Webコラム

日々の雑感 176:
『治りませんように』(斎藤道雄著)を読んで

2010年6月17日(木)

 北海道の南、襟裳岬(えりもみさき)に近い人口1万1千人の過疎の町、浦河(うらかわ)にある浦河赤十字病院と、その病院の精神科を退院した患者たちが共同生活する「べてるの家」(「べてる」とは、もともと旧約聖書で「神の家」意味だが、ナチス・ドイツから障害者を守りぬいたことで有名なドイツの一地方のコミュニティの名前でもあったことから、その家に学びたいとの願いをこめて命名された)の住民たちのルポルタージュである。

 著者の斎藤道雄氏は、TBSテレビの元ディクターであり、元プロデューサーである。私自身、TBSの「News23」や「報道特集」で仕事をする機会があったころ、お目にかかったことがある。直接お話しをすることはなく、「報道特集」の部屋の机で、独り黙々と編集作業をされているお姿を遠くから拝見した程度ではあるが。
 TBS局内では、看板番組を統括するほどの地位にある、私のようなフリーランスのジャーナリストには「雲の上の人」が、社会では「最弱者」の精神病患者たちに10年ほどの年月をかけ寄り添い続けたという、その事実に、私はまず驚き、感動した。斎藤氏は本書の「あとがき」にこう書いている。
 「霧が山の斜面をはいあがっていくる夏の午後、そしてまた湿った雪が窓辺に吹きつけてくる冬の夜、私はべてるの家の人びととダイニングテーブルを囲んで、共同住居の食堂や飲み屋の小あがりで、食事をしながら、酒を飲みながら、延々とあきもせず彼らの話を聞いていた。むずかしい話をしていたわけではない。きょうはだれと会った、どんなようすだった、こんな話をしたといった世間話である。そのあいまに病気の話がまぎれこんでいた。おなじことの繰り返しのようでいながら、そして覚えきれないほど多くを聞かせてもらいながら、なお彼らの話に興味のつきることはなかった」

 それは、テレビ局のディレクターや新聞・雑誌記者たちによくみられるように、前もって用意した筋書きや構成表に沿った答えをしてくれるインタビュー相手を探し、それに「適さない相手」の話は聞き流し、ためらいもなく映像をカットしていく、筋書き通りの話が聞けたら、取材を早々と切り上げ、要領よくまとめあげ記事にし放映する、そしてもう「用済み」のその現場を2度と訪ねることもない──、よく現場で目にする、そんな「組織ジャーナリスト」たちの取材態度とはまったく対極の姿勢である。
 斎藤氏はこうも書いている。
 「敏腕な取材記者ならおなじ仕事に一年もかけなかったろう。しかし私にはそれだけの歳月が必要だった。それはべてるの家に出会い、考え、そのなかで私なりに降りてゆくために必要な年月でもあったからだ」

 私のこの「降りてゆく」という言葉が気になった。斎藤氏が、よくありがちな「組織ジャーナリスト」の姿勢とは一線を画する背景はこの言葉に凝縮されているのかもしれない。先の記述のすぐあとに、斎藤氏こう続けている。
 「おそらく、ほかにさまざまなテーマや生き方を選ぶこともできたろう。しかしくり返しべてるの家を訪ね、そこにとどまり、みんなの話を聞きつづけて記録するという日々を求めたとき、私はすでにこの社会の中心からそれ、昇る人生から降りていたのではないかと思う。ふり返ってみれば、それは選択といえるようなものではなく、はじめから歩むことが決まっていた一本の細い道だったかもしれない」

 TBSという有名メディアの社員であり、しかも「News23」のプロデューサーまで務めた人の、「この社会の中心からそれ、昇る人生から降りていた」という言葉は、私のようにフリージャーナリストとして社会的な地位も経済的条件も、斎藤氏とは対極にあると言ってもいいほどずっと最低空飛行状態の“日陰者”からすれば、あまり実感をもって伝わってこない。しかしそれは“住む世界”の違いなのである。
 テレビ局のなかで、看板番組のプロデューサーなら、さらに社内での「出世コース」、例えばもっと社内での地位の高い管理職など道は拓けていたはずである。しかし斎藤氏は、あえてそれを選ばず、「報道特集」の一ディレクターとして“取材現場”へ戻ってきた。斎藤氏の著書に感動し手紙を書いた私の妻・幸美に、斎藤氏は丁寧な返事を書き送ってきた。その中に氏自身が、その心情をこう記している。
 「ぼくがいた業界では、デスクやプロデューサーやキャスターのような『流通』業務に携わっている人のほうが力があり、有名になって成功していましたが、ぼくはやっぱり現場にいたかった」
 それは私たちのようなフリージャーナリストが“現場”にいることとは、意味あいも次元や重みも違うような気がする。私たちは、そうする以外に選択の余地がないからそうしているのだが、斎藤氏は、他にもっと「華やかな道」を選択できたのに、“敢えて”現場に戻ってきたのである。
 それが斎藤氏自身が言う“降りてゆく”ことだったのだろう。

 『治りませんように』を読みながら、ずっと私の心の奥底に残っていたのが、この“降りてゆく”という言葉である。

 “降りていく生き方”は、本書『治りませんように』の底を流れる“主旋律”だと私は思った。それは、べてるの家の創設者、浦河赤十字病院の精神神経科部長、川村敏明先生の“生き方”でもあるようだ。川村医師は、北海道大学医学部の医局という「本流からはずれ」て、片田舎の浦河にやってくる。そこで、べてるの家創設の“パートナー”となる「本流とは言い難いソーシャルワーカー」向谷地生良(むかいやち いくよし)氏と出会う。つまり二人の生き方、思想、彼らが作りあげたべてるの家の“基本姿勢”そのものが“降りていく生き方”の一部であることはわかる。
 しかし、本書を読み終えた後も、私には“降りていく生き方”の明確な輪郭が見えなかった。「それはこういう生き方なのだ」という直截な答えを私は、本書の中に見出しえなかったのだ。しかしそのヒントとなる一文は本書の中ある。

 「あきらめること。自分についてもがき苦しむこと。そこから、これでいい、そんな『ダメな自分でいい』という思いに到達できる。そしてダメな自分を受け入れたとき、ようやく足が地についたという感慨があった。それはべてるの人びとがむかしから提唱してきた、『降りていく人生』のはじまりだった。降りていくといっても、敗北ではない。むしろ病気になってよかった、病気はたいせつな財産だし、病気を含めての自分があると思えるようになったということだ。ありきたりでも人との関係のなかで生き、生かされるようになったという感慨を得たことである」

 「そのままでいいといい、問題だらけの人びとが問題だらけの日々を送り、なおかつそれで順調だといい、そうした人びとが弱さを絆につなげる生き方が、絶えることなく自らに伝え、仲間に伝えつづけているのは、あなたは生きていてもいい、存在していてもいいのだというメッセージだったということに。
 あなたは、生きていてもいい。
 べてるの家でつとに唱えられている『降りていく生き方』についても、まさにおなじことがいえる。降りていくというのは、ともすれば昇りゆくことへの反語として捉えられる。昇りゆくことがすなわちこの社会で強くなること、成功すること、大きくなること、勝ち抜くことを指し示すとすれば、降りてゆくことは、弱くなること、失敗すること、小さくなること、そして負けて退くことというイメージかもしれない。しかし、降りていく生き方はそうした表層に自らを隠すようにして、もうひとつの、これこそが本筋ともいえるメッセージを基調音として伝えつづけている。すなわち、それでもいいのだ、なおかつそれでもあなたは生きていていいのだというメッセージを」

 これらの言葉から私流に解釈すれば、“降りていく生き方”とは、「一般的な社会的通念からすれば、『最弱者』『社会の生存競争の敗北者』『役立たず』『社会のお荷物』と思われる人びとの“生”を肯定的に受け入れること。いやむしろ、そのような人たちの“生”のなかにこその“生きること”の価値と意味を見出し、『強者』『生存競争の勝利者』たちが見落とし、忘れ去っている、“生きていくうえでほんとうにたいせつなもの”を最発見していく、いやむしろ彼らから “教えられていく”生き方」なのだと思う。

 本書を読み進めるときにいちばん印象深いのは、「精神を病んだ人びと」に対する著者の “見つめる眼差しの温かさ”である。それは「病んでいる人を観察する目」でも「憐れむ目」でもない。あえて言葉にするなら、それは“寄り添う目”であり、“自分自身の“生き方”“あり方”を彼らの姿や言葉に映しだし、問い直そうとする謙虚な姿勢である。つまり、「ジャーナリスト」として上から俯瞰的に見下す「観察者」の目ではなく、自分自身に引き寄せ、“自己”という“フィルター”を通した後に、それが“言葉”として紡がれている。それは、著者の斎藤氏の“降りていく”姿勢から生まれてくるのだと私は思う。だからこそ、本書は押しつけがましくなく、むしろ読む者の心を“温かく包み込み、癒す”のだ。
 私はそこに“ジャーナリスト”のあるべき姿を見せてもらった気がしている。ジャーナリストがある事象を報道するとき、“自己”という“フィルター”を通すこともなく、ただ取材で得た断片的な情報だけを文字化または映像化し、右から左へ伝えるだけなら、それは単なる「情報運搬屋」である。「情報を他社よりも一刻も早く伝える」ことが至上命令とされる組織ジャーナリズムの世界では、そうしなければ生き残れず、また「優秀なジャーナリスト」として評価されないのかもしれない。「事実の速報性」がジャーナリズムの大きな使命の1つであり、その必要も私は認めないわけではない。
 しかし、そのような仕事は、ジャーナリスト本人に何をもたらすのだろうか。「事実」が次々とジャーナリストの中を通り過ぎていくが、その「事実」は彼自身の中に何をもたらすのだろうか。たしかに「無数の知識」は蓄積されていくだろう。しかし「情報」や「知識」だけではジャーナリストの“魂が太る”ことはないような気がする。知識や情報をいっぱい詰め込み、それを得意げにひけらかすが、肝心の“魂”がやせ細り、人間的な魅力も、温かさも感じることのできない「頭の切れる、しかし傲慢なジャーナリスト」に、とりわけ大手メディア組織の中で、私もたくさん出会ってきた。

 私は、尊敬するイスラエルのジャーナリスト、アミラ・ハスの言葉を思い出す。アミラはイスラエルの有力紙『ハアレツ』の占領地“特派員”で、長年、ガザ地区やヨルダン川西岸のパレスチナ人居住区に住み着き、アラビア語をマスターし、現地から占領下の住民の現状をつぶさに伝え続けている。その勇気ある報道は、自国民の一部から「裏切り者」「非国民」と非難されるが、「フランス国民賞」「国連ギレルモ・カノ世界報道自由賞」「アンナ・リンド人権賞」など数々の賞を受賞し、国際的には高く評価されるジャーナリストである。
 そのアミラが、私のインタビューの中でこう語っている。

(Q・あなたは以前私に、自分のジャーナリスト活動の原動力は「怒り」だと言いましたね)

「『怒り』が私の“ガソリン”です。ときどき人々が、どうしてそんなにエネルギーがあるのかと訊くんです。“怒り”です。“怒り”が私にエネルギーを与えているのです。朝、起きると、パレスチナ人の誰かが検問所から電話してきて、通過できず職場にいけないと訴える。2時間後には、また他の人が分離フェンスのゲートがあかず、オリーブの収穫に行けないという。3時間後には、ガザ出身でラマラに住んでいる友人がイスラエル兵に拘束されたと聞かされる。だからいつもこのような“不正義”のために怒りを抱いてしまう。私は自分の住んでいるラマラから、イスラエル人ジャーナリストである特権のために自由に行き来できる。自分だけそれができることにまた怒りがこみあげてくる。入植地に行くと、それはまさに植民地主義の象徴であることを目の当たりにして、また怒る。ラマラからテルアビブに行くと、イスラエル人市民が通常の生活をしている。それを見て、また怒る。だからいつも私は怒っているんです。
 その一方、私は人々との関係のなかで、自分が“豊か”になったと感じています。とりわけ難民キャンプや村においてです。私のようなイスラエル人がジェニンやラファ、ベツレヘムで、イスラエル軍の外出禁止令の下、銃撃の中でパレスチナ人の家族の世話を受けることがあります。家のなかで、家族とヘブライ語で会話している。そんな体験が私をとても“豊か”にしています。内面が“豊か”になっているということです」

(Q・“豊か”になるということはどういうことですか)

 「私はこの5、60年のパレスチナ人の苦難を顧みるとき、狭苦しく、水道も電気もない難民キャンプのようなひどい環境の中で暮らしながら、どうして人間としてあれほど美しくあれるのか、つまりあれほど他人に寛大で、優しく、ユーモアのセンスがあり自分を笑い飛ばすことができるのかと自分に問いかけるときがあります。これほど緊迫した困難な状況のなかでも、このようなヒューマニティ(人間性)、寛大性さ、人間としての尊厳を人々が保っている。それが私を“豊か”にするのです」

 アミラ・ハスは、現場で目撃し、取材した事象を“自己”という“フィルター”を通すという営為のなかで“怒り”、自己の内面を“豊か”にしているのだと思う。

 翻って自分自身も、“パレスチナ”との関わりがそうだったような気がする。
 「医者になってアフリカに行く」という幼い頃からの夢に挫折し、生きる指針を見失った青年期に出会ったのが“パレスチナ”だった。“ナクバ”(1948年、パレスチナ人たちが故郷を追われ難民として離散の生活を強いられる大惨事)、“占領”という、途方もなく巨大な“不正義”のなかで、豊かな人間性を保ち続けるパレスチナ人たちに、私は現場で出会い、圧倒された。「この人たちのことをもっと知りたい。そしてその姿を伝えたい」──それが、私がジャーナリストを志す動機だった。だから私にとって、“パレスチナ”を伝えることは、単なる「事象や情報を伝達する」作業ではなかった。凄まじいほどの劣悪な環境の中で“人間の豊かさ”を失わずに生きる人びとの中で、私は自分自身の“生きる指針”を模索していたように思う。そうしなければ生きていけないほど、当時の自分は追い込まれていたし、そうせざるをえないほど、“パレスチナ”の想像を絶する状況とそこで生きる人びとに私は感動し圧倒されていた。つまり“生きる指針”を見失い呻吟する自分という“フィルター”を通して、私は“パレスチナ”を見つめ、それによって自分を支え、自分の“魂を太らせ”てもらってきたような気がする。“パレスチナ”はだから、私にとって単なる「取材の対象」ではなく、自分がジャーナリストとして、また人間として育てられた“人生の学校”だったといえる。

 本書『治りませんように』で「べてるの家」に関わる人びとを伝える斎藤氏の文章とその行間に、不遜かもしれないが、私は“同質”のものを感じ取った。だからこそ、私は「べてるの家」で出会う人びとを丁寧に伝える斎藤氏自身の、その時々の心の動きを懸命に読み取ろうとしていたのかもしれない。

 自分の視野の狭さや無知をさらけ出すようで恥ずかしいが、組織ジャーナリズムのなかに、これほど誠実に人と向かい合い、学ぼうとする謙虚さを持ち、そしてこれほど誠意と温かさのこもった言葉で伝えるジャーナリストが存在することを、私はこれまで十分認識できずにいた。しかもその気になれば、ご本人から直接その教えを乞える環境にいたにも関わらず、無知のためにその機会を逸してしまっていたことが実に悔やまれる。いや今からでも遅くない。まだまだ未熟なジャーナリストである自分を切磋琢磨するために、こういうジャーナリストにこそ、私は薫陶を受けなければならない。

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