生きる姿”を通して、鎌仲氏のこのメッセージは間違いなく、強烈に観る人に伝わっている。

 鎌仲氏はまたこうも書いている。

「一方で絶望的とも思える現実を直視しながら、もう一方で今、存在する可能性と希望を、それがたとえどんな小さくともあきらめない、そんな眼差しを持ってこの映画を制作したいと望んでいます」

 この鎌仲氏の言葉に、“表現者”“伝える人間”としての、謙虚さと共に高い“志”と“情熱”を私は読み取った。私自身、“表現者”“伝える人間”の1人として、自分の姿勢とあり方がこの映画の“鏡”に映し出され、改めて問われる思いがした。

(『ミツバチの羽音と地球の回転』は、2010年6月より全国順次公開予定)

ミツバチの羽音と地球の回転

次の記事へ

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp