2010年5月29日(土)
早朝、ラジはカイロの妻からの国際電話で起こされた。ラジはエジプトに戻るとき、必ずその時間と便名をエジプト政府の治安当局に通知し許可を得なければならない。エジプト当局にとってパレスチナの人権活動家ラジ・スラーニは「要注意人物」なのである。その通知と許可申請をカイロの奥さんが一手に引き受けている。今朝の電話は帰りの便名の確認のためだった。もしこの通知を怠れば、ラジは空港からガザへ「強制送還」されることになる。
昨日は、ガザのパレスチナ人権センターのスタッフとの長い電話の中で、ラジは珍しく激昂していた。電話を終えたラジが、その事情を私に語った。
ラジたちパレスチナ人権センター(PCHR)はガザを実効支配するハマス政府が独断で決めた死刑制度について、公に抗議する声明文を出した。これに対し当局は、ハマス系の新聞の記事を通じて、PCHRとラジに対する攻撃を開始したという報告をスタッフから受けたのだ。
その直前には、イスラエル当局が公表した数十ページにおよぶパレスチナの治安状況に関する報告書なかで、PCHRが国際的にイスラエルのイメージを「歪め」「偽りの情報を流布する」重大な役割を果たしている「危険な組織」として明記されたという。
「私はイスラエルからはもちろん、エジプトからも、そしてハマスからも嫌われているよ……」。沈んだ顔つきで、ラジには珍しく吐き捨てるように言った。四面楚歌の状況に置かれ、ラジは相当、精神的に参っているようだ。
1995年春、当時のパレスチナ自治政府(PA)のアラファト議長が軍事裁判の設置を決めた。ラジが率いる人権団体が公に抗議声明を出した。これにアラファトは激怒し、ラジを逮捕した。パレスチナ内外からの激しい抗議に屈して自治政府は直ちにラジを釈放したが、その後、人権団体の理事たちに圧力を加え、ラジをその人権団体から解雇した。スタッフたちはその理不尽な解雇に抗議してほぼ全員が辞表を提出し、ラジと行動を共にすることになった。今後どうするかをラジの事務所で彼を囲んでそのスタッフたちが話し合った。私はその現場に居合わせ、話し合いを撮影した。その話し合いの結果生まれたのが、現在のパレスチナ人権センター(PCHR)である。あれから15年の歳月が流れたが、あの時と同じような状況がラジとPCHRの周辺で生まれつつある。
最後の日は、ラジは私の家にこもり、今回の日本訪問の報告書をガザのオフィスに書き送ったり、山積した諸問題の対策のために現地スタッフたちとの電話とメールでのやりとりに追われた。
帰国準備に追われるラジが私にこんな話をもちかけた。
「日本から若い学生か研究者をガザのPCHRに『インターン』として送ってくれないか。そのための経費はPCHRがいっさい持つ。数ヵ月でも1年でもいい。人選は君に任せる。君が適切だと選んでくれたら、その青年を引き受けるから」
ラジは、ガザの現状を直接、日本に伝えてくれる若い人材を求めているようだ。私も賛成だ。将来、パレスチナ・イスラエル問題の研究者を目指す若い人たち、または国際法や国際人権法を現場で学びたい学生・研究者たちが、ガザの生々しい現場で、ラジ・スラーニや彼が率いるパレスチナ人権センターのスタッフたちに鍛え上げられながら、現場で生きる人びとたちの現実とその思いを五感で感じ取り、身体に刻み込む機会を得ることは他では望みようもない貴重な体験となるし、それがまた研究を続けていく上で、自分を支える揺るぎない動機となると思う。
とりわけ日本では、パレスチナ・イスラエル問題、中東問題の研究者、専門家と言われる人たちの中に、現場、とりわけ住民の等身大の姿を肌で知っている人がもっと増えるべきだと私は感じている。“現場”に根差す研究者が多く出てくることは、そのレベルを上げる上で不可欠だと思う。こういう私の意見に、「現場での取材に頼り過ぎ、ミクロな現象しか捉えらず、マクロの視点のないジャーナリストとは、研究者や専門家は違うのだ」という反発もあろう。しかし過去の歴史事実の研究ならともかく、同時代に現在進行形で起こっている現場での事件や事象をメディアなど公の場で「解説」「論評」する専門家と言われる人たちが、現場の“人”や“空気”を肌で知らないで、海外の新聞・テレビ報道、インターネットなどからの情報、論評など第2次資料を元に、まるで雲の上から下界を見下すかのように語るのは、あまりにも無謀である。何よりも、“流れ”を読み違え、“現場”の実態や現実、問題の核心や本質からは大きくズレた「解説」を大衆に伝えてしまうことになる。
日本にも、“現場”を身体で知る研究者がもっとたくさん出て来てほしいと願っている。その1つの機会として、パレスチナ人権センターでの「インターン」制度を活用するのは有効だと私は思う。
ラジは、休息を取って元気を取り戻すと、電車やタクシーなどで移動中も、とにかく近くに話しを聴いてくれる相手がいれば、語らずにはおられない。
今回も数日、彼と過ごすなかで、これまで20数年の長い付き合いの中でも決して聞くことのなかったいろいろな事柄ついて、ラジは私に語ってきかせた。仕事のこと、ガザの状況についてはもちろん、子どもたちや奥さんのこと、世界各国に散る友人たちのこと、各国での講演旅行での数々のエピソード、父親や母親など家族との過去の思い出などその話題は尽きない。
帰りの成田までの電車の中で、ラジが興味深い話を私に語って聞かせた。それはラジがアメリカ・コロンビア大学の特別研究員としてニューヨークに滞在中の1990年代初頭の頃の話である。
雪が舞うある冬の日の夜、午後11時を過ぎてから、近くに住むエドワード・サイードから電話がかかってきた。著名な在米パレスチナ人思想家サイードは、コロンビア大学の教授で、ラジがニューヨークに住み始めて以来、同じパレスチナ人として親交を深めていた。そのサイードからの深夜の電話である。「ラジ、今君は忙しいかい?」とサイードは訊いた。「別に忙しくはないが、どうして?」とラジが訊き返すと、「よかったら、私の家に来ないか。飲みながら君と話がしたんだ」とサイードが言う。「でもエドワード、もう夜中だよ。しかもそれは雪が降っているし……」とラジはやんわりとサイードの申し出を断った。「そうか。残念だなあ」と言って、サイードは電話を切った。横で電話の会話の一部を聴いていた妻のアマルが、ラジに訊いた。「誰から?」と訊くアマルに「エドワードだよ」「それで何だって?」「これから家に来ないかって。でももう遅いからと断ったよ」とラジが答えると、アマルは突然、大声をあげた。
「ラジ、あなたって人はなんて馬鹿なの! エドワードは、なぜこんな夜中にあなたに電話をしてきたと思っているの? 彼は今、あなたと話がしたいのよ。今、彼はあなたを必要としているのよ。なぜそれがわからないの。今すぐにエドワードのところへいってらっしゃい!」。それは有無を言わせない強い調子だった。そのアマルの言葉の勢いに押されるように、夜中、ラジは雪の中をタクシーでサイードの自宅へ向かった。
夜中にわざわざやってきたラジを、サイードは喜んで迎え入れた。2人は酒を飲み交わしながら、いろいろなテーマについて語り合った。話題は宗教の話になった。「君は神の存在を信じるかい?」とラジはサイードに訊いた。すると、サイードは「それを“神”と呼ぶかどうかは別にして、私は自分の運命を支配する何か大きな存在があると感じるんだ」といった旨のことを語った。話はさらにイスラムについて議論に移った。その具体的な内容についてはラジは語らなかったように思う。いや語ったのかもしれないが、私の記憶にない。ジャーナリストなのだから、カメラを取り出して記録すべきところだが、そのときはどうしてもそんな空気ではなかったし、また私自身、そんな気分でもなかった。親友ラジとの最後のプライベートの大切な時間を“仕事”の時間にはしたくはなかったのだ。
午後8時ごろ、成田第一空港南ウィングの出発口に消えるラジを見送って横浜の自宅に戻ったのはもう夜中の12時近かった。
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