2010年5月27日(木)
今回の東北の旅の中でも、この朝の体験は、ラジにとって忘れ難いものになったにちがいない。山中のブナ林の入り口で車を降りた私たちは、昨日買ったばかりの長靴をはいて林の中に入った。この林は原生林ではなく、一度原生林を切り倒した後に人工的に植林したブナの林、つまり二次林だ。それでも2、3メートルほどの間隔で高くそびえ立つブナの木々が延々と続く林は荘厳である。聞こえてくるのは鳥の鳴き声と下草を踏みしめる私たちの足音だけだ。ブナの幹は大量の水を吸い上げ、その音が聞こえるという大治氏の説明に、ラジはその太い幹に耳を押しあてた。
林を抜けると草原だった。そこに清流をたっぷりたたえた渓流があった。7年前も京都の山奥で渓流をみつけたラジはしばらくそこを離れず、じっと流れをみつめていた。ガザでは絶対に目にできない光景である。ラジは清流に長靴の足を踏み入れた。少年のようにはしゃいでいる。
草原には湿地沼が点在し、そこに水芭蕉が顔を出していた。ふたたび林に入った。奥から激しい水の音が聞こえてきた。滝だ。これもラジにどうしても見せたい光景だった。住民が水不足に苦しむガザで暮らすラジは、清流がふんだんに流れ落ちるその滝をどういう思いでみつめていたのだろうか。水しぶきを上げる滝をみつめたまま、ラジはしばらくその場を離れようとしなかった。
私がラジの休息の場所として八幡平(はちまんたい)を選んだのは、八幡平山頂の湖と湿地帯の散策をさせたかったからだった。私たちはその山頂に向かった。しかし、途中から深い霧に見舞われ、やっと着いた山頂近くは雪で覆われていた。しかも背丈をはるかに超える積雪である。もちろん私が見せたかった湖も雪に埋もれ、湿地帯の散策など望みようもなかった。雪の上に立つラジの記念写真を撮ると、すごすごと帰路についた。「この季節の日本でラジに雪をみてもらうのも一興ですよ」と、悔し紛れと負け惜しみを吐きながら。
1日半の短い東北の旅だったが、ラジは十二分に楽しみ、リフレッシュできたようだった。これは一重に、何日も前から旅の計画を立て、万全の準備でラジを迎え入れてくれた大治夫妻とミッセールさん、それに仕事を休んで運転を引き受けてくれた「ロイヤル・ドライバー」の「クマさん」、最高の旅コースを案内してくれた「お殿様」たちのお陰である。ラジが帰りの新幹線の中で私に言った。
「これほどの自然と、そしてこれほどの暖かいもてなしを体験したことがない。一生忘れられない思い出だよ」
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